劣等感そのものを先鋭化させることによって、特異な優越感に至るパターンは不幸自慢です。

生い立ちなど、自らに降りかかった不幸を、まるで自慢するかのように語る人。そして他者が慰めようとしたり、変化を促そうとしても、「あなたにはわたしの気持ちがわからない」と救いの手を払いのけるような人です。

こうした人たちは、不幸であることによって「特別」であろうとし、ふこうであるという一点において、人の上に立とうとします。

たとえば身長が低い人について、心優しい他者が「気にすることはない」「人間の価値はそんなところで決まらない」と声をかけてくれたとしましょう。しかし、ここでその背の低い人が「お前に背が低い人間の悩みがわかるものか」と拒絶してしまえば、もはや誰も何も言えなくなります。
きっと周囲の人々は、まるで腫れ物に触るようにして、私のことを大事に、いや慎重に取り扱うようになるでしょう。

そうすることによって、その人は他者より優位に、そして「特別」になれるわけです。病になった時、怪我をしたとき、失恋で心に傷を負ったときなど、少なからぬ人がこのような態度によって「特別な存在」であろうとします。

自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする。
自分がいかに不幸で、いかに苦しんでいるかを訴えることによって、周囲の人々、例えば家族や友人を心配させ、その言動を束縛し、支配しようとしている。

アドラーは「わたしたちの文化においては、弱さは非常に強くて権力がある」と指摘しているほどです。

アドラーは言います。「私たちの文化の中で、誰が一番強いか自問すれば、赤ん坊であるというのが論理的な答えだろう。
赤ん坊は支配するが、支配されることはない」と。

赤ん坊は、その弱さによって大人たちを支配している。そして、弱さゆえ誰からも支配されないのです。

もちろん、傷を負った人の語る「あなたには私の気持ちがわからない」という言葉には、一定の事実が含まれるでしょう。苦しんでいる当事者の気持ちを完全に理解することなど、だれにもできません。
しかし、自らの不幸を「特別」であるための武器として使っている限り、その人は永遠に不幸を必要とすることになります。

対人恐怖症、社交不安障害を克服したい人は「不幸自慢」していませんか?

※参考文献:嫌われる勇気 岸見一郎著