“自分に正直になる”

第五に、心の底にある不満に直面することである。

何度も言うように、幼児的願望が満たされていないことからくる不満は、漠然としていてかつ大きい。

愛されないで生きてきた人は、自分がやりたいことができなかった恨みがある。
その恨みで人生を間違える。

幼い頃十分に自分という存在が注目されなかった、自分の訴えを無視された、自分の言うことに親が耳を傾けてくれなかった、そして傷ついた。

様々な不満が心の底にある、その心の底の不満に日常生活が支配されている、もう心はほとんど壊れている。

だから、意識の上で「こうしよう」と思っても、実際にはなかなか「こう」できない。

心の底に不満があるから、「そうすまい」と意識しても、「そうしないではいられない」という気持ちになる。
心の底の不満が、その人の意識的な意図に反して満足を求めている。
その不満の影響で、人は強迫感にくるしむ。
「そうすまいとしてもそうせざるをえない」し、「気にすまいと思っても気になる」。
「理屈もへったくれもあるか、まずオレを満たしてくれ」と心の底にある不満が叫んでいる。
それが強迫感である。

カエルでもなんでも、瀕死の状態のときにはたにんのことをかまっていられない。
自分の面倒を見てくれと他人には言うが、自分は他人の面倒を見られない。

だから、「こうしたほうがいい」と頭ではわかっても、「どうしてもそのようにできない」のである。
「泣く子と地頭には勝てない」ということわざがある。
「泣く子に勝てない」のと同じように、「心の底にある不満には勝てない」のである。

幼いころ満たされているべきものが満たされないで、心の底で今か今かと満たされることを待っている。

幼い子に理屈が通らないのと同じで、この心の底にある不満には理屈が通らない。

この心の底に抑圧されている不満に支配されて、人は破滅への道を突っ走る。

したがって、破滅を避ける道は、まず自分の心のそこにある不満に直面する勇気である。
ここで自分に正直になることが、名声や権力を獲得する以上に強迫性に苦しむ人を救う。

この「心の底にある不満に直面する」ということが、「運命を受け容れる」ということでもある。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、まず自分の心のそこにある不満に直面する勇気を持つことである。

”幸せを感じる能力を持っているか”

人間が幸せか不幸せか、そとからみたのではわからないというのは、心の中に葛藤や不満があるからである。
心の中の葛藤や不満は眼に見えない。

その人がどのような解決すべき課題をこころのなかにもっているかによって、その人の幸せは大きく影響される。
「決まってくる」とまではいわないが、そういいたいくらい、心の中の未解決な問題を自分一人の力で解決することが難しいという点にある。
不可能とは言わないが、甘えの欲求を自分で満たすのは難しい。

ただ、自分は幼児的願望が満たされていないと自覚できれば、それにしたがって、様々な人生の選択ができる。

先にも書いたように、自分は誰と友達になった方がいいのか、恋人はどういう人がいいのか、職業選択はどのような考え方でするのがいいのかというような、様々な人生の指針がわかってくる。

しかし、多くの人は自分の運命を受け容れられないで、不幸な一生を送る。

外側が同じ状態にあっても、ある人は不幸であったり、ある人は幸福であったりする。
どちらであるかは、心の中の未解決の問題によって決まる。

同じ状態で、心の中に解決すべき問題を抱えていない人は幸せであり、解決すべき課題を抱えながら解決できないでいる人は不幸である。

同じようにお金がなくても、幸せな人も不幸せな人もいる。
同じようにお金があっても、不幸せな人も幸せな人もいる。
強迫的にお金を求めている人は、どんなにお金があっても不幸である。

お金持ちの娘と三十歳で失恋して、その女への執着でお金を貯める男は、どんなにお金持ちになっても不幸である。
その女への執着が断ち切れたときに、未解決の問題が解決したと言える。

よく言われるように、コップの中に半分水が入っているときに、「まだ半分ある」と思う人と「もう半分しかない」と思う人とがいる。このように見方が違ってきてしまうのは、心の中の未解決な課題による。
心の課題が解決できていない人は、コップの水は半分しかないと思う。

三歳で解決出来でいるはずの問題を三十歳でまだ解決できていない人は、コップの中の水の入ってない方に注意が行ってしまう。
つまり、「もう半分しかない」と思う。いつでもどこでも自分が中心でないと気がすまない三十歳の人は、たいてい不幸である。

同じ経済状態でも、同じような家に住んでいても、同じような学歴でも、他人に対して無限の受容を求めていない人は幸せになれる。

幸せを感じられるかどうかは、取り巻く状態よりも、心がそれを感じる能力があるかどうかである。

幸せを感じる能力とは、過去の課題を解決できている人の能力である。

他人が自分より優れていると気に入らない三十歳の人は、人と一緒にいても心安らかではない。
嫉妬したり、張り合ったり、羨ましがったり、批判的な言葉を並べたりする。

相手が自分より良くなることが嫌なのである。相手とのかかわりで自分はいつも落ち着かない。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには過去の問題を解決する必要がある。

”「神の子」として生きる決意をせよ”

フランクルは遺伝と環境の彼岸に、「第三のもの、人間の決断があり、これこそ人間にあらゆる束縛を乗り越えさせるものだ」という。
この決断こそ人間の人間たるゆえんであるとフランクルは言う。

不幸な星のもとに生まれた人に必要な「決断」は「私は神の子だ」という自覚である。
そして私は「神の子」として生きていくのだという決断である。

残念ながら、彼は幸せの星のもとに生まれた人のように幸せな人生を送ることはできないかもしれない。
しかし、それが自分の運命なのだという「決断と諦念」である。

私という存在を神が必要としたのだから、そう生きようという「決断」である。

昔読んだカルビニズムの本によれば「私たちは神の栄光を地上に増すために生きている」という。
それにならっていえば、不幸の星のもとに生まれたあなたは、神の栄光を地上に増すために生きているのである。

悩みの遺伝子を持って、かつ、愛のない環境で育ったあなたが生きる道は、この決断以外にはない。

そして、その決断によって、自分の愛情飢餓感からくる苦しみを相対化できる。
愛情飢餓感から生じる不幸も、また多くの苦しみの中の一つであると相対化できる。

そのときに、愛情飢餓感にばかり焦点を当てて、自分の人生を生きていてはいけないと理解する。
愛情飢餓感にばかり焦点をあてていては、事がだんだんと大きく見えてきてしまう。

全体を見ることが必要である。
決断することで人生を見る視点を変えることができる。

幼児的願望が満たされていない人は、視点を変えることができないまま、ついつい自分が一番の被害者と思い込んでしまう。

自分の悩みが一番すごいと思ってしまっている。
自分の悩みだけが酷いと思っている。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには神の子として生きる決断をすることである。

※参考文献:自分の受け入れ方 加藤諦三著