「私は本当は良い子なの。でも学校で大人がいっっぱいイヤなことをランドセルにつめこんでいるの」と言った子供がいる。

頑張っていやなことをいっぱいして無気力になった子供を、大人は「親の気持ちをわかってない」と思う。

しかし、子供は「良いこと」と「悪いこと」をわかっている。

イヤな子は、イヤな子になる理由がある。そこで、「あなたはこういう気持ちなのよね」と気持ちを汲み取ってあげると子供は素直になる。

こうして、話を聞いてくれる人が子供の幼児的願望を満たして、子供を大人にしていく。

対人恐怖症、社交不安障害やうつ病になるような人は、成長する時、側にそういう人がいなかった。

幼児的願望を満たしていない大人は、毎日毎日、心にも体にも鞭打って生活しなければならない。毎日が不満である。

幼児的願望が満たされていないのだから、不満なのはあたりまえである。

「何が不満か?」と聞かれればはっきりとは答えられない。でも、やりきれないほど不満である。

物価が高いという不満ではない。

国の政策に不満というのではない。

恋人から捨てられたという不満でもない。

何か具体的な「これ」という不満ではない。

でも、不満で不満でどうしようもない。

それは、基本的な土台のところでの不満なのである。

だから、特定の誰かに不満をぶつけようがない。

誰にも彼にも不満だという方が正しい。

特定の誰かに不満をぶつけることもあるが、それは八つ当たりである。

幼児的願望を満たされていない大人は、この不満をじっと我慢しなければならない。

だから朝起きてから夜寝るまで不満である。

その不満を我慢するということは、朝起きてから、夜寝るまで我慢するということである。

だからもし爆発しなければ最後には、対人恐怖症、社交不安障害や憂鬱になるしかない。

経済的に恵まれていても、不満な顔をして対人恐怖症、社交不安障害や憂鬱になっているしかなくなる。

この不満な顔は、周囲の人にはなかなか理解できない。

なんでそんなに不満な顔をしているのかがわからない。

不満な顔をしている本人も、なぜか、を周囲の人に説明できない。

夕食のおかずが少ないという不満なら、不満の理由を説明できる。

しかし、何もかも不満となれば、説明は難しい。

しかも、客観的には恵まれている。

幼児的願望が満たされないのに大人として毎日社会生活をするということは、常に本当の自分を隠して生きているということである。

それは大変辛いことである。

ヘビが竹筒に入って長くなっているような生き方をしているということである。

だから、辛いのはあたりまえだけれども、周囲の人はその人がヘビとは思っていない。

だから苦しいということが理解できない。

社会から期待されている役割と、その人の心理的能力とが違うときに、人は苦しむ。

対人恐怖症、社交不安障害を克服したい人は、まず自分は幼児的願望が満たされていないということをしっかり受け止めることである。

※参考文献:自分の受け入れ方 加藤諦三著