固執する人は自分については欠けたところばかりを注意するのに、他人についてはその恵まれたところばかりを注意する。

このように神経症的な固執する人は、自分の不運と他人の幸運とを比較する。

よく「隣の芝生は青い」という。

しかしこれは不満な固執する人の発想である。

それではいったい、なぜ隣の芝生は青いのであろうか。

なぜ神経症的な固執する人は他人の優れた点、恵まれた点ばかりに注意を集中するのであろうか。

固執する人は自分のコップのなかの水を見るときは、「半分しかない」とないほうに注意を集中し、他人のコップの水を見るときには「半分もある」とあるほうにばかり注意を集中する。

固執する人は自分については十のうち一ないと、十全部がないと思い、他人は十のうち一あると、十全部があると錯覚する。

それは固執する人はそもそも自分の心の葛藤と不安を、他人に優越することで解決しようとしたからではなかろうか。

「もっと、もっと」と言い続ける固執する人の不幸

コップのなかに水が半分「しか」ないと思う人は、不安な人である

固執する人はコップのなかに水がいっぱいでないと不安だから、半分「しか」ないと感じる。

そういう固執する人は水はいっぱいである「べき」だと思いこんでいる。

だから、固執する人はないほうの半分に注意が集中してしまう。

正確に言えば、固執する人はコップのなかに水がいっぱいでも不安なのである。

固執する人はもっとなければ不安である。

不安な固執する人は、もっともっとという強迫性に悩まされている。

自分に財産があっても、いつも不安な固執する人がいる。

固執する人はもっと財産がないということで不安なのである。

自分が得ていない財産のほうに注意が集中する。

固執する人は自分がすでに得ている財産に注意がいかない。

つまり自分がすでに得ている財産では、その固執する人は幸福を感じられない。

固執する人は自分がまだ得ていない財産で不幸になる。

あのときにあの外貨を買っていれば、と悔やんでいる固執する人がいる。

調べてみると、その固執する人はすでに大変な財産を持っている。

しかし固執する人はその得ている財産には意識がいかない。

すでに得ている財産のことを考えて安心したり、よかったとは思わない

固執する人はもっと得なければ不安なのである。

もっと得なければ不満なのである。

固執する人は自分がこの世で一番得しなければ不満なのである。

あのときにあの外貨を買っていれば儲かった「はずの利益」を考えて不幸になる。

そういう固執する人は現実にはお金持ちであろうが、心理的には貧しいのではなかろうか。

逆に現実にはそれほど財産がなくても、自分が得たささやかな財産を考えて、よかったと思う人もいる。

そのささやかな財産を考えて幸福になれる人もいる。

そういう人は現実には財産家ではないが、心理的には豊かな人である。

よく、お金持ちほどケチであるという。

その真実の程度はわからないが、わずかな財産で幸せになれない固執する人は、大きな財産でも幸せにはなれない。

心理的に健康な人は、自分に欠けているものは欠けていると認めると同時に、どんな逆境でも自分にあるものを見失わない。

固執する人の「超安定志向」はここから生まれる

不安な人は「こうでなければいけない」という非現実的な基準を持っている

したがって、固執する人はその基準に達しない部分に意識が集中する。

固執する人は生活程度でも同じである。

自分にふさわしくないほど高い基準を設定する。

固執する人はその非現実的な基準を達成しなければいけない、達成すべきであると思い込んでいる。

そこで固執する人は少しでもその生活程度に達しなければ、不幸になる。

そのレベルに達していない部分に意識が集中する。

固執する人は少しでもその生活程度に達しなければ、それを異常に意識して不幸になる。

しかし不安がなくなれば、自然とその非現実的な基準は自分の心のなかから消えていく。

不安がなくなれば、なんであのような高い生活程度を維持しなければ不幸であったかわからなくなる。

固執する人は「こうでなければいけない」と思い込んでいるのに、「こう」なれなければ心理的にパニックに陥る。

しかし「こうならなければいけない」と思い込んでいなければ、「こう」ならなくても不幸にはならない

いろいろな事情から生活程度を下げなければいけなくなるときに、心理的パニックに陥り、挫折する固執する人がいる。

固執する人は神経症になって入院したり、生活程度を下げなければいけないのに下げられないで、借金を重ねて破産する。

そこまで生活程度を下げられない固執する人は、やはり不安からその生活程度の基準が決定されている人である。

そのような固執する人にとっては、生活程度の基準は単なる生活程度の基準ではない。

固執する人はそれは自分を不安から守るものである。

したがって、固執する人が生活程度を下げるということは、単に不便に耐えるというだけの意味ではない。

自分の情緒的未成熟を外側の体裁で補足しようとする固執する人にとって、外側の変化は耐え難い。

そのため固執する人はいつも生活程度が下がらないかと不安である。

固執する人は満足できる生活程度を維持しているときも、将来を心配して不幸になる。

もし生活程度を下げなければならないようなことになったらどうしようと、いつも心配して消耗する。

固執する人は人生の諸問題を情緒の成熟ではなしに、外側の体裁で乗り切ろうとするから、心配は尽きないのである。

そのような固執する人は、生活程度についても非現実的な「超安定」を求める。

固執する人はそのような超安定はまず得られないから、生活程度が高いにもかかわらず不安で不満で、不幸である。

「ちょっとした不安」が「大きな困難」に見える固執する人の心理

シーベリーは、多くの窮状は打ち負かすのではなく、私達が大きく成長することによって乗り越えられると述べている

まさにそのとおりである。

つまり多くの窮状は、情緒の成熟を外側の体裁で補おうとすることで生じているということである。

さらにいえば、多くの窮状は情緒の未成熟故に、窮状と感じられているに過ぎないということである。

情緒の成熟した人は、来たるべき困難に備えて着々と準備はする。

しかし、決して取り乱さない。

いたずらに心配して消耗しない。

それでいて困難を直視する。

情緒の未成熟な固執する人は、来たるべき困難に狼狽して、自分がしようとすればできる準備すらしない。

固執する人は実際に困難に直面すると心理的に動揺してしまい、何から手をつけていいかわからなくなる。

そして、固執する人はどうしよう、どうしようと泣き叫ぶだけで、困難を直視しない。

固執する人は困難を直視しないが、困難を恐れ、誇張する。

情緒的に未成熟な固執する人は、不安によって誇張された困難におじけづき、圧倒されて、自分の現在の幸運の部分を忘れる。

普通の人は、不運ばかりということもない

不安な固執する人は全体として考えれば幸運なのに、不運な面ばかりに気持ちをとられすぎて、悩みつづけて一生を終わる。

情緒的未成熟を外側の体裁で補おうとする固執する人は、幸運なときにも不運を恐れて心安らかではない。

固執する人は現在が幸運でも、未来に訪れるかもしれない不運のほうに意識が集中して心が乱れる。

「気を奪われる」という表現がある。

固執する人はあることをしているときに、別のことが起きると、そのことのほうに気を奪われる。

あまりにもさっと気を奪われてしまう固執する人というのは、自我がまだ確立していないのではなかろうか。

ある人が現われると、その人に注意がいくというのはいい。

しかし固執する人はその人への注意を、自分がコントロールできるかできないかが問題なのである。

固執する人はまた人を判断する場合でも、ある人の欠点に気を奪われるということもある。

その人といるときは、腹が立って仕方ない。

固執する人は不愉快で仕方ない。

うまくその感情をコントロールできない。

欠点ばかりに注意を向けないで、別の点に注意を向ければ、それほど腹が立ち不愉快ではないということもある

しかし自我の確立がなされてはいない固執する人は、それができない。

固執する人はある一点に気を奪われる。

自分の恵まれている点ではなく、不運な点にばかり気を奪われるというのも同じである。

ないものを数えるべからず

カーネギーは、悩むことをやめて新しい生活を始めるのに大切な点を『道は開ける』のなかでいくつもあげているが、そのうちの一つに、「あるものを数えて、ないものを数えるな」というのがある。

そしてそのことを説明した箇所には同じようなことを主張、あるいは戒めた何人もの人をあげている。

ドイツの哲学者、アルトゥル・ショーペンハウエルはやはり、私達は自分の持っているものをほとんど考えないで、常に欠けているものを考えるという。

しかしこれは、私達というより、神経症的な人は、といい換えた方が正しいだろう。

そしてカーネギーはこれを「地上における最大の悲劇」と書いている。

地上における最大の悲劇かどうかは別にして、この傾向が幸せになろうとすれば幸せになれる私達の人生を不幸にするということは、確かである。

ある公務員の話である

公務員宿舎に入りながら、土地と家を買うことを考えていた。

しかしその日その日の仕事に追われて、ついつい時機を逸してしまった。

ところがそのうち土地の値段は暴騰した。

彼が買おうとした土地は、数年のあいだに三倍にもなってしまった。

固執する彼は来る日も来る日も、あのときあの土地を買っていればと嘆いた。

彼の一生の給料よりもっと多額の値上がりであった。

固執する彼は、自分はついてない、ついてないと嘆き続けた。

しかし固執する彼は、そのあいだ土地を買わなかったからこそできた豊かな生活があるという点には、目を向けなかった。

もしそのときに土地を買っていれば、たしかに土地は暴騰した。

しかし彼は土地を買わなかったからこそ、そのあいだ公務員宿舎という恵まれた環境で生活できたし、ローンで苦しめられることもなく、家族揃って旅行したり、文化的なことにお金を使えたのである。

もし土地を買っていたら、彼の楽しい家庭生活はなかった。

もしそのとき土地を買っていたら、休日に皆で食事に出かけたり、ドライブに出かけたりという生活はなかった。

土地は手に入ったが、そのあいだの楽しいアルバムはできなかったであろう。

一戸建ての家は手に入らなかったが、その代わり楽しい思い出を持てたとは、固執する彼は考えなかった。

一戸建ての家も財産であるが、楽しい思い出もまた財産である。

カーネギーは「自分の持っている信じがたいほどの資産に自分の注意を集中していれば、私達は陽気になれる」という

そして、ある食料雑貨店を経営していた人の話を書いている。

その人が店をしまい、借金を抱えて銀行にいったときである。

そこで両足がないが陽気にしている人と視線が合う。

「おはよう、いい天気ですね」と挨拶され、彼は自分には足があり、歩けるということに気がつく。

そして彼は、次の言葉を浴室に張り付けた。

「私は意気消沈していた。なぜなら靴がなかったから。通りで足のない人に会うまでは」

固執する人は「自分はもっと、幸せになれるはずだ」

どうして人はこのように自分にないものばかり数えるかというと、自分はもっと幸せになれるはずだという思い込みがあるからではなかろうか

自分はもっといろいろなものに恵まれてもいいはずだと思い込んでいるから、欠けているものばかりに気をとられてしまうのである。

会社の仕事もうまくいき、素晴らしい人と結婚し、財産形成も幸運に恵まれつづけ、友人にも恵まれる。

そうなるはずだと考えていれば、固執する人は欠けたものにばかり注意がいく。

不運ばかりに注意がいき、幸運には注意がいかない。

すべて揃っていることが当たり前の人にしてみれば、自分は会社で上司に恵まれているということは、幸せの原因にはならない。

しかしあのとき、あの土地を買っておけばよかったということは、煩悶の原因になる。

赤面恐怖症の人についても、同じことがいえる。

固執する人は赤面すると赤面を恥辱的なことと思い、赤面にとらわれてしまう。

しかし固執する人は赤面したとて、いままでの自分が変わるわけではない。

固執する人は背が半分になるわけでもなく、異常な長身になるわけでもなく、太るわけでも痩せるわけでもない。

自分の顔が歪むわけでもない。

固執する人はいままで覚えたものを忘れるわけでもない。

いままで通り歩けるし、空を見られる。

しかし固執する人は赤面恐怖症者の注意は自分の赤面に集中して、他のことを考えられなくなっている。

赤面している自分と赤面していない自分とでは、そんな大きな差はない。

いや第三者から見れば、赤面していても、赤面していなくても差などはない。

固執する人の「不満」は、「たった一つの短所」を「致命傷」に変える

他人との関係においても、同じようなことが言える

ある男性にとって、自分との関係において、大変な価値を持っている女性がいる。

愛情や思いやり、優しさにあふれた素晴らしい女性がいる。

自分のことを誰よりもよく理解してくれている女性がいる。

自分の仕事を理解してくれる。

夜は遅くなっても文句をいわない。

酒を飲みすぎるの、小遣いの使い方が多いのと不平をいわない。

もっと早く出世してほしい、それでないと親戚や隣近所に恥ずかしいなどと不満をいわない。

彼はそんな人と結婚した。

ところがその心やさしい人が一つだけ、たとえば、あまりお金を倹約しないという短所を持っている。

すると固執する人はその人の短所にばかり注意が集中して、いつも喧嘩になるということもある。

いつも、その「お金をもっと大切にしろ」ということで、いさかいが絶えない

固執する人は相手の欠点そのものが問題というよりも、その欠点の解釈が問題なのである。

俺がこんなに一生懸命働いているのに、という不満が問題である。

固執する人は自分の情緒的未成熟さが、相手の小さな欠点をおおきなものにしてしまっているということもよくある。

中には、そのことで離婚になることもある。

お互いに相手の長所に少しでも注意を向ければ、決して離婚には至らなかったと考えられるケースは多い。

相手の長所を数えていったら紙いっぱいに書ける。

短所は一つか二つである。

それでも固執する人は相手の短所が原因で離婚ということが起きる。

「素晴らしい人生」への切符を捨ててはいけない!

ある男性が素晴らしい女性と、デートのときに約束の時間を守らないということだけで別れた例がある

相手の女性は働いている。

仕事の都合で約束の時間を守りたくても守れない。

その固執する男性は、大変わがままな男性であった。

そのわがままな固執する男性を理解してつきあうことを心得ているのが、その女性であった。

その固執する男性に自信をつけるために励まし、慰め、いたわっていた。

そのわがままな固執する男性にとっては、おそらくかけがえのない女性であったろう。

しかしデートのとき時間に遅れがちということで、デートしていてもいつも喧嘩が絶えなかった。

固執する彼は約束の時間を守ることは、人間としてもっとも大切なことだという解釈を始めた。

彼はそれができないのは人間の屑だ、とまでいいはじめた。

そして二人は別れた。

もし固執する彼が、男としての自信を喪失している自分を励まそうと必死になっている彼女の心に少しでも注意を向けていたら、別れなかったであろう。

そして固執する彼は自信を取り戻し、素晴らしい人生を送れたかもしれない。

まことに、カーネギーがいうように、欠けているものを数え、備わっているものを考えないという傾向は、歴史上のあらゆる戦争や疫病に劣らず、人を不幸にする

だからこそ人は、平和な時代でも必ずしも幸福ではないのである。

相手の小さな欠点が二人のあいだで大きな問題に発展していってしまうのは、その固執する人の心のなかに、たとえば抑圧された敵意などがあるからであろう。

相手の些細な欠点が、その固執する人の抑圧された敵意を刺激するのである。

問題は相手の小さな欠点ではなくて、固執する自分の心のなかの葛藤である。

だからカーネギーが、この傾向が戦争と同じように人を不幸にする、と人々に訴えても、それだけでは人々がすぐに幸福にはならないのである。

カーネギーの本は日本でも翻訳されている。

そして多くの人が読んでいる。

では読んだ人が皆、自分に欠けていることを数えないで、自分に備わっていることを考慮して幸福になるかというと、そうではない。

問題はむしろ、そのような本を読んで、その本のいおうとしていることを納得し、それでもいざとなると本に書いてあるようには感情が動かないということである。

固執する人はそれはなぜなのかと反省することが大切である。

そして固執する人はその原因として、心のなかの深刻な葛藤に注目することができれば、幸福への第一歩を踏みだしたということである。

固執する人は限りなくたくさんある相手の長所にもかかわらず、相手の些細な短所で激怒する自分の心の中にある、抑圧された敵意に自分が気づくことが大切である。

あるいは固執する人は自分への深い失望に気づく人がいるかもしれない。

何に気づくは別にして、親しい相手の些細な短所にばかり注意が集中してしまう固執する人は、自分にも隠している何か重大な感情に気づくのではなかろうか。

古今東西の人生の名著を読む時の大切な点は、ここである

固執する人はなぜそのような名著の言う通りに、自分の感情が動かないのかという反省をしながら読むことである。

名著にしたがって生きることの障害になっている、自分の心の中にあるものを、自分に明らかにしていくということである。

アメリカの精神科医、アーロン・ベックが「うつ病者は自分に欠けているものを自分の幸せにとって本質的なものと考える」と述べている。

これも内容的には、固執する人は自分に欠けているものを数えて、自分が持っているものを数えないというのと同じであろう。

ただここで問題は、不幸だから自分に欠けているものを自分の幸せにとって本質的なものと考えるのか、自分に欠けているものを自分の幸せにとって本質的なものと考えるから不幸なのかということである。

固執する人は自分はもともと不幸だから、自分に欠けているものを幸せにとって本質的なものと考えてしまうのであろう。

「ゲスト」でありつづけようとするな

自分を常に、人に世話される立場に置いている

固執する人は自分も人の世話をしなければとか、自分はいつも世話をしてもらってばかりとか考えない。

逆に言えば、固執する人は相手だってなにも周囲の人の世話をしなければならないということはないのである。

たとえば何かの会を企画する。

すると連絡の仕方が悪いなどと文句をいうのは、こうした神経症的要求を持つ固執する人である。

相手は好意でしているので、義務があるわけではない。

しかし神経症的要求を持つ固執する人は、まるでその人に自分を世話する義務があるかのごとく相手に接する。

だから固執する人は最後には、孤立していくのである。

神経症的要求を持つ固執する人は、自分は他人からの申し出を断わったり、受けたりする立場にいるのが当然だと感じている。

アラン・マクギニスというアメリカのカウンセラーの本に次のような話が出てきた。

孤独な人達は、親友がいないと嘆いているが、その実、友達作りにほとんど身をいれていない

固執する彼らはいかに自分が不幸であるかを訴える。

幸福になりたい、幸福になりたいと叫ぶ。

しかし、固執する人はその努力をしない。

固執する人は幸福になりたいといいながら、自分の不幸にしがみつく。

幸福になりたいと叫びながら、暴力をふるう夫と別れようとしない。

固執する人のなかには、暴力をふるう夫と別れようとしました、と自分が意図したことを強調する人がいる。

しかし、固執する人は現実に別れるための行動は、何一つしていない。

いつまで経っても、こうすべきだ、ああすべきだといっていて、いっこうに実行にとりかからない固執する人がいる。

固執する人がこうしよう、ああしようといっていれば、それでできると思っているのではないかと疑いたくなる。

※参考文献:「不安」の手放し方 加藤諦三著