全能感と無価値感の間で揺れる心

期待された役割を生きる人は、自己無価値感を補うために、「本当の自分」は全能であるという幻想を強めます。

全能であるという幻想によって、自己価値感を維持し、高めようとするのです。

このために、「本当の自分」には、根底の無価値感と仮想の全能感とが同居しています。

心はこの両極端を揺れ動き、ひどく尊大になったかと思うと、ひどい無価値感に陥ったりします。

確固とした自分をとらえることが困難になります。

青年期には誰でも、多かれ少なかれこうした傾向があります。

しかし、「本当の自分」をある程度表現することにより外的チェックを受けて、やがて適度なバランス状態に収まるのが通常です。

ところが期待された役割を生きる人は、もっぱら「偽りの自分」で外界に接し、「本当の自分」を表現することがありません。

このために外的検証を受けることがなく、いつまでも仮想の全能感と無価値感とが混在し続けることになります。

かつて、聡明でキュートな女子学生が、付き合っている彼氏のことで悩みを抱えていました。

彼は大学四年生ですが、卒業後は今の専門とは異なる心理学の大学院に進んで、将来は心理学の研究者になるというのです。

ところが、いっこうに勉強しません。

「心理学の大学院の入学試験に合格することは大変なので勉強しなければ」と、彼女が言うのですが、「大丈夫、大丈夫」と答えるばかりです。

彼女が心理学の本を買ってプレゼントしてあげても、その本を開くことはありません。

彼女は、彼が大学院でやっていけるだけの力があると確信できません。

それ以上に、研究者として求められる地道に物事に取り組む姿勢に欠けているのではないか、という疑惑が強いのです。

カウンセラーに、その点を見極めて、彼にアドバイスして欲しいというのです。

カウンセラーは彼と面談してみると、「自分は一般の人とは違う」とか、「クラスの奴はバカばっかり」など、根拠のない自慢や自信を披露します。

大学院の入試についてどのように考えているかと尋ねると、「まだ準備を始めていない。

三カ月もあれば十分。

今、その計画を立てているところ」と、三カ月間の計画をとうとうと語ります。

そんな彼に、「仮想の自分」を打ち砕かざるを得ない私の言葉が伝わっていくことは、ほとんどありませんでした。

その彼の姿を見ている彼女の悲しげな目を、忘れることができません。

なぜ、仮想の全能感なのか

「本当の自分」は幻想の世界に生きており、行動を伴わず、身体からさえ離れがちでした。

いかなる失敗も無能力も、「偽りの自分」の出来事なのですから、「本当の自分」がそれによって影響を受けることはありません。

「本当の自分」は現実の検証を受けないのですから、現実の自分の力量と関わることなく、何にでもなれます。

すべてを思いのままにできます。

自我と身体との分離の問題を鋭く分析したローウェンは、身体と乖離した自我がたどる道筋を次のように述べています(A・ローウェン著『引き裂かれた心と体』創元社)。

「そこでは思考や空想が、感覚や動作にとって代わり、イメージが現実感の喪失を代償しようとする。

彼らの過度の精神的活動性が、現実世界との接触にとってかわり、生きているかのような偽りの感動を生み出す。」

このように幻想としての「本当の自分」は、偽りの感動を生み出しながら、その感動に支えられて肥大化していきます。

偽りの感動によって全能感に満たされることが救いとなっているのです。

こうして、彼は、深夜の自室でたった一人、成功したアーチストとして、あるいは、賞賛される科学者として、もしくは芥川賞の受賞者として、さらには最高位まで上り詰めたアスリートとして、存在しているのです。

彼女は、世間の注目を浴びるアイドルとして、新進の脚本家として、あるいは、才色兼備の麗しき女性に変身しているのです。

しかし、「本当の自分」は、仮想の有能感だという感覚を完全に偽ることはできません。

このために、「本当の自分」が他の人に知られることを恥じ、自分の内に閉じ込めます。

デジタルオーディオは、こうした自分の仮想世界を外出時にも維持し続ける作用があります。

電車のなかでヘッドホーンによって自分の世界に浸っているとき友達に会うと、なにか知られてはいけない自分を知られたかのような当惑を覚えるのは、このためです。

幼児的全能感について

ところで、登校拒否や引きこもり、家庭内暴力などを起こす若者を、幼児的全能感がそのまま残っているためだ、ととらえる論がいまだにあります。

甘やかされ、過保護に養育されたために挫折を体験しないままに育ってしまい、幼児期の全能感が現実的なものに修正されなかったためだというのです。

第一に、親の甘やかし、過保護が全能感をもたらすと考えることがそもそも間違いです。

甘やかし、過保護は子どもに無力感をもたらすものなのです。

なぜなら、過保護になるのは、親が子どもの力を信頼できないためだからです。

過保護によって、親は子どもに、「お前には自分でやっていく能力が無いんだよ」という無言のメッセージを日々、送り続けているのです。

そんな子どもが全能感を持てるはずがありません。

第二に、過保護とは、子どもの内発的な感覚、感情、欲求を満たすのではなく、親自身の感情や欲求を満たすことだからです。

過干渉を伴っているものなのです。

親自身は「子どものため」と自己弁護しようとも、親は自分の不安のために過保護になるのであり、自分の統制欲求を満たすために過保護になるのです。

過保護、過干渉によって、子どもは自分の感情や欲求をねじ曲げられているのであり、自分をおし通せないいらだちに苦しんでいるのです。

そのいらだちが幼稚な全能感に見える行動を引き起こすのです。

第三に、過保護の養育をされればされるほど、家庭外で頻繁な挫折を体験することになります。

過保護のために、挫折を体験しないでしまったというのは全く浅薄な見方です。

保育所、幼稚園、学校では、保育士も先生も、家庭で親にされているように、自分に仕えてはくれません。

その落差ゆえに、他の子と同じように対処されること自体が、こうした子どもにとっては挫折体験なのです。

いわんや友達のなかでは、しょっちゅうぶつかり、非難され、いじめられ、バカにされ、仲間はずれにされてしまいます。

このように、過保護で育てられた子どもは、家庭外で挫折、挫折の毎日なのであり、自分の無力さ、無価値さを日々実感させられているのです。

そしてこの裏返しとして、家庭内で親を支配したり、自分だけの世界で全能感をもつことで、必死に自己価値の感覚を取り戻そうとするのです。

この無力感、無価値感のつらい気持ちに共感することから出発しないと、彼らの内面を理解することは出来ません。

過保護、過干渉の中にいる子どもは、日々の生活そのものが挫折なのです。

生き続けていることが苦しみなのです。

このつらい心をしっかりと理解し、受けとめ、寄り添ってあげることこそが、必要なのです。

※参考文献:「いい人に見られたい」症候群 根本橘夫著