引っ込み思案の人が自信をもつための初め

にせの自信というのは、たえず他人に優越していることによってのみ保持される

したがって、引っ込み思案の人はつねにさまざまな言い訳を必要とする。

しかし、真の自信は他人に優越していることを条件とはしていない。

現実との接触が条件である。

にせの自信をもつ引っ込み思案の人は言い訳が多い。

たとえば「オレはもっと大きなことをするのでなければ、情熱が湧かない」などと引っ込み思案の人は格好のいいことを言ったりする。

「今の会社じゃ、オレの真価は発揮できない」と言う

中には、引っ込み思案の人は「オレも本気でやってみようと思ったことはあるんだけど、とにかくこの会社では皆が小さくて汚すぎるんだよ。
とてもオレにはあんな卑屈なまねはできない。
それで辞めたんだよ」
などと言う人もいる。

オレが会社で偉くなろうと本気になってやらなかったのは、オレが他の人間のように卑屈なまねができなかったからだ、というのがその引っ込み思案の人の言い訳である。

自分が必死にならないこと、偉くなれないことを合理化するために、オレはそんな卑屈なまねができなかったからだ、というのがその引っ込み思案の人の言い訳である。

自分が必死にならないこと、偉くなれないことを引っ込み思案の人は合理化するために、オレはそんな卑屈なまねができない、ということをもってくる。

自分が試される機会を避ける行為を合理化することなど、だれにでもできる。

二つの自己と引っ込み思案の心理

オレはそんなに卑屈なまねができないから、ということの他に、「オレには情がありすぎるから」というのがある。

「オレも本気で事業家になろうと思った時もあるんだよ。
しかし、オレはあそこまで冷たい人間にはなれない」という言い訳をしている引っ込み思案の人もいる。

「オレは情があるから」と引っ込み思案の彼は、よく言っていた。

本当は引っ込み思案の彼は試されることが恐かった。

しかし回避の本当の理由を引っ込み思案の人は自分にも他人にも隠して、「オレは事業家になるには情がありすぎるから」と回避を合理化していた。

人間の自己には二つある。

意識されている自己と、潜在意識下の自己である。

意識されている自己にはこの合理化が通用しても、潜在意識下の自己にはこの合理化は通用しない。

潜在意識下の自己はちゃんと本当の理由を知っている

自分は試されることが恐くて回避したとか、あるいは引っ込み思案の自分はそれほど実力がないとか、潜在意識下の自己はきちんと知っているものである。

にせの自信というのは、あくまでも引っ込み思案の人のこの意識された自己についてのみの自信であって、潜在意識下の自己は、意識された自己とはちがって感じている。

「オレは事業家として成功するには情がありすぎる」と、引っ込み思案の人はいかに自分の回避を合理化しても、潜在意識下の自己は、実際の自分が自分や他人の前にさらけだされるのが恐くて回避したと知っている。

潜在意識下の自己は本当の理由が引っ込み思案であることを知っている。

したがって、にせの自信を守るための引っ込み思案の人のどのような言動も、真の自信にはつながらないのである。

「オレは事業家として成功するには情がありすぎる」と言い訳をした引っ込み思案の人は、また、「それにしても情のない人っていうのはいやだよなぁ」とも口癖のように言っていた。

つまり、自分のにせの自信を守るためにこの引っ込み思案の人が選んできたのは、”情”である。

情は防衛的価値である

引っ込み思案の彼が本気で情を人間の価値と信じていたわけではない。

彼の二つの自己は分裂している。

本気で、ということは、この二つの自己の統合がある程度なされていることである。

防衛的価値は一時的な気休めでしかない。

防衛的な価値はその人を本質的に救うことはない

情を防衛的な価値として選択した引っ込み思案の人の妻も、「あの人は、情がありすぎて仕事ができないんですよ」と言っていた。

自分の夫が引っ込み思案の妻にしてみれば、そんな卑怯な人間であってほしくないと思ったのだろう。

しかし夫がそんな卑怯な男であってほしくないという願いに引っ込み思案の妻も、負けて、現実を見る能力を失っているのである。

このように、”情だけでいきている”二人は、やがてまったく情の交流ができなくなって、別居をしてしまった。

情、情と騒ぎながら、遂に誰とも心のふれあいができなくなってしまったのである

にせの自信を支えるために選んだ防衛的価値は、その引っ込み思案の人を破壊するものでしかない。

情が大切であるということは、誰もが認めることである。

しかし、先にも言ったとおり、問題は情という価値そのものにあるのではなく、引っ込み思案の人が情という価値をにせの自信を支えるために選んだ動機にあるのである。

現実から逃げて、にせの自信で自分を支えようとしたことが、引っ込み思案の彼を破壊したのである。

情という価値そのものが大切であることに変わりはない

破壊されたといっても、一気に自己破壊がおきるわけではない。

はじめは引っ込み思案の人はさまざまな煩悶がある。

その煩悶から引っ込み思案の人は次第に無気力へ、椅子から立つことさえ億劫になる。

防衛的価値は次第に引っ込み思案の人の心を破壊していくのである。

引っ込み思案の人が自分で自分を”実際の自分以上に評価したい”という心理

よく聞く言い訳は、情の他には”正直”である

「オレは今の世の中で大仕事するには、ちょっと正直すぎてだめだよ」

こういう引っ込み思案の人もいる。

自分は野望をもっている、したがって小さな日常的な仕事をやるには適していない、しかし今の世の名で成功するにはウソをつかなければならない、自分にはそれができない、したがって今は大仕事を始められない、という論法である。

会社の小さなことなどやっていられるか、自分は大きいのだ、というのがこの種の言い訳をする引っ込み思案の人の共通性である。

”本当の自分”は、大仕事をやる人間なのである、ところがウソをつくのが嫌だから引っ込み思案の人は”本当の自分”として生きられない、となる。

もちろん、本当の自分などと言っているものには、何の実体もない

他人に引っ込み思案の人は高く評価してもらいたい、自分で自分を高く評価したい。

そうした願いに負けて引っ込み思案の人は現実との接触を回避してしまうことが、悲劇の出発点なのである。

他人に実際の自分より引っ込み思案の人は高く評価してもらいたい、自分で自分を実際の自分以上に高く評価したい、という願望の根底にあるものは何であろうか。

それは恐怖である。

小さい頃、親から一貫性のない教育を受けて、同じことをしてもほめられたり、叱られたりしてきたからである

親に対する恐怖は、引っ込み思案の人に成長してからは他人に対する恐怖に転移していく。

言い訳する引っ込み思案の人は、実際の自分より高く評価してもらえなければ、生きていかれないように感じているのである。

かくて現実は引っ込み思案の彼にとって恐怖となる。

小さい頃、親は自分の存在を脅かした。

同じように現実は自分の存在を脅かすものとなってしまった

親が現実のすべてではないが、小さい頃は自分の現実とはつまり親だったのである。

親は自分の言うことを聞かなければ、ものすごく怒った。

小さい子どもは、この恐い現実からどうやって自分を守ろうかと悩み、次第に引っ込み思案な防衛的な姿勢を身につけてしまう。

自分の判断や感じ方を捨てて引っ込み思案な小さい子どもは、いつも怒る不機嫌な親にとりいることを考える。

不機嫌で欲求不満の親は、自分の判断や自分の感じ方を捨てて、親の気に入るように行動する引っ込み思案な子どもを”よい子”と信じる。

過剰適応の子どもの内面は、恐怖で満たされている

その子の現実認識は、このようにしてはじまる。

成長して親以外も自分の現実に入ってきた時、すでに引っ込み思案なその子の現実認識の方法はできあがっている。

現実は引っ込み思案の自分の存在を脅かすものでしかないのである。

本当の自信にとって必要な、自分で考える能力、自分で判断する能力は、小さい頃に親への恐怖でつみとられている。

恐怖におびえて育った引っ込み思案の子どもは、にせの自信をねつ造するしかない。

必要なことは、引っ込み思案の彼にとって現実はけっして自分の存在を脅かすものではないのだ、と現実の認識をあらため、その新しい現実認識にしたがって行動することなのである。

自分の感じ方を変えていくことが、真の自信に通じていく道である

小さい頃、私たちはサンタクロースがやってくると信じていた。

しかしそんなことはないのだと、成長してから認識を変えた。

同じように、引っ込み思案の人は自分の現実認識がまちがっていたと知ったら、変えることである。

やがてサンタクロースがこないと感じられるように、引っ込み思案の人は現実は自分の存在を脅かすものではないと感じられるようになる。

あの人にバカにされたくない、そう感じることが、現実におびえるということである

引っ込み思案の人はあの人にバカにされたくない、バカにされてたまるか、と肩ひじを張る。

現実におびえて引っ込み思案の人は防衛的になっているからである。

しかしよく考えてみれば、その人は引っ込み思案のこちらの実情を知ったからといって、どうということはないかもしれない

こちらが何をやっても、相手は引っ込み思案の自分に関心を示さないかもしれない。

バカにされるとか、尊敬されるとか言う前に、そもそもこちらに関心がない人だっている。

その人にむかって、引っ込み思案の人は実際の自分を知られまいと肩ひじ張っているということがある。

小さい頃から甘やかされて育った引っ込み思案の人は、世の中の人が皆、母親と同じように自分に関心を示すと錯覚している。

大人になっても”小さい頃の理想”にしがみつきつづける引っ込み思案の人へ

たとえ相手が実際の自分を知ったとしても、相手が自分を軽蔑するとはかぎらないのだ

実際の引っ込み思案な自分を知って、より親しみを感じてくれるかもしれない。

ある人は今まで何人かの親しい友人たちに、他人には知られたくない自分の欠点、弱点についてしゃべったり、手紙に書いたりしたことが何回かある。

親しい友人はある人のことを洗いざらい知っている。

しかしまだ親しい友人である。

自分の弱点を語ってこわれた友情は一つもない

そんなものである。

こんなことを知ったら、引っ込み思案の人はきっとあいつはオレと付き合わなくなるにちがいない、と思っても、案外むこうはさらに親しみを感じたりする。

こんなことを知ったら引っ込み思案の人は付き合ってくれないのではないか、と思いつつ友人と付き合っていることがある。

それが現実に脅かされているということである。

いつもビクビクしている人は、現実を恐れている人である

ところで次に考えられるのは、こちらの弱点を知って、私たちから去っていく人もたしかにいることである。

しかし実際の引っ込み思案の人の自分を知って去っていく人と、何でつきあわなければならないのだろう。

自分を偽ってまで、ある人と付き合ってもらいたい、ということはどういうことであろうか。

実際の自分を引っ込み思案の自分が軽蔑しているということである。

引っ込み思案の人のナルシスティックな夢は、人を”退行”させる

「自分を尊敬せよ」という格言がある。

それは、自分を尊敬している人は自分を偽ってまで、ある人と付き合いたいなどという欲求をもたないからである。

実際の自分を偽ってまで、引っ込み思案の人はある人と付き合いたいというのは、実際の自分を卑しめている。

そこまで卑屈になることはない。

そこまで自分を引っ込み思案の人は卑しめてはならない

実際の自分を偽って、ある人と付き合うということは、本当の自信をさらになくし、にせの自信をさらに強めるということになる。

いよいよもって、引っ込み思案の人は自己の統合性が失われることになる。

心のどこかで実際のありのままの引っ込み思案の自分を軽蔑していると、このようなことになる。

実際の自分を知って去っていく人には、去ってもらうほうがよい。

自分にとって重要であった人が、自分から去っていくならば、当然私たちは傷つく

しかし引っ込み思案の人はそのことによって、にせの自信を失っても、本当の自信はついているはずである。

もし自分を偽ってもある人との関係を維持したいと願っている引っ込み思案の人は、自分は心の底のどこかで実際の自分を軽蔑しているのだな、ということをまず自覚することである。

そして、なぜ自分は心の底では引っ込み思案の自分を軽蔑するようになってしまったのかを、じっくりと考えてみることである。

小さい頃、引っ込み思案の自分に過大な期待をかけたからであろう。

自分が描いた理想の自分が、引っ込み思案の人にはあまりにも大きすぎたのである。

そして成長したが、その理想の自分を達成することはできなかった。

その挫折感から引っ込み思案の人はまだ立ち直れていないのである。

いや、立ち直れていないというよりも、引っ込み思案の人は本気ではまだその挫折を認めていないのである。

その挫折から引っ込み思案の人は完全に立ち直れていないということは、その挫折を本当には認めていないからである。

ここで大切なことを私たちは知らなければならない

引っ込み思案の人は自分の挫折を心底認めることが、自分を尊敬する方法なのである。

私たちが心のどこかで引っ込み思案の自分を軽蔑しているのは、自分の挫折を心のどこかで認めていないからである。

心のどこかで自分を軽蔑している引っ込み思案の人は、小さい頃の自分の理想像の達成に失敗し、その失敗を未だに認めることができないでいる人なのである。

その理想像があまりにも理想的すぎて、引っ込み思案の人はとうてい達成できないものであったにもかかわらず、大人になっても、その理想像をひきずって歩いているのである。

さて次に、それではなぜ、引っ込み思案の人はそのようなとんでもない理想像を抱いたのであろうか。

それは本人があまりにもナルシシストであったからである

その理想像は、現実に照らし合わせて理想であるというよりも、むしろ引っ込み思案なナルシスティックな夢であったのである。

もしそれが引っ込み思案なナルシスティックな夢ではないとすれば、成長するにしたがって変化しているにちがいない。

現実に立脚した夢は人に勇気を与えるが、ナルシスティックな夢は引っ込み思案の人を退行的にする

非現実的な自我の理想像にしがみついている引っ込み思案の人は、いまだに自分のナルシシズムを克服できないでいる人なのである。

では、なぜそんなナルシスティックな自我の理想像をもってしまったかといえば、それは引っ込み思案の人が親の過大な期待にこたえ、親に認めてもらいたいため、というようなところまでいくであろう。

引っ込み思案の人の「前向き」より「後ろ向き」の不安が先にくるのはなぜ?

心の底のどこかで自分を軽蔑している人は、実際の自分では生きていけないと思っている

しかし、それは逆である。

ナルシシストな引っ込み思案な人はやがて行きづまり、憂うつな毎日を送るようになる。

実際の自分を引っ込み思案な人はそのまま認めれば、生のエネルギーは湧いてくる。

心のどこかで実際の自分を軽蔑している引っ込み思案の人は、まず自分が小さい頃からどのようなナルシスティックな自我の理想像をもったかを反省し、さらにその達成についてどのような挫折があったかを振り返り、もう一度正面きってその挫折を見つめることである。

その挫折から眼をそらさず、はっきり見つめることによって、自分を尊敬できるようになる

そうすれば、実際の引っ込み思案な自分を偽っても、ある人との関係を維持したい、などという愚かな欲求は消えていく。

現実に脅えている引っ込み思案の人は、小さい頃、自分の周囲からさまざまなことを要求された人ではなかろうか。

小さい頃、自分の世界は引っ込み思案な自分にいろいろな要求をすることを経験する。

すると、現実とは引っ込み思案な自分に過大な要求をするものだと思い込んでしまう。

しかし、小さい頃、経験する世界とは所詮、親でしかない

親以外に重要な現実はあまりないだろう。

それはちょうど、小さい頃に犬にかまれた引っ込み思案の人が、大人になっても犬を恐がっているのと似ている。

小さい頃に引っ込み思案の人は犬にかまれて以来、犬は恐いものと思い、犬を見るとおびえていた。

犬をみればかまれはしないかと、逃げていた。

そして逃げるたびごとに、引っ込み思案の人は犬に対する恐怖心を増していた。

しかし、すべての犬が私たちにかみつくわけではない。

犬は犬でしかないのである。

現実は現実でしかない。

犬を恐がっている人は、やさしい犬に対しても恐怖心を抱く

同じ犬に対してある人は「わぁ、可愛い」と言ってなでようとするし、ある人は恐がって逃げようとする。

現実を恐がって現実から逃げていた引っ込み思案の人は、現実に接触しなければならない。

犬を見て逃げていた人は、犬を可愛がってなでることである。

ナルシスティックな夢にしがみついて、自分をこころのどこかで軽蔑している引っ込み思案の人は、恥の感覚に支配されている。

恥じをかくことを引っ込み思案の人は恐れている。

どうしたら恥をかかないですむか、引っ込み思案の人はそればかりに気をとられて、何かを積極的にやろうという前向きの意欲がでてこない。

自分を偽りながら引っ込み思案の人は他人と付き合い、しかも恥をかいてはいけないと身体を硬くしている。

ナルシシズムと恥とはきわめて深く関係している。

明日の仕事がうまくいくかどうか、それが気になって眠れないというビジネスマンもいる

引っ込み思案の彼にはうまくやってやるぞ、という前向きの意欲がでてこない。

それよりも、引っ込み思案の彼はうまくいかなかったらどうしようという、後ろ向きの不安をもつ。

うまくいかなかったらどうしよう、というのも、引っ込み思案の彼はうまくいかないと恥をかくことになるからだ。

もちろん恥をかくと思っているのは当の引っ込み思案の本人だけで、周囲の人はそれほど特別な感情をその人にもつわけではない。

明日の仕事を考えると不安で眠れないという人の中にも、恥の感覚に支配されている引っ込み思案の人が多い。

失敗したら恥ずかしいということである

にせの自信をもっている引っ込み思案の人は、どう頑張っても、本当の意欲は湧いてこない。

本当の意欲とは、現実に対する挑戦の気構えである。

なぜかと言えば、意識されている自己がどうであれ、潜在意識下の自己は引っ込み思案なナルシシズムと恥の感覚におかされているからである。

ナルシシズムと恥の感覚を動機として動きながら意識されている引っ込み思案な自己が、その行動を合理化しているのである。

もう一度最後に大切なことをおさらいしたい。

自分の挫折を心底認めることが、自分を尊敬する方法なのである。

※参考文献:『自信』加藤諦三著