自分で選び取った自分

幼いうちは私たちの心は素質と境遇に強く束縛される。

しかし、決して素質と境遇の奴隷というわけではない。

少なからざる部分、幼いなりに自分で選び取ってしまったものである。

大人になってから、子どもの頃の記憶の間違いや、奇妙な思い込みに気づくことがある。

たとえば、幼い頃はなんて広い公園なんだろうと思っていたのに、大人になって行ってみるとその狭さにびっくりする。

お菓子屋さんは駅よりも近いと思い込んでいたのに、実際には駅の反対側であったりする。

幼い頃は誰でも両親を大きい人だと思い込んでいる。

このように、幼い子どもは多かれ少なかれ親を間違って受け止めていたり、間違った見方をしている。

劣等感情を心の形成の基礎と考えるアドラーも、大きくなってからの心の問題は、幼い頃の思い違いに端を発することが多いので、その間違いを正さなければならない、という旨のことを述べている。

親は意図や願いを持って子どもに接する。

しかし、親の意図や願いがそのまま子どもに伝わるのではない。

子どもが解釈し、子どもが信じた形で伝わり、内在化する。

幼い子どもは、自分の願望を通して親の行動を解釈する。

「こうして欲しい、こうあったらいいな」と親に期待するが、その願望に沿わない親の行動は「私を好きじゃないからだ」「自分を嫌っているからだ」と解釈する。

子どもはまた、親の気持ちを先取りし、親の意図以上の意味を読み取ってしまうことも多い。

親子面接をすると、子どもが苦しんでいる原因が親の期待や要請ではなく、子ども自身の思い込みによることが明らかになることが多い。

「青春をあなたなりに楽しんでくれればいい、お母さんはずっとそう思っていたわよ。

無理して偏差値の高い学校にいくことなんてなかったのよ。」

「弟を守ることがあなたの役目だなんて。

そんなこと一度も期待していなかったわよ。」

「家はそんなにお金がないわけじゃなかったのよ。

欲しかったら欲しいって言えばよかったのに。」

感情を決めるのは出来事そのものではない。

出来事をどのように受け止めるかによるのであり、その受け止め方は自分で選択したものである。

たとえば、人と比べて落ち込んでしまうということも、自分で選択した結果である。

多くのトップモデルのメンターを務めた女性によると、誰もが羨む美を備えたトップモデルたちなのに意外にも自信が揺らぎやすい、というのである。

それは、彼らの比較対象は常に他のトップモデルたちだからである。

誰と比べるかは自分で選択できる。

それで落ち込むか、賛美するかも自分で決められる。

いや、そもそも比べないことも自分で選択できる。

あるいは、裏切られて落ち込むのも、自分が選択した感情である。

その状況で、怒りを選択することもできるし、裏切った人を「哀れな人」として憐憫の感情を選択することもできる。

また、私たちは理想とする自分を思い描き、この理想の自分と現実の自分とを比べて自分を評価する。

適度な理想の自己を描いていれば安定した自己評価を得ることができる。

理想とする自己像が高すぎると、自分を否定的にしか評価できない。

完璧主義とはこの一つの形態である。

どれほどちゃんとした仕事をしても、高い理想との比較では不全感にとらわれ、無能感や無価値感から免れることができない。

次のように書いた学生がいる。

「私は大学に入学する前に、服飾の専門学校に通っていた。

大学に入り、もっと服飾の勉強をがんばろうと思ったが、いざ制作が始まると自分の作品に納得できなくなった。

毎日夜十時くらいまで研究室で制作しているが、形になればなるほど嫌なところが目について作業が進まなくなった。

自分の四年間がすごく無駄に感じることが増えた。

昨日行われたクラシック・バレエの舞台衣装を作らせてもらったが、見てくれた方から衣装を誉められるたびに、気を遣われているような気持ちになった。」

自分の人生は自分で作る

親のためにこのような自分になったのだと、前に進めないでいる人がいる。

そうした考え方だと、現状から抜け出すことが困難になる。

なぜなら、親の不完全さを自分の心を歪ませた原因として理解すると、すべてが理解可能であるかのように思われるからである。

しかし、大人になれば、いや、思春期以降になれば、たんに親に反応するにとどまらず、自ら意識的な選択行動が可能である。

自分の気持ちも性格も、進学や就職なども、自ら選択した結果に他ならない。

今の自分とはこれまでの自己選択の結果なのである。

つらい、苦しい今の心の状態とは、自分でそうした状態にしているのである。

自分の問題を解決してから親になる人などいない。

親もまた、多かれ少なかれ未熟さを持った親に育てられたのであり、心に傷を持っている。

自分に対する不当な扱いは、親自身の心の傷のなせることだと、むしろ憐憫を以て受け止めることである。

聡明な学生は次のように書いている。

「中学生の頃から、親の言っていることは誤り、対処の仕方が不適切。

そう思っても親が傷つくので黙ってきた。」

幸福な状況は他者が与えることができても、幸福であるかどうかは本人に依存する。

逆境にあっても幸福を作り出す人もいれば、幸福な環境の中でも不幸を作り出してしまう人がいる。

大部分の不幸はその人自身の作品である。

自分の人生は自分しか作れない。

これからの自分についての責任は、自分しか負うことができない。

自己憐憫の螺旋階段を下りる人になるのではなく、希望への階段を上る人になろう。

それを決めるのは自分自身である。

※参考文献:「自分には価値がない」の心理学 根本橘夫著