治療的に行うのがエクスポージャーや森田療法であるが、現実の生活の中で、これらと同じことが起きることがある。

それは、いわば必要に迫られてショック療法てきな体験をすることである。

ドトールコーヒーを一代で築き上げた鳥羽博道氏も、対人恐怖症や赤面恐怖に悩まされた一人である。

鳥羽の父親は東京美術学校(現東京芸術大学)出身の日本画家だったが、それだけでは食べていけず、五月人形の目玉を作ったりして、辛うじて生計を立てていた。

博打好きで、横暴なところもあったという。

鳥羽が九歳のときに、母親が幼い弟を遺して亡くなったため、生活の困窮と苦労は甚だしかった。

対人緊張が強い人は、遺伝要因とともに養育環境も関係していて、親が厳し過ぎたり横暴だったりで、押さえつけられて育ってきた人に多い。

鳥羽の場合も、母親のいない心細い環境で、ワンマンな父親の顔色をうかがいながら暮らさざるを得なかったことが、対人緊張を強める要因となったのだろう。

高校生になることには、生活を助けるため、鳥羽は、父親が作った人形の目を売りに行かされるようになった。

内気で、赤面恐怖もある鳥羽にとって、見ず知らずの人のところに物を売りに行くのは、つらい体験だったに違いない。

ところが、父親はそんなことは意に介さないどころか、あるとき、お金の勘定が合わないことから激昂する。

不当な仕打ちに堪りかねて反抗した鳥羽に、父親は「ぶった斬るッ!」と言って刀を持ち出した。

鳥羽は、親戚の家に逃げ込み、そのまま高校を中退して上京した。

父親との生活が我慢の限界に達していたところに、父親の理不尽なふるまいが最後の一撃となったのである。

住み込みで働くことになった鳥羽は、洋食レストランの見習いやフランス料理店のバーテンダーを経て、喫茶店に勤めるようになる。

そのころから、コーヒーに本格的に興味を持ち始め、店主がブラジルに渡ったのをきっかけに、店にコーヒーを卸していたコーヒー製造卸会社に移った。

鳥羽が配属されたのは、コーヒーの営業である。

しかし、対人恐怖と赤面恐怖を抱えた彼にとって、飛び込みで入った店で初対面の客と話をし、商品を買ってもらうという仕事は、もっとも苦手とするところだった。

何度も辞めようかと思ったという。

悩んだ末に、鳥羽は上手にセールストークをすることよりも、お客に役立つことをしようと考えた。

「うまくしゃべることよりも、相手がやってほしいことをやるように徹したんです。

たとえば、ちょっと店が忙しいときに手伝うとか、カウンターの整理が悪いときはデパートの雑貨売り場をよく見てきて、仕事がやりやすいような配置を提案してあげるといった具合です。

また、あるレストランが出張料理をやるときは、汚れた皿を片付けたり、食べ残しを捨てに行ったりして手伝いをする。

そして、頃合を見計らって自社のコーヒーをたてる。

そうやっていると、人はよく見てくれてます」(大塚英樹『成功論 カリスマの挫折と挑戦』より引用)

そうした努力によって、鳥羽は営業成績トップにのし上がる。

喫茶店を一店任せられ、客に安らぎと活力を与える店づくりを心がけて、その店も繁盛させる。

そんな時、ブラジルに渡っていた、かつての雇い主から、「こっちに来ないか」という誘いを受ける。

鳥羽は、安定した地位を擲って、一人ブラジルに渡った。

ブラジル渡航は、鳥羽の人間的スケールを一回りも二回りも大きくするのに役立った。

コーヒー農園やコーヒーの売買の仕事に携わりながら、現地の人を使いこなす勘所を体得していったのである。

帰国した鳥羽は、ドトールコーヒーを立ち上げ、今日に至る発展を築いていった。

鳥羽氏の生き様は、症状と、症状が生み出す回避という悪循環を克服する上で、何が重要であるかを教えてくれる。

鳥羽氏は、父親のもとを飛び出し、一人で生き抜いていかねばならない状況に陥ったことによって、対人恐怖や赤面恐怖の症状を気にする暇もなく、とにかく目の前のことを夢中でやりこなさなければならなくなった。

森田正馬が見出したように、症状を治そうとするのではなく、やらねばならないこと、やっていることに集中すること。

それが、この悪循環を克服する極意なのである。

その場合に大事なのは、受け身ではなく「自分から攻める」という姿勢になることである。

いつ不安が襲ってくるかわからないとか、顔が赤くなるかとか、人に変な目で見られはしまいかとか、そうしたことに注意を奪われるよりも先に、積極的に行動し、自分のペースで物事を運ぶことで、状況はコントロールしやすくなる。

そこで、成功体験を積めば、克服へのきっかけとなる。

攻撃は最大の防御なのだ。

※参考文献:回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち 岡田尊司著