『風の谷のナウシカ』『魔女の宅急便』などの傑作アニメで世界的にも評価の高い宮崎駿監督は、幼いころは、とても引っ込み思案で神経過敏な少年だった。

本を読むのと絵を描くのが好きな少年は、同じ服を好み、着る服が変わることにさえ抵抗を感じたという。

当時は、自分の主張や気持ちを表に出すことが苦手だった。

そんな宮崎駿の内気で不安の強い傾向を強めることになったのが、母親の病気だった。

母親は脊椎カリエスのため、宮崎駿が小学校に上がった直後から、足掛け9年間も療養生活を余儀なくされたのである。

母親を失うかもしれないという不安の前で、母に対しては良い子としてふるまい、何も本音が言えない状況が続くことになる。

『天空の城ラピュタ』に登場する空賊の女大将ドーラは、宮崎駿の母親がモデルとなっているという。

ドーラは、いつも大声で手下を叱ってばかりいるような存在だったが、宮崎駿の母親も、病気だったとはいえ、強い存在感をもった女丈夫のような性格の持ち主であった。

そんな母親に、宮崎駿は褒めてもらうことがほとんどなかった。

その上、長期にわたって不在だったのだから、母親が、あまり良い「安全基地」として機能していなかったことは想像に難くない。

不安の強い、引っ込み思案の気質と相まって、青年期までの宮崎駿は、自分の意思を主張するのが苦手だった。

高校時代には漫画家になるという志を抱いていたが、絵では飯が食えないと父親から言われると、芸術系の大学に進むことは諦め、学習院大学に進んでいる。

ただし、大学に行くことも、漫画の仕事をやるための「モラトリアム」だと割り切っていた。

そんな宮崎駿の安全基地となったのは、兄の宮崎新氏と、中学時代の恩師である佐藤文雄先生であった。

学習院を選んだのも、兄が在学していたことが理由の一つにあった。

兄は、宮崎駿が小さい頃から、宮崎駿をいじめっ子から守っていた。

弱虫だった宮崎駿の「庇護者」だったのだ。

一方、家族以外で、宮崎駿が悩んだとき相談できる人が、佐藤文雄先生で、よく訪ねて行っては話しをし、大学に入ってからは油絵を習うことになる。

学習院には、当時、漫画同好会がなかったため、児童文学研究会に出入りした。

宮崎駿の回避的なスタイルを打破する上で、大きな役割を果たしたと思えるのは、政治的なデモに参加するようになったことである。

当時はまだ安保闘争の名残がキャンパスに残っていたころで、左翼的な空気が強かった。

最初はあまり政治に関心のなかった宮崎駿も、しだいにそうした時代の空気に感染することになる。

宮崎駿の場合、自分の出自に対する罪悪感も与っていた。

宮崎駿の実家は、戦争中、軍需工場を経営し、大儲けをしていたのである。

そのことを宮崎駿は強く恥じ、父親や母親に対しても批判的なことを口にするようになる。

やや遅れて反抗期が始まったとも言えるだろう。

それまで母親に反抗することなど考えられなかった宮崎駿は、母親と政治的な問題をめぐって議論し、彼の主張を母親がどうしても受け入れようとしないと、歯がゆさと悔しさのあまり、涙することさえあったという。

このときはじめて、母親に対して遠慮し、その支配に甘んじていた宮崎駿が、自分の存在をかけて、おのが主張を、もっとも苦手な相手に対して、ぶつけることができるようになったと言えるだろう。

それは、母親の見えない支配を解く上で、一つの象徴的な出来事となったはずだ。

東映動画に就職した宮崎駿は、春闘の社内デモでも先頭に立って旗を振る。

政治的活動からは、その後離れていくことになるが、連帯感をもって弱者のために闘おうという意気込みは、その後の作品世界の一つの基調をなすことにもなる。

弱者の中でも、とりわけ宮崎駿が、テーマとして据えるようになったのは、子どもという存在である。

当時、宮崎駿に影響を与えた作家の一人が、サン=テグジュペリである。

子どものもつ純粋さや輝きが、大人によって壊されていくことの悲しみというテーマは、サン=テグジュペリ作品のもっとも重要な要素であるが、宮崎駿はそこから強い印象を受けたという。

そのテーマは、見事な形で受け継がれ、独自の展開を遂げることになる。

このように、極めて回避的で、自分が表舞台に立つことなど想像もできなかった、ひ弱な少年は、自分以外の存在のための闘いという共同体精神に自らを一体化させる中で、回避という責任からの逃避をやめ、それを進んで引き受ける道を選んでいった。

その間、結婚して子どもができたことも与っているだろう。

しがらみに束縛され、失った自由もあったかもしれないが、責任を背負ったがゆえに、宮崎駿の中に欠けていた人とのつながりや人間的な温もりという要素が注入され、多くの人に受け入れられるクリエーターとして成熟を遂げていくことが出来たように思える。

※参考文献:回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち 岡田尊司著