自分だけが疎外されている」と感じる

居場所がないとは、いろいろな文脈で使われますが、まずわかりやすい例を挙げてみます。

例:(初対面の人が集まる勉強会、あるいは同窓会にて)周りの人が大手企業に勤めていたり、出世していたり、あるいはそんな配偶者と結婚していたり。自分との大きな違いに強いショックを感じて、気後れしてしまう。

例:友人に誘われて会合に参加したが、それは趣味の会で、皆が自分にはわからない趣味の話で盛り上がっていて、自分だけがよそ者に思えた。

これらの例は、周りの人との「つながり」を感じられないケースと言えます。

他の人は「レベルの高い生活」や趣味を通してつながっている。

でも自分だけは疎外されている。

そんな状況ですね。

こんな例は実はいくらでもあるでしょう。

そしてそのたびに居場所がないを感じていたら疲れてしまいますね。

また、自己肯定感も下がってしまうでしょう。

なんだか自分だけがレベルの低い人生を送っているような気がしたリ、自分だけが劣っているような気がしたり、自分だけが人生を楽しめていないように感じたりするからです。

自分などいないほうが人にとっては快適なのかもしれない、少なくとも自分などいなくても誰もなんともない、というくらいの感じ方になってもおかしくないですね。

ポイント:居場所がないとき、周りとのつながりが感じられない。

自分はだめな人間だという感覚

先の例に挙げたような感じ方は、「自分はダメな人間だ」というところにつながり得るものです。

どこに行っても、「自分はここにいてはいけないのではないか」と感じる。唯一の「居場所」は、自分の部屋。そんな自分が嫌でたまらない。

ここに見られるように、「自分はだめな人間だ」という感覚が嵩じてくると、「自分にはこの世界に居場所がない」という感覚になってしまい、自分は生きていくうえで不適格、というような感覚を伴うことにもなるでしょう。

いじめ問題でも、同様の構造が見られることが多いです。

そこまでいかなくても、居場所がない人は悪循環に陥りやすいものです。

居場所がないを感じれば感じるほど、「自分はダメな人間だ」という感覚が強まる。

「自分はだめな人間だ」と感じれば感じるほど、「こんな私が受け入れられるわけがない」と思ってしまい、その場にとけ込めない。

この悪循環は、一見、どこから手をつけたらよいかわからないほどの「卵とニワトリ」状態になってしまいます。

「自信さえあれば、どこに行ってもとけ込めるはず」「場にとけ込めれば、自信がつくはず」という具合にです。

そして、いつまでも手に入れることができない「自信」「場へのとけ込み」を目指して、どんどん「自分はダメな人間だ」という感覚が強くなっていくのです。

ポイント:居場所がない人の悪循環は、自分の存在さえ揺るがせる。

衝撃が居場所がない人に与える影響

入社したばかりの勢いのある後輩に押され気味(20代後半)。「自分はもう先輩や上司からかわいがられないだろう。結果を求められるし、焦る」と思っている。

ここで、大切なお話をしておきます。

勢いのよい後輩が入ってきた、誰かが表彰されたり昇進したりした、などの出来事は、私たちに大きな衝撃を与えます。

このケースの場合は、「勢いのよい後輩が入ってきた」ことによって「押され気味」という実害を伴うダブルパンチなのですが、別に自分の身に何が及ぶわけでなくても、「他人がうまくいっている」という衝撃は、「うまくいかない自分」を映し出し、「みんな順調にいっているのに、どうして私はダメなの?」という気持ちになります。

そこからどんどん自虐的になっていく人もいます。

上手くいっている人に対して皆がお祝いムードに盛り上がっているなか、自分だけ「居場所」を感じられない、と思うでしょう。

この方が感じている「自分はもう先輩や上司からかわいがられないだろう」という感覚も、そんな居場所がない人の一つの表れだと思います。

さらにややこしいことに、うまくいった他人についてよくない感情を持つのは、「嫉妬」として疎まれています。

ですから、人に話して共感してもらうのも難しいでしょう。

「なんで他人の幸せを喜んであげられないの?(それほど器が小さいの?)」ということになるからです。

抑えられた嫉妬はさらにひどくなることも多いものです。

衝撃がひどいと、自分の今までの生き方や選択がすべて不適切だったような気がしてきて、さらには「なんであんな家庭に生まれたのだろう」「なんで私には他の人が持っている能力や社交性がないのだろう」と落ち込むことすらあります。

しかし、それは単に、自分の土台が衝撃のショックから不安定になっているだけで、真実を反映したものではありません。

たしかによいことばかりの人生ではなかったとしても、普段はそれなりに日常を過ごしているのです。

その、「よくなかったこと」が過大視されるのが、衝撃下の感じ方なのです。

衝撃は、深掘りせずに過ぎ去るのを待つのが一番。

イメージは、足の小指をどこかにぶつけてジーンという痛みを感じている状態。

この状態では何もできず、とにかく時が癒してくれるのを待つでしょう。

「なんて最悪の足」と足をさらにぶつけたりはしないと思います。

衝撃は全般に、深掘りするとこじれますが、「これは衝撃を受けただけなのだ」と自覚して痛みが去るのを待てば、平和な心がだんだんと戻ってきます。

新入社員が会社になれてくるなかで、自分とも人間関係ができてくるでしょう。

「自分はもうかわいがられない」というのも大袈裟な感じ方だった、と気づくと思います。

もちろん、「新人を迎えて、今の私の役割は何でしょう?」と上司と話し合ってみるのもよいと思います。

自分の役割を知る、ということは居場所がないを解消するうえで大きな効果があるのです。

衝撃は、居場所がない人とかなり関連の深いもの。

「あの人だけ上手くいっている」と思うとき、居場所がないは強く感じられるでしょう。

でも、「これは衝撃を受けたということだな」と認識さえできれば、あとは時が解決してくれます。

ただただ、日常の業務をこなしていきましょう。

「日常」は、衝撃に対してとても効果的な力を持ちます。

ポイント:衝撃は、一時的なもの。相手にしないで鎮まるのを待つのが一番。

形だけのつながり」を積み重ねても、「居場所」は感じられない

居場所がないを考えるうえで、もちろん「つながり」は大切なキーワードです。

周りの人とのつながりを感じられないので、居場所がないと感じるからです。

つまらないパーティーで楽しそうなふりをして輪の中に入ることや、興味のない話題だけれど興味があるような顔をして聞いていることなど、すべては「つながり」があるかのような「形」を示すため、と言えるでしょう。

「あの人、浮いている」と思われたくないのです。

しかし、そんな「つながっているかのような形」をつくることが居場所がないを解消するのでしょうか。

「形のつながり」をつくることには、多くの人が汲々としていることでしょう。

「自分が人から好かれる」ことを示したくて一生懸命になってしまうのです。

しかし、結果はパッとしなかったり、わざとらしくなってしまったり、疲れたり燃え尽きてしまったり、「自分なんか、どうせ無理だ」という自己不全感に達してしまっているのではないでしょうか。

居場所がないはさらに強く感じられるかもしれません。

そんな状況で、誰かが不愉快そうな顔をしたら、「ああ、やっぱり自分はなじんでいないのだ」と思うのも仕方がないでしょう。

一生懸命つながろうとしても、所詮それが「形だけのつながり」であれば、「居場所」感は得られません。

ポイント:形だけのつながりを求めることは、居場所の解決にはならない。

「すっぴん」の自分を受け入れると、居場所が生まれる

前項でお話ししたように、「形だけのつながり」を持つことができても、それが本質的に居場所がないを解決してくれるのか、というと全くそんなことはありません。

ありのまま(他人の目を意識して変えたりしない本来の姿)の自分は置き去りになっており、精神的な居場所がない、自己否定感はさらに強まると思うのです。

「生きづらさ」を感じる人も多いでしょう。

こうして考えてみると、居場所がないは、「つながり」を全く感じられないときだけでなく、「形のつながり」に振り回されているとき(ありのままに反して「形のつながり」を持とうとしているとき。

「形のつながり」に目が眩んで自分の心のやすらぎが見えないとき)にも感じるということがわかります。

「居場所がない」は、「本当のつながり」「自己受容」など、かなり重要なものと関連しています。

人間としての自分の尊厳にも関わることなのです。

「自己受容」とは、それこそありのままの自分を否定することなく「自分」として感じる気持ちのこと。

「私はこんなに器の小さい人間ではない」「私は誰にでも優しくできるはずで、あのひとのことを悪くなんて思っていない」など、ありのままの自分に、心のお化粧をしてしまうようなことはよくありますよね。

あたかも、お化粧をしないと人間として受け入れられないような気持ちです。

「自己受容」とは、すっぴんの心の自分を、「これが今の私だ。改善したいことはあるけれども、いろいろな事情を経た今の自分は、これがありのままなのだ」と認めることです。

「居場所」のキーワードは、「自己受容」。

つまりあくまでも自分の内的なものに行きつきます。

「自分は繕わなくてよいのだ」という安心した自己受容が、「居場所」をつくると言えます。

本当の意味での「居場所」を知ることができれば、たとえ誰かが「どうしてお前なんかがここにいるのだ!」と排除しようとしてきたとしても、冷静に対応できると思うのです(もちろんびっくりして衝撃は受けますから、少し心を立て直す時間が必要でしょう。

でも、そういった攻撃に対して最終的には「相手の問題」だと思えるはずです)。

ポイント:「自己受容」は、「居場所」を感じる鍵になる。

「居場所」を感じる=自己受容すること

「居場所」は自己受容と深い関係があります。

もう少し正確に言うと、「居場所がない」という感覚は、自己受容に問題があることを示している、とも言えるのです。

自己受容ができていないと、どこにいても、自分は場違いなのではないかと思ったり、人と比べて出来損ないだと感じたり、歓迎されていないのではないかと思ったり、という「居場所のなさ」につながります。

ありのままの自分では、この世界に居場所がない。

だから外見や言動を整えて、形だけ「居場所がある」かのように装うけれども、内面の「居場所がない」「自分には何かが足りない」という空虚な感覚は変わらないのです。

どう考えても相手に問題があると思えるケース、たとえば「世間が自分を疎外するから、居場所がない」としか思えないようなときでも、自分の側に「自分はこのままでよいのだ」という自己受容があるかというと、そんなことは決してないと思います。

「きっと自分側に問題があるに違いない」という感覚がどこかにあるはずなのです。

本来、最低限の社会的礼儀として、誰かを疎外するような姿勢は「下品」「未熟」「狭量」だと言えます。

それは、相手側の問題なのです。

しかし、自己受容ができていないと、そんなふうに感じることはできません。

つまり、「居場所」問題とは、自己受容の問題だと言えると思うのです。

自己受容というのは、ありのままの自分を受け入れるということです。

自己受容ができていない限り、よほど温かく恵まれた場にいるとき以外は、居場所がないと感じることになるのではないでしょうか。

つまり居場所を求めていろいろとさまよってみても「居場所のなさ」を感じるということは、その場の問題ではなく、結局、自分側の「自己受容」の問題、と言えるのです。

「自己受容」ということで言えば、居場所がないと感じる自分のことも、今は受容しておきましょう

そんな自分を否定してしまうと、いつまでも「居場所」を感じられなくなってしまいます。

自分は世の中にいてはいけないのではないか、という孤独感がある

自分が人と関わること自体が迷惑なのではないか、というこの感覚。

わからない人には全くわからないと思いますが、わかる人にはとてもよくわかると思います。

誰も自分に関心を持っていない。

自分が関わること自体、相手に迷惑をかける。

そんな感じ方です。

このような感じ方は、トラウマを持つ人に多く見られます。

考えてみれば、当たり前です。

親からの虐待、学校でのいじめなど、人から虐待されること自体が、「あなたは世の中にいてはいけない」というメッセージを持っているからです。

性的虐待を受けた人などは、「自分は汚れている。自分が体験を話すと、相手も毒されてしまう」という特有の感じ方をすることが多いです。

しかし、そう感じたとしても、自分のせいではありません。

まず、「自分は世の中にいてはいけないのか」という感じ方自体が、虐待被害の「症状」なのだということを理解してください。

そして、一般の人たちは、他人について「この世にいてよい、いてはいけない」などという軸で見ているわけではないということも知ってください。

人間はとても多様な存在です。

その多様なあり方には、それまでの事情が反映されています。

自分が虐待されたのは、自分に問題があったからではなく、虐待の「事情」によるものだった、ということが理解できれば、自己受容が少し進むでしょう。

ちなみに、「自己受容」と「自分探し」は全く違います。

よく、「本当の自分に出会いたい」「何が自分の社会的使命なのかを見極めたい」という「自分探し」をして不毛な年月を費やしている人がいます。

「自分探し」と「居場所のなさ」はかなり関連すると思います。

「自分探し」は、ナルシスティックという評価を受けることが多いのですが、実際には自己否定の一つの形なのだと思います。

今の自分を受け入れられずに、「どこかに本当の自分の生き方がある」と考えているからです。

たしかに、どこかに「本当自分の生き方」はあるでしょう。

でも、人生ろいうのは、その連続性に特徴があり、今の自分の延長線上にしか「本当の自分の生き方」はないのです。

ポイント:「自分探し」は「自己受容」と似て非なるもの。