傷つき競争

私たちは他の人の何気ない言葉や行為、何気ない態度に傷つけられることがあります。

とくに思春期から青年期の心は、とても傷つきやすいものです。

ちょっとしたことで、心がかき乱されるばかりでなく、生活全体に揺らぎが生じてしまいます。

青年期には、心の傷つきやすさを競っている面もあります。

傷つきやすいのは、感受性が豊かであるとか、繊細な心の持ち主であるとか、心が純粋であることの証拠だ、などと感じるからです。

早く大人になりたい。

大人になったら、傷つきやすい心から抜け出せるから。

思春期にそう思った人も少なくありません。

でも、大人の心もそんなに変わるものではありません。

大人も傷つきます。

親がなぜこんな言葉にこれほど感情をあらわにして怒るのか、とびっくりした経験をきっと思いだせるはずです。

子どもと同じように、大人も劣等感を刺激されたり、自尊心が傷つけられたりするからなのです。

ほとんどの人が、「自分は傷つきやすい人」と思っています。

そして、相当多くの人が「自分こそ世界で一番傷つきやすい」とさえ思っています。

他の人から見ると滑稽ですが、ひげもじゃの男でも、筋肉隆々とした男でも、「自分は傷つきやすい人」だと思っていることが少なくないのです。

そして、また、多くの人は、自分以外の大多数の人を「無神経な人」だとも思っています。

無神経な方が楽に生きられるとも思っています。

「無神経な人」とバカにしながら、同時にその強靭な心に嫉妬しています。

しかし、人が外に見せる顔と、内面は異なります。

本当に親しくなり、その人の内面に入り込むと、明るくて屈託がないと見えた人が、実際には傷つきやすいことを知って、びっくりすることが少なくないのです。

傷つきたくない

傷つきたくないために、私たちはいろいろな防衛機制を用いています。

それが、生活のベースになっている人もいます。

自分自身にさえ、傷つくことに対する防衛を行っています。

たとえば、試験のときに、自分の出来具合を低く見積もっておくということをしなかったでしょうか。

低く見積もっておけば、じっさいに点数が低くてもそれほど傷つかなくて済みます。

逆に、ちょっとでもそれよりも点数が高ければ、本当は自分は能力があるんだ、と思うことができます。

人間関係では、お互いに深く入り込まないことで、傷つくことを避けようとします。

尊大感と卑小感を持ちながら、本音では語らない。

人の中では嫌われないよう演技する。

そんな姿が思春期から青年期の少なくない人の内面の姿です。

本当は自分が傷つきたくないためなのに、お互いの心に入り込まないことを「やさしさ」だと思っています。

そして、若い世代では、これが一般的な付き合い方のルールになっています。

たとえば、同年齢の友達にも敬語を使う人がいますが、これは、敬語によって、相手に親し過ぎる関係に入り込まないようにと、けん制しているのです。

女性では、断定的な言い方を避けて、歪曲な言い方をしたり、語尾をあいまいにする人がいます。

断定的に述べると、自分の言葉に責任が生じます。

責任を負うことで、傷つく可能性があります。

これを避けようとする姿です。

電話で直接話をするよりもメールが好まれるのも、傷つきが少ない関係だからです。

直接、面と向かって言われるよりも、衝撃の程度が少なくてすみます。

読みたくなければ削除することにより、無かったことにできます。

恋人と一緒にいてさえも、傷つきあわない距離を保とうとします。

休日に一人でアパートにいるのは寂しいので、恋人にそばにいて欲しい。

でも、恋人がアパートに遊びに来ても、二人でボーッとビデオを見ているか、雑誌を読んでいるということになります。

結婚ではなく、同棲が好まれるのも、同じ心理が含まれます。

結婚すれば永続的な責任が伴うので、傷つけ合ってもぶつからざるを得ない場面が多くなります。

同棲なら、適度に距離を保つことによって、傷つくぶつかりあいを免れることができます。

セックスさえも、心が傷つかないための防衛として用いられることがあります。

実際には愛に疑惑のある心とは裏腹に、身体の交わりは「通じ合っている」という幻想をもたらすからです。

傷つかないためにと、銀色夏生氏が鋭く詠っています。

愛が少ない方が勝ち
情に負けない方が勝ち

(『君のそばで会おう』のなかの「ひどい別れ」から抜粋、角川文庫、1988年)

若者の傷つきやすさ

新入社員を注意したら、次の日出社しない。

出社しても、何日もぶすっとしている。

書類の修正を求めると、自分が全面否定されたかのようにいじける。

酒の席での戯れ言を真に受けて傷ついている。

若い社員には腫れ物に触るように気を使って接している、という声も聞きます。

若い研究者のなかでは、討論が成り立たないということがあります。

対立する意見を言われると、自分という人間自身が批判されたかのように感じて、気分を害してしまうからです。

教師は、生徒を叱るとき気を使います。

ひどく落ち込んでしまったり、親に訴えたり、叱られたことをずっと根に持って恨んでいるなどということがあるからです。

繊細でちょっとしたことで傷ついてしまうわが子に、不満といらだちを感じている親もいます。

スポーツ少年団のコーチは、子ども達を叱咤激励すればしおれるばかりで、従来の指導の仕方ではやっていけないと言います。

若者に接する多くの大人が、子どもや青年の傷つきやすさに戸惑っています。

外界に接するにはあまりに傷つきやすいために、家に引きこもる若者もいます。

外出しようとすると、パニック障害に襲われる若者もいます。

傷つきやすい心が、拒食症や過敏性腸症候群など心身症的症状をひきおこしている若者もいます。

傷つきやすい自分を守ろうとして、フリーターやニートという地位を選択する若者も増えています。

正社員であれば正面から能力が問われますが、それに応える確信が持てないのです。

自分の能力のないことがあからさまになることを恐れているのです。

フリーターなら、多少仕事が出来なくても大目に見てもらえます。

自己価値感が脅かされそうになれば、簡単にやめられます。

こうした青年達をだらしがないとぼやき、切り捨てるのではなく、若い青年期には自分にもそうした面があったことを謙虚に認め、彼らの心に共感的に寄り添い、理解しようとする姿勢が求められます。

現代の若者が傷つきやすさを乗り越えるためには、一昔前とは異なる困難な状況があるのです。

※参考文献:傷つくのがこわい 根本橘夫著