心配性を克服する初め

予期不安・「こうなるのではないか」という不安

心配性の人は自分を責め、低い自己評価に苦しみ、矛盾した心理に悩む。

そして不安な心配性の人になる。

人と会う前から心配性の人は「会うのはイヤだな」と思う。

会ってみなければイヤだか楽しいかはわからない。

しかし会う前から、心配性の人は「あの人とは仲間にはなれないのではないか」と思う。

だから未知の人に会う前から心配性の人は不安な緊張をする。

会う数日前から心配性の人はイヤでイヤで何をしても楽しくない。

会っているときには緊張して居心地が悪い

心配性の人は人からよく思われたいのだが、接したらよく思われないと思うから人を避ける。

よく人を心配性の人は避けるから、心ならずも孤独になる。

何かあったとき、心配性の人は「自分はこうなるのではないか」という不安が強い。

優れた臨床医であるフランクルの言う「予期不安」とか「期待不安」と言われるものである。

たとえば、自分ははじめての人に会うと赤面するのではないかと不安である。

その不安の心理から心配性の人は赤面するにちがいないと思い込む。

こういうことがあると心配性の人は自分はこうなるのではないかと不安になり、その不安の心理から「自分はこうなるにちがいない」と思い込む。

「思い込み」のうらには不安の心理が働いている。

人前であがってしまって心配性の人は用意していたことが言えなかった。

そして恥をかいた。

すると「また今度、人前にでたときには、あのようなことが起こるのではないか」という心配性の人は不安と思い込みがある。

「また、あのようなことが起こるのではないか」という心配性の人は不安と恐れで、何もしていないのに疲れてしまう。

不安と恐れで心配性の人はエネルギーを消耗する。

頑張っても「また褒めてもらえないのではないか」などと心配性の人は悲観的予測をするから、無力感を持ってしまう。

寝る前から、「今夜も寝られないのではないか」という予期不安に苦しむ

心配性の人は人前であがるのではないか、失敗するのではないかとたえず予期不安に悩まされる。

失敗するという「不安からの思い込み」が心配性の人は強いから、一回成功しても「次はダメだろう」と思う。

成功が心配性の人は自信につながらない。

つまり心理的に心配性の人は過去に囚われている。

「そのうちよくなる」という期待がない。

心配性の人は思い込みがコミュニケーションを阻む

要するに、いま現在に反応していない。

無になっていないということである。

相手の言う事も、心配性の人は無になって聞いていない。

すでに自分の言う事は決まっている。

相手は自分のことをこう思っているという心配性の人は思い込みがある。

だから相手が何を言っても、心配性の人はすでに事前に思い込んでいるように受け取ってしまう。

相手は自分をバカにしていると心配性の人は思い込んでいる。

すると相手が何を言っても心配性の人は「バカにして言った」と受け取ってしまう。

前日の天気予報で「明日は暑い」と思い込むと、当日になって涼しくても暑いと思い、「暑いですね」と相手に言うようなものである。

言う事があらかじめ決められている

いまの外気の温度に体が反応していない。

人と接触することを心配性の人は避けるから余計、人が自分にどう反応するかということについては思い込みが優先する。

「失敗すまい」と心配性の人はするから、余計いまに反応しない。

何か失敗すると怖いから、心配性の人はいつも身構えてしまう。

警戒心が心配性の人は強い。

するとどうしても心配性の人はいまに反応しないで、先入観でものごとに反応する。

すでに自分のなかにできている脳の回路を刺激が通るだけ。

人の話を心配性の人は素直にそのまま聞くということができない。

自分を守ることに心配性の人は意識が集中しているから、人の話を聞いていない。

人と話をするときには、心配性の人は人の話を聞く前から、すでに自分は何を言うかが決まっている。

ちょうど根回しがすんでいる会議みたいなものである。

会議はセレモニーであって、そこで何かが新しく決まるわけではない

人に会う前からもう心配性の人は「今日は暑いですね」と言うことを決めている。

そして人と会って話を始める。

こちらが「今日は風がありますね」と言っても「そうですね」とは返ってこない。

「今日は暑いですね」と返ってくる。

会話が心配性の人は成り立たない。

コミュニケーションができれば先入観とかいうものは、いまの相手とふれていないということである

目の前にいる相手と心配性の人はコミュニケーションしていないということである。

人が怖ければ心配性の人は人とはふれあわない。

警戒心が強ければ心配性の人は人とはコミュニケーションできない。

自分を守ることに心配性の人は意識が行ってしまって、その場にいる人とふれていない。

「空」で心配性の人は生きてきた。

ただ時間に追われて心配性の人は生きてきた。

心配性の人は「好かれている」という確信がない

恥ずかしがり屋の人に近づくのが難しく、また人と一緒にいて居心地が悪いということを説明した

当然のことながらこれからわかることは、心配性の人は人といて打ち解けないということ。

山の中にひとりでいたとする。

ある人が来てくれた。

自分が相手を好きで、相手も自分を好きだと思えば、過剰な接待をしない。

相手が自分を好きだという確信どころか、心配性の人は逆にほんとうの自分を知ったら相手は自分を嫌いになると思っている。

自分がこの山のなかの森が気に入っていれば、この森のなかにいること自体が楽しいのだから、お水一杯出すことでよい。

ヨットが好きな人がヨットに人を誘ったら、船上で過剰なごちそうはしない。

それと同じである。

自分がこの森を気に入らないなら、この森を嫌いなら、心配性の人は来てくれたお客さんに過剰な接待をする。

森にいること自体で満足しないと思うから、心配性の人は申し訳なくて過剰な接待をする。

「楽しませないといけない」と心配性の人が思うのは、自分が相手を嫌いだから。

また、この人は自分を嫌いなのではないかと心配性の人は思うから、おべんちゃらを言う。

小さい頃に心配性の人は親を喜ばせなければ自分は拒否された。

そこでいつも親におべんちゃらを言っていた。

人は相手が自分を好きだということに確信が持てるから、相手との関係に自信が持てる。

気を遣うことがない。

相手といて楽しい。

その確信があるから、怯えないで自分が言いたいことも言える

自分がほんとうに思っていることを素直に言える。

「これを言ったら嫌われる」と心配性の人は思えば、思っていることも言えない。

たとえば恋愛でも、その確信があるから嫉妬しない。

すねることもない。

妬むこともない。

嫉妬の激しさは、その確信と反比例する

相手が自分を好きだという確信があればあるほど嫉妬しないし、確信がなければないほど嫉妬する。

その確信があるから、相手が自分以外の異性を褒めても安心して聞いていられるのである。

そして自分にとって大切な人が、自分のことを好きだと確信できるから、ほかの人と一緒にいてもリラックスしていられる。

自分にとって大切な人が、自分を好きだから、その人以外の人に嫌われることがそれほど怖くはない。

じつはその最初の安心感を与えてくれるのが親なのである

いや親の役目なのである。

子どもはその安心感を持って外の世界に出て行く。

だからなんとか外の世界でやっていける。

そして、その安心感が一緒にいる人に安心感を与える。

だからその人の周りに、人が集まってくる。

逆になんとなく一緒にいて落ち着かないという心配性の人もいる。

それはその人が心理的に葛藤を抱えているのである

それが相手に感じとられる。

だから、その人と一緒にいても心配性の人はこちらがなんとなく落ち着かない。

利益につながらなければ、心配性の人はその人の近くに好んで行こうとはしない。

自分にとって大切な人が心配性の人は自分を認めていない。

その最初の安心感を心配性の人は持たせてもらっていない。

心配性と人間関係の酷さのなかで

恥ずかしがり屋の人は従順の裏に敵意がある

心配性の人は心の葛藤に苦しんでいる。

臆病と偽りの優越感。

他人より優れたい、しかし心配性の自分は他人より劣っていると感じている。

それだけ優劣に心配性の人は敏感だということである。

それだけ優劣で心配性の人は評価をされて生きてきたということである。

成長の過程で心配性の人は人柄とか、やさしさとか、思いやりとか、そういったものは何も評価の基準としてはあがってこなかった。

そのうえで心配性の人は「おまえはいかに劣っているか」ということをたたき込まれたのである。

どんなに社会的に優れていても、ずるい人は評価されないという雰囲気のなかで育っていない

優れていてもずるい人に対して、「私はあの人嫌い」と言う人が心配性の彼の周りにはいない。

優れているが冷たい人よりも、劣っていてもやさしい人に恋する人がその心配性の人の周りにはいなかった。

そうした人間環境のなかで心配性の人は育ってしまった。

そうなると大人になって、心配性の人はずるい人でも優れていると、その人のことを尊敬してしまう。

卑怯な人が立派な人に見えてしまう

そしてその人に劣等感を持つ。

ずるくて優れている人に心配性の人は卑怯になる。

尊敬に値しない人を心配性の人は尊敬し、尊敬に値する人を尊敬しない。

こうして人間関係を心配性の人は間違え、さらに人生を間違えて生きていく。

恥ずかしがり屋の人ばかりではないが、人生が行き詰った人は、酷い人間関係のなかにいる

恥ずかしがり屋の人は助けを求められないというが、そもそも心配性の彼らの人間関係は困ったときに助けあうような人間関係ではない。

恥ずかしがり屋の人間関係は酷い。

優秀かもしれないが、心配性の人を利用することがなんでもないような人たちばかりが周囲にいる。

そして自己評価が心配性の人は低いから、その優秀でずるい人に利用されるだけ利用される。

飛んで火に入る夏の虫。

それでもいままで心配性の人は生きてきたのである。

だから自分に心配性の人は自信を持つことである。

「私は酷い人間関係のなかで、よくここまで生き延びられた。これはすごいことだ」と自分に言い聞かせることである。

そう思い返してみれば「酷かったなあ、つらかったなあ」ということが多いはずである

心配性の人はだから「よくやった」と自分を慰めることである。

見えないものが見えたとき、心配性だった人は体から力が抜ける。

ホッとして不安な緊張がほぐれる。

恥ずかしがり屋で生きるのがつらい心配性の人は、他人も自分もみえていなかった。

ただそれだけのこと

だからそんなにつらかったのである。

自分について心配性の人はいろいろなことを知らないだけなのである。

知っては困る人が心配性の人の周囲にはたくさんいる。

恥ずかしがり屋の人が尊敬しているような人は、まず尊敬に値しない。

それは、自分は優れていないという心配性の劣等感を持っているからである。

どうしても社会的に優れた人を尊敬してしまう

その人がどんなに卑怯でも、どんなに冷たくても、心配性の人はその人が社会的に優秀なら尊敬してしまう。

劣等感とはそういうものである。

今、もしあなたが心配性の人で自分は恥ずかしがり屋だと思うなら、あなたがビクビクしている人にびくびくする必要などどこにもない。

その人に心配性の人は認めてもらいたいと思っている人などに認めてもらう必要は、どこにもない。

その人に認めてもらわないと、何かあなたの人生で不都合なことがありますか?

その冷たい人に認めてもらおうとして、心配性のあなたは間違った努力をしてきた。

今、もしあなたが心配性の恥ずかしがり屋で生きるのがつらいなら、いまあなたが認めてもらいたいと思っている人から離れた方がよい。

もともとは質の悪い人ではなかった。

しかし周囲の人が、人を利用する人達ばかりだから、次第に心配性のあなた自身もだんだんと質が悪くなってきた。

人を利用する人を尊敬していれば、心配性のあなた自身もだんだんと人間としてまともではなくなっていく。

「ずるさは弱さに敏感である」という言葉があるが、心配性の人は弱さのほうも、みずからずるい人に近寄っていくところがある。

もともと恥ずかしがり屋の人は人に近づきがたいのに、なぜこちらからわざわざ、ずるい人に近寄っていくのか?

それは自分が心配性の人は頼りないからである。

その人に認めてもらっていないと心配性の人は何か不安なのである。

だから認めてもらおうとして心配性の人はわざわざ近寄っていく。

まさに「飛んで火に入る夏の虫」である。

恥ずかしがり屋の人は人に近寄るのが困難だという。

そのとおりである。

しかし心の中では心配性の人は人に近寄りたい。

ずるい人は表面的にやさしい人を演じているから、恥ずかしがり屋の人はこちらから惹かれていく

恥ずかしがり屋の人は親しい人がいない。

さみしい。

だから心の底では心配性の人は人が恋しい。

拒絶を恐れて心配性の人は一人でいることを選ぶ。

しかし傷つくことを避けるために心配性の人はひとりでいるのではなく、みずから進んでひとりでいることを楽しむ訓練をすることである。

自分が自分にとって心配性の人は頼りない。

だから心の底では心配性の人はたえず人を求めている。

だから「飛んで火に入る夏の虫」にならないためには、心配性の人はひとりでいる訓練が必要である。

心配性の人の心の奥底にあるうぬぼれ

恥ずかしがり屋の人は、一方で自分に失望し、他方で自分にうぬぼれているところがある。

自己評価が心配性の人は安定しない。

ある男性が、心配性の自分に失望しつつ他方で自分にうぬぼれている女性から手紙をもらった。

「いつの日かあなたにお電話させていただく日が来ると思います。

私は傷つくことがとても怖いのです」

じつは電話をかけてこの心配性の女性は断られることが必要なのである。

そこで自分の位置が見える。

自己発見できる。

だれが自分にふさわしいかが理解できる。

そして最善の人が心配性の自分にとって誰であるかが分かる。

恥ずかしがり屋の人は、自分の挫折を観念的には受け入れても、ほんとうには受け入れていない

ほんとうに自分自身の体験を心配性の人は持てなかったことの悲劇である。

どこかで自分にうぬぼれているから、心配性の人はもっとできるはずだという焦りが生じるのである。

「こうでないと気がすまない」というのは心配性で、甘えであるが、うぬぼれでもある。

うぬぼれているから実際に心配性の自分がしていることでは満足できない、気がすまないのである。

うぬぼれているから、昇進するときに断れない

自分はできなければならないという心配性の人の気持ちと、心のどこかに自分にはできるはずだといううぬぼれがある。

それが焦りとなる。

栄光追求を通して心配性の人は心の葛藤を解決しようとしている。

それが挫折の原因であるが、そのほかに、うぬぼれも挫折の原因である。

自分に失望しながらも心配性の人は心のどこかに甘えがある。

うぬぼれとは、現実と接していない本人の独りよがりである

それはナルシシズムの世界である。

「オレは魅力的な男だ」とある心配性の男がひとりで勝手にうぬぼれている。

その人が魅力的だと他人が認めたわけではない。

そしてうぬぼれが現実と接触したときに心配性の人は劣等感が生じる。

傷ついたとはいえ、うぬぼれは完全に消えたわけではない

劣等感を持ちながらも心配性の人はどこかにうぬぼれが残っている。

だから劣等感を持っている心配性の人は苦しむのである。

「実際の自分」を受け入れた時に、心配性もうぬぼれも劣等感も消える。

劣等感に苦しんでいる心配性の人は、心の底のそのまた底で、うぬぼれている。

心配性の人は誰よりも愛されたい

貧乏なのにお金持ちを演じている

学歴がないのに心配性の人は学歴がある人を演じている。

「じつは、私は中学校しか出ていない」と好きな人に言う勇気があることで、ステキな人から惚れられる。

それを言うことが愛だから。

自己評価の上下が心配性の人は激しい。

ちょっと褒められると心配性の人はすぐに得意になってしまい、ちょっとけなされるとすぐに落ち込む。

自分は人に愛されるに値しないとすねながらも、誰よりも愛されたいという願望がある

自分なんかすばらしい人に相手にされないと思いながらも、心配性の人は逆に心のどこかで自分を愛さないような人間は愚かだと思っている。

誰にも愛されないという感じ方もほんとうなら、自分は誰よりも素晴らしい、自分はみんなに愛されるという感じ方もほんとうである。

この人の「愛されるに値する」という心配性のうぬぼれは「愛されたい」という願望でもある。

いずれにしても心配性の彼らは自我の統合性に失敗している。

それは過保護な親の自我の統合性の失敗の反映であろう。

親の接し方が一貫性を欠いているのである。

あるときには甘やかし、あるときには高すぎる期待をかけ、あるときには不機嫌で厳しくなり、あるときにはすべてを許す

心配性の人は心を打ち明けるような友だちがいない。

この傾向は『ピーターパン・シンドローム』の著者ダン・カイリー博士の言う「ピーターパン人間」にも似ている。

自分をよく見せようと心配性の人は無理をするから、自分の得意な仕事が見つからない。

そして、自分に心配性の人は自信が持てない。

それにもかかわらず偽りの自尊心ばかりが心配性の人は強いので、現実の自分を受け入れることができない。

たとえば「理想が高くて」結婚できない。

つまり自分に自信がないのだけれども、心のどこかでうぬぼれている

照れても、心配性の人は褒められることは心地よい。

突然みんなの前で褒められると心配性の人は当惑してドギマギするが、褒められたい。

容姿に自信がないのに心配性の人は容姿を褒められるから困惑する。

しかし褒められたい。

憎しみを心配性の人は弱い者に向ける。

恥ずかしがり屋の人は、強い者には弱く、弱い者には強い

ある精神科医の話。

家に電話をかけてくる人が「私は対人恐怖症です」と言う。

そして強引にその精神科医に会おうとする。

「なぜこれで対人恐怖症なのか」と言う気がすると、その精神科医は言う。

対人恐怖症は相手が自分の言うことを聞くと感じたときには強引になる。

自分から餌をつかんだときには、放さない。

獲物を狙ったら、残虐になる。

カラスは鷲に襲われると思うと怯えるが、雀と思ったら襲う

神経症者も恥ずかしがり屋の心配性の人も対人恐怖症の人も、根底は憎しみ。

根は同じ。

地下の水が通っていてそれがどこに出るかの違いだけである。

憎しみがあるから、心配性の人は弱い者にはつらくあたる。

そして自分の憎しみの感情を心配性の人は吐き出す。

これを直さなければ心配性の人は生涯苦しむ。

恥ずかしがり屋の人はいつも不安な緊張に悩まされている

人から断られるかもしれないと心配性の人は不安になる。

会社で左遷されるかもしれないと心配性の人は不安になる。

そして左遷される前から、心配性の人は左遷の屈辱に怯える。

窓際にやられたら心配性の人はもう生きていけないと不安になる。

窓際にやられても、心配性の人はその屈辱に耐えながら生きるために会社にいかなければいけないと思うと、想像しただけでつらくて気が遠くなりそうになる。

「こんなことになったら大変だ」と思うことはだれにでもある

そう思っているが、たいていの場合にはそんなことになってもほとんど何も起こらない。

「この仕事に失敗したら大変なことになる」と心配性の人は思っている。

まるで自分の社会的生命が終わりであるかのごとく心配性の人は恐れている。

そこで失敗しないように心配性の人はあらゆる注意を払う。

人によっては、心配性の人は失敗したと思っても失敗を認めない人まで出てくる。

「もし失敗したら」と思うと不安で、多くの心配性の人は夜も眠れない。

「こんなことを言わなければならないが、こんなことを言ったら相手は傷ついてしまう」と心配する。

「生活していくためにこんなことをしなければならないが、こんなことをしたら人は自分のことをもう相手にしてくれないのではないか」と心配する。

恥ずかしがり屋の人は、そうした不安や恐怖感でつねに緊張している

心配性の人は毎日神経が張りつめている。

だから何をしていても心配性の人はリラックスできない。

休日も心配性の人はリラックスできない。

時間的余裕があっても心配性の人はリラックスできない。

しかし恥ずかしがり屋の人が恐れていることが実際に起きても、多くの場合、事態は心配していたようにはならない

小さいころは、心配しているように事態は推移したかもしれない。

しかし大人になった今の環境では、心配性の人はそれほど恐れることはない。

しかし心配性の人は、小さいころの恐怖感を引きずって生きている。

小さい頃心配性の人は周囲の人に嫌われていた。

※参考文献:言いたいことが言えない人 加藤諦三著