思い込みが激しい人が気がらくになる心理

思い込みが激しい人は他人と接してイライラしている人は多い。

「誰も私のことを分かってくれない」と嘆き苦しんでいる思い込みが激しい人も多い。

しかしそう嘆き苦しむ前に思い込みが激しい人は、そもそも相手は「自分が思っているような相手」であるのかどうかと考える必要がある。

思い込みが激しい人は「自分が思っている相手」と「実際の相手」とは違うかもしれない。

思い込みが激しい人は自分が自分を憎んでいるのに、相手が自分を憎んでいると思っているかもしれない。

思い込みが激しい人は自分が自分を責めているのに、相手が自分を責めていると思っているかもしれない。

人は努力したからといって幸せになるとは限らない。

無理な努力をして不幸になる人もいれば、無理な努力をしないで幸せになる人もいる。

それは間違った方向の努力もあれば、正しい方向の努力もあるからである。

努力している本人は正しいと思い込んでいる。

しかし不幸になるための努力もある。

そもそも努力の方向が違う。

頑張れば頑張るほど不幸になる思い込みが激しい人もいる。

頑張れば頑張るほど人間関係が悪くなる思い込みが激しい人もいる。

思い込みが激しい人はなぜそんなに努力が報われないのか?

それは思い込みが激しい人は現実に直面することから逃げた努力だからである。

思い込みが激しい人は現実から目を背けた努力は、見当違いの努力になる。

では思い込みが激しい人はなぜ努力の仕方を間違えるのか?

それは思い込みが激しい人は悩みの原因の核心を理解していないからである。

思い込みが激しい人は悩みの核心にある事実を恐れて、枝葉末節にこだわり、屁理屈を並べるからである。

思い込みが激しい人はもし頑張っているのに不幸であるなら、今の不幸の原因の核心が何であるかを考えてみる必要がある。

思い込みが激しい人はたとえば、もしかしたら何か自分はまったく勘違いをしているのではないか、自分の誤解が悪い人間関係の原因ではないかと考えてみる。

思い込みが激しい人はそれを認めることは難しいことである。

しかし思い込みが激しい人はそれをしなければ、頑張っても、頑張っても幸せになれない。

だから頑張って、頑張って、努力して、努力して不幸な生涯を送る思い込みが激しい人が多いのである。

頑張るのは大切。

しかし思い込みが激しい人は頑張って幸せになれないときに、「なぜ幸せになれないのか?」と考える。

思い込みが激しい人は問題をはき違えているのではないかと考える。

思い込みが激しい人は幸せになれないのは、「自分のどこかに原因があるからではないか?」と考えてみる。

思い込みが激しい人は「自分は何を恐れているのか?」と考えてみる。

アメリカのある心理学の教科書には「不幸な努力」とある。

またアルフレッド・アドラーの本の中にも「努力の不当な支出」という表現がある。

まさに悩んでいる思い込みが激しい人の努力である。

それは思い込みが激しい人のコミュニケーションがうまくいかない中での努力である。

ではコミュニケーションがうまくいっているときとは、どういうときであろうか。

その人と別れた後「何となく楽しかったなー」と思えるときである。

逆に思い込みが激しい人はその人と別れた後「疲れたなー」と思う時がある。

思い込みが激しい人は別れた後で「どっと疲れる」というときは、コミュニケーションがうまくいっていないときである。

思い込みが激しい人はコミュニケーションがうまくいくに越したことはないが、なかなか相手の気持ちは分からない。

分かり合えれば傷つかなくてもすむことも多いのに、人は皆傷つきながら生きている。

お互いの気持ちを理解し合うのは大変なことである。

そう簡単に相手の気持ちは分かるものではない。

またこちらの気持ちも、相手はなかなか分かってくれない。

お互いに「これをして欲しい」ということがある。

「これを言って欲しい」ということがある。

それを理解し合えれば人生は生きやすい。

でもなかなか理解し合えない。

そして傷つく。

人間にはいろいろな人がいる。

自分も分からず相手も分からないで、ただむやみに頑張っている思い込みが激しい人がいる。

そうした場合「相手のために」と思って頑張っても、思い込みが激しい人はたいていはマイナスの効果しかない。

思い込みが激しい人は相手を理解しないで努力しても、相手を傷つけるだけである。

思い込みが激しい人はあるいは自分が傷つくだけである。

相手が分かるとは、現実の相手に接しているということである。

それは相手にとって何がうれしいことか、何がイヤなことかが分かるということである。

それがコミュニケーション能力である。

それが人と親しくなる能力である。

英語の能力がなくても人は幸せになれる。

コンピューターの知識がなくても人は幸せになれる。

しかし人と親しくなる能力、コミュニケーション能力がなければ思い込みが激しい人は幸せになれない。

思い込みが激しい人は相手のためを思ってしたことだが、相手が喜んでいない。

逆に不愉快そうにしている。

そんなとき、思い込みが激しい人はイライラして相手を恨む。

思い込みが激しい人が恨むのは「こんなに相手のことを考えているのに、この態度は何だ」と思うからである。

しかし思い込みが激しい人は相手を恨む前に、「ちょっとまってよ、何でこうなるのだろう?」と考えてみることである。

思い込みが激しい人はイライラしたときも、「何で自分はこんなにイライラするのだろう?」と考えてみることである。

あるいは思い込みが激しい人は「ちょっとまってくれよ、何で相手は喜ばないのだろう?」と考えてみることである。

思い込みが激しい人はそうすれば自分の中には、気がついていない自分がいるのが分かるかもしれない。

あるいは思い込みが激しい人は「自分は相手が分かっていない」ということに気がつくかもしれない。

思い込みが激しい人が相手が何を喜ぶか分からないということは、相手の不満にも気がついていないということである。

思い込みが激しい人はこれで人間関係が上手くいくはずがない。

いずれにしろ思い込みが激しい人が人間関係がうまくいかないのは現実の相手とも、現実の自分とも接していないからではないか。

そうなれば思い込みが激しい人は「相手のため」と思って行動しても、人間関係は上手くいかない。

思い込みが激しい人は自分は相手を傷つけているかもしれないが、相手も自分を傷つける。

思い込みが激しい人は頑張って、努力して人と接しても、ことごとく上手くいかない。

思い込みが激しい人は親切が親切にならない。

思い込みが激しい人は喜んでもらおうとしても喜んでもらえない。

思い込みが激しい人はそうして人間関係にほとほと疲れる。

思い込みが激しい人は何もかもが嫌になる。

思い込みが激しい人はそうなればもう人々から引きこもるしかない。

思い込みが激しい人はそうなってしまうのは、勝手に自分の心の中で作り上げた「相手」と接しているからである。

思い込みが激しい人はさらに自分が現実の自分とも接していない。

もちろん相手もまた自分自身に気がついていないかもしれない。

では思い込みが激しい人が「現実の相手と接していないとはどういうことか?」

望ましいコミュニケーションは自己実現から可能になるのはもちろんである。

では「思い込みが激しい人が現実の相手と接していないということと、自己実現とはどう関係しているしているのか?」

努力の報われない思い込みが激しい人は自己実現のための努力をしていない。

思い込みが激しい人は現実の相手と接する中での努力をしていない。

「自己実現者は、他のどんな大人よりも深遠な対人関係をもっている」とマズローは述べている。

そして自己実現者は誰にでもいい顔をする八方美人とは異なり、自分にとって大切な人は誰かということを知っている。

その少数の人と深く結びついている。

自己実現者は勝手に自分の心の中で相手を「こういう人だ」と思い込んでいない。

相手が何を望み、何を嫌がっているかを理解している。

思い込みが激しい八方美人は勝手に自分の心の中で相手を「こういう人だ」と思い込んでいる。

思い込みが激しい人は現実の相手と接していない。

「自己実現者は以上のように特に深い結びつきをどちらかというと少数の人々ともつということがいえる。
友人の範囲はかなり狭い」

逆に思い込みが激しい八方美人はコミュニケーションできているようで、できていない。

思い込みが激しい八方美人は自分を相手に良く印象づけることにばかり気を奪われていて、現実の相手と接していないからである。

思い込みが激しい八方美人も一生懸命に努力はしているのだが、報われない努力なのである。

そして思い込みが激しい人は報われない努力で疲れてしまう。

「軽躁病状態の患者は、心から親しく見える知己を無数にもっている」

しかし彼らと友人達との間にはコミュニケーションはないと、フロム・ライヒマンは言う。

思い込みが激しい人は彼らの相手の特性や性格を無視して、ステレオタイプの付き合いをしている。

思い込みが激しい人は誰とも本当の信頼関係はない。

思い込みが激しい人は彼らには本当に大切な人が一人もいない。

思い込みが激しい人は大切な人と大切でない人との区別がない。

思い込みが激しい人は誰と付き合っても現実のその人と接していない。

思い込みが激しい人が相手の言うことを、相手が意図した意味で受け取れていないのは、現実の相手と接していないからである。

思い込みが激しい人が相手の言うことを、相手が言おうとした意味で受け取れるようになるためには、現実の相手と接するしかない。

しかし思い込みが激しい人はこれは想像以上に難しい。

お互いの間に深刻な問題が起きるのは、思い込みが激しい人がお互いに「現実の自分」「現実の相手」に接していないときである。

深刻なトラブルが生じるのは、思い込みが激しい人が双方ともに現実の自分とも現実の相手とも接していないときである。

頑張っているのに不幸になる思い込みが激しい人は、生の現実と接しないで生きている人である。

思い込みが激しい人は勝手に独りよがりの解釈をした「『現実』という名の幻想の世界」で生きている人である。

思い込みが激しい人は「自分の心の中で起きていること」を外の現実と思っている人である。

思い込みが激しい人は現実を自分に都合良く解釈してしまう人である。

そういう思い込みが激しい人は頑張って不幸になった段階で、もし「なぜ?」と考えていれば、その後の人生は違った。

思い込みが激しい人は「なぜ?」と考えれば、自分の努力が間違ったことも見えてくる。

現実と接していない思い込みが激しい人は、頑張って努力しても生きる土台ができない。

思い込みが激しい人は現実と接したときが、自らの新しい運命を創り上げるスタート・ラインに立ったときである。

自己実現している人が恐れていないことで、思い込みが激しい八方美人が恐れていることは何か?

思い込みが激しい人は悩みや苦しみの原因の中核にあるものは何かを探れば、問題の解決はつく。

思い込みが激しい人は中核にあるものに直面することを避ければ、苦しみは死ぬまで続く。

思い込みが激しい人はトラブルの原因はどこにあるのか?

その中核にあるものの一つに外化の心理過程がある。

思い込みが激しい人と外化の心理過程

思い込みが激しい神経症者は、自分が自分にどういう態度を取っているかに気がついていないとカレン・ホルナイは言う。

思い込みが激しい神経症者は自分が自分を粗末に扱っていることに気がついていない。

思い込みが激しい人は自分が自分を信じていないことに気がついていない。

思い込みが激しい人は自分が自分に怒っていることに気がついていない。

思い込みが激しい人は自分が自分を軽蔑していることに気がついていない。

思い込みが激しい人は自分の心の底の声に自分が耳を傾けていないことに気がついていない。

思い込みが激しい人はこの自分に対する自分の態度を改めれば道は拓ける。

逆に思い込みが激しい人は「自分の自分に対する態度を変える」というような基本的なことをしないと、死ぬまで道は拓けない。

思い込みが激しい人は自分が変われば、今抱えている多くの問題は解決に向かう。

不愉快になっている思い込みが激しい人は、今目の前に起きていることが原因で不愉快になっていると思っている。

しかし、思い込みが激しい人が不愉快なのは今、目の前に起きている事象が原因ではないと理解して欲しい。

思い込みが激しい人の慢性的イライラや不愉快等々は、「自分の自分に対する態度を変えたほうがいいよ」というサインである。

慢性的に不満な思い込みが激しい人は、「こうなれば満足するだろう」と今思っているかもしれないが、「こうなっても」満足しない。

思い込みが激しい人は今恋人の言動に苛ついている。

思い込みが激しい人はそして自分が苛ついているのは恋人の態度が原因と考える。

思い込みが激しい人は恋人に態度を変えることを求める。

思い込みが激しい人はそれを直接表現しなくても心の底で要求している。

あるいは、思い込みが激しい人は恋人の為と思って何かをした。

しかし思い込みが激しい人は期待した効果はない。

逆に恋人は不快感を示した。

そこで思い込みが激しい人は心の中で恋人を責める。

しかし今、思い込みが激しいあなたが不愉快なのは恋人の言動ではない。

思い込みが激しい人はその恋愛で不愉快なことが続き、恋人と別れる。

しかし思い込みが激しい人は次の恋人とも同じことが起きる。

思い込みが激しい人は何回恋人を替えても不愉快なことが同じように起こる。

思い込みが激しい人はそれは不愉快の原因が相手にあるのではなく、自分の心にあるからである。

今目の前に起きている事象に振り回されて一生を終わる思い込みが激しい人がいる。

思い込みが激しい人はそういうことのないように、基本的なことの解決を心がけることが大切である。

いつも不満な思い込みが激しい人は、たいてい不満の原因を勘違いしている。

思い込みが激しい人はまず自分の不満の原因に気がつくことである。

つまり思い込みが激しい人は「今自分は外側の事象とは関係なく、不満なのだ」と認めることである。

これが核心的現実である。

そして思い込みが激しい人はその原因を知ることである。

思い込みが激しい人はたとえば自己実現していないことが不満の真の原因であるにもかかわらず、何か今望むものが手に入っていないことが不満と思っている。

たとえば思い込みが激しい人は部長になれないとか、お金がもっと欲しいとか、いろいろと考える。

あるいは思い込みが激しい人はある人との人間関係が上手くいかないことだと考える。

しかし、思い込みが激しい人はもしかすると部長というポストや経済的なことが原因ではなく、人間関係の希薄さが不満の真の原因であるかもしれない。

思い込みが激しい人は自分の適性と違ったことをしていることが不満の本当の原因かもしれない。

ところが思い込みが激しい人はそれに気がついていない。

思い込みが激しい人は気がついても認めない。

そして思い込みが激しい人はその不満を権力獲得で満たそうとすれば、ポストを得ても、得ても、もっと高いポストが欲しくなる。

思い込みが激しい人はその頑張る過程で燃え尽きる。

思い込みが激しい人は自分の心が満たされていない時、心の外で起きていることを通して、自分の心の欲求不満を感じ取る。

つまり思い込みが激しい人の自分の心の不満は、家に対する不満、職場に対する不満、社会に対する不満、学校に対する不満、恋人に対する不満等となって感じとられる。

思い込みが激しい人は欲求不満の塊の人が、自分の職場に満足することはない。

思い込みが激しい人は自分の家族に満足することはない。

思い込みが激しい人は自分の住んでいる地域に満足することはない。

思い込みが激しい人は自分の同僚に満足することはない。

思い込みが激しい人は自分の先生に満足することはない。

思い込みが激しい人と満たされない愛着

自分の妻に対して不満を持っている思い込みが激しい夫は、それが自分の幼児期の母親に対する愛着が満たされていないからかもしれないとは思わない。

思い込みが激しい人はそんなことには気がつかない。

自分の上司に対して不満を持っている思い込みが激しい部下は、それが自分の幼児期の母親に対する愛着が満たされていないからかもしれないとは気がつかない。

思い込みが激しい人は自分の幼児期の母親に対する愛着が満たされていない心理状態が、今接している人を通して表現されてきているだけかもしれない。

幼児期の母親に対する愛着が満たされている人は、社会との関係にもそれほど多くの支障をきたさないであろう。

そしてこの愛着には巨大なエネルギーが含まれているというフロイトの指摘の通りであろう。

そしてこれが満たされないときには、思い込みが激しい人の不満のエネルギーもまた凄まじいのである。

「何がそんなに不満なのか?」と思うほど、もの凄く不満な顔をして相手を非難している思い込みが激しい人がいる。

その思い込みが激しい人の生活環境が他の人に比べてそれほど悪いわけではないし、その人が他の人に比べて決して不公平に扱われているわけでもない。

それなのに思い込みが激しい人は触れるものすべてにイライラしている。

思い込みが激しい人は接する人すべてに怒りをぶちまける。

思い込みが激しい人は日常生活でそれほど正義感にあふれているわけではない。

思い込みが激しい人は隣人に嫌がらせをする。

思い込みが激しい人は同僚に意地悪をする。

思い込みが激しい人は日常生活でそれほどやさしい人ではない。

思い込みが激しい人はそれなのに社会的には正義を声高に叫ぶ。

ヒステリックな政治的反対運動などがそれである。

ある人が「あのヒステリックな政治運動を見ていると、お前達は何が欲しいんだ?」と聞きたくなると言ったが、その通りである。

そして思い込みが激しい彼らが本当に欲しいものは「幼児期の母親に対する愛着が満たされること」であるかもしれない。

テロリストの中にもこういう思い込みが激しい人はいるだろう。

愛着には巨大なエネルギーが含まれているというが、テロリストはその巨大なエネルギーが「敵」に向かったのである。

いずれにしろ思い込みが激しい人の幼児期の母親に対する愛着が満たされないときの欲求不満は根強い。

しつこくどこかに表れてくる。

こうして欲求不満の塊になった思い込みが激しい人が、その不満を外化すると、周囲の世界すべてが不満になる。

そういう思い込みが激しい人がいつも職場でイライラしているのは当たり前のことである。

思い込みが激しい人が電車の中でいつも不愉快そうな顔をしているのは当たり前のことである。

思い込みが激しい人は家でいつも不機嫌な顔をしているのは当たり前のことである。

思い込みが激しい人は何か一言、何でもないようなことを言われても「カーッ」となる。

逆にいつも気楽そうな顔をしている人がいる。

事実気楽な人である。

思い込みが激しい人は自分が自分に対する態度を変えてみる

この気楽な人と不機嫌な思い込みが激しい人では、心の中がまったく違うばかりではなく、外の世界の解釈がまったく違っている。

つまり思い込みが激しい人はまったく違った世界に住んでいる。

同じ一言に接しても、両者にとっては言葉の意味がまったく違っている。

思い込みが激しい片方は傷つくし、片方は嬉しいということもある。

思い込みが激しい片方にとっては楽しみなことも、他方にとっては心配なことである。

思い込みが激しい片方にとっては愉快なことも、他方にとっては不愉快な経験である。

思い込みが激しい人が外化という心理過程に陥ったときには、心の中が違うということは、住んでいる世界が違うということである。

日常生活で不愉快なことが連続して起きて、どうしても許せない人があまりにもたくさんいる思い込みが激しい人は、自分はそもそも幼児期から欲求不満の塊かもしれないと自分をみるめてみることである。

どうしても人間関係が上手くいかない思い込みが激しい人は、すべてに疲れて引きこもる前に、自分はまったく勘違いをしているかもしれないと、自分を見つめてみることである。

もちろん逆に許せない人がまったくいないという人も、どこか心に偽りがある可能性が高い。

思い込みが激しい人は自分の自分に対する態度を変えることで、今その人を苦しめている多くの問題を解決できるかもしれない。

それは、思い込みが激しい人が自分が自分に対する態度を変えると周囲の世界が変わるからである。

思い込みが激しい人は自分が自分に対する態度を変えると周囲の人が変わり、人間関係のトラブルが少なくなるからである。

周囲の世界が事実として変わったのではなく、変わって感じられるようになったということである。

ところで現実の自分と自分が接していないとはどういうことか?

現実の自分とは仮面をつけていない自分ということである。

思い込みが激しい人は仮面をつけてもよい。

ある意味で社会的自我とは仮面をつけた自分だから。

しかし思い込みが激しい人は仮面をつけているのに、仮面をつけているという実感がなくなったときに、現実の自分に接しなくなったということである。

それが思い込みが激しい人が自己疎外に陥るということである。

自己疎外とは自分が自分にとって遠くなるということである。

つまり思い込みが激しい人は本当の喜びも本当の悲しみもない。

思い込みが激しい人はしみじみとした喜びもなければ、苦しさもない。

思い込みが激しい人は自分が自分にとって遠くなったときに、それを外化する。

思い込みが激しい人は他人を通して感じる。

思い込みが激しい人は他人もまた遠い存在になる。

思い込みが激しい人が外化をするということは現実の相手に接していないということであるが、それは現実の自分とも接していないということである。

思い込みが激しい人はすべて幻想の中で生きている。

思い込みが激しい人が幻想の中で生きているということは「心の核」がないということである。

本当の喜びも、本当の苦しみや悲しみもなくなった思い込みが激しい人が無表情な人である。

無表情な思い込みが激しい人は「陰」で生きている。

思い込みが激しい人は実体がない。

それが思い込みが激しい人が現実の自分と接していないということである。

思い込みが激しい人は本当の喜びもない、本当の悲しみもない。

思い込みが激しい人はただ喜びとか悲しみという言葉を知っているだけである。

したがって思い込みが激しい人は生きている実感がない。

たとえば思い込みが激しい人は人を騙しても、騙しているという実感がない無表情な人がいる。

ある人が「私はある人に騙されたのだけれども、私を騙した人と会うと不気味だ」と言った。

それは騙した思い込みが激しい人がその人に道で会うと、平気で普通に「おはようございます」と「こんばんは」と挨拶するからである。

現実と接して生きている人からすると、それは気味の悪いことである。

思い込みが激しい人はそれが、好きな人も嫌いな人もいない、大切な人も大切でない人もいないということである。

思い込みが激しい人は心がないということである。

その思い込みが激しい人にとっては、自分にとって都合の悪い人と都合の良い人がいるだけである。

思い込みが激しい人は自分の利益になる人と、利益にならない人だけがいる。

そうなったら思い込みが激しい人は生きている意味は感じられない。

「とにかく人は現実の中で生きなければいけない」

悩みの原因の核心を理解して、現実の中で生きようとする「心構え」がある限り、道は拓ける。

思い込みが激しい人は悩みの原因の核心を理解すること

「誰も私のことを分かってくれない」と苦しみを誇示する思い込みが激しい人がいる。

つねに「苦しい、苦しい」と訴える思い込みが激しい人がいる。

そういう思い込みが激しい人は周囲の人が嫌いなのだろう。

思い込みが激しい人は周囲の人に憎しみを持っている。

思い込みが激しい人はしかし嫌われるのが怖いから直接敵意や憎しみを表現できない。

思い込みが激しい人の苦しみの誇示は敵意を隠す手段である。

思い込みが激しい人のそれは憎しみの間接的表現である。

「思い込みが激しい人の苦しみの誇示は無意識にある非難の表現としては主観的に大変価値のあるものである」

もちろんその価値とはあくまでも主観的な価値である。

思い込みが激しい人が主観的に価値があるというのは、「苦しい、苦しい」と訴えることで、苦しみの解決にはならないが、間接的にせよ少しは憎しみを吐き出せるからである。

思い込みが激しい人は「苦しい、苦しい」と訴えることで、本人は相手を非難している気分になれる。

思い込みが激しい人は訴えている時だけは、少しは楽になれる。

思い込みが激しい人が「オレの苦しみなんかおまえに分かるか?」と言うことは、「おまえはオレの敵だ」という意味を含んでいる。

思い込みが激しい人は「おまえは敵だ」とストレートに言えない弱さが、「オレは苦しい」という言葉で表現されているのである。

思い込みが激しい人は孤独だから怒りを直接表現できない。

思い込みが激しい人が「オレは苦しい!」と言うことは、「私は皆に酷い扱いをされている」ということであり、その叫びは、周囲に対する怒りと憎しみの間接的表現である。

思い込みが激しい人が「誰も私のことを分かってくれない」と言ったとき、それは「私は世の中の人が皆嫌いだ」という意味である。

思い込みが激しい人がすべての悩みの解決のために必要なことは、「悩みの原因の核心」を理解することである。

思い込みが激しい人は悩みの原因の核心を理解しなければ、ただ「苦しい、苦しい」と騒ぐだけで悩みは一向に解決しない。

思い込みが激しい人は悩みの原因の核心を理解し、外の世界に心を開けば道は拓ける。

思い込みが激しい人は悩みの原因の核心を理解するとは、枝葉末節にとらわれたり、偏見に支配されたりしないということである。

このような態度で悩みに取り組むときに、思い込みが激しい人は心の平穏が達成できる。

シーベリーは「たいていの場合、トラブルの解決法は見えにくいところに潜んでいる」と述べている。

そのもっとも見えにくいものの一つが思い込みが激しい人の外化の心理過程である。

思い込みが激しい人はただ「騒ぐだけ、嘆くだけ」だと悩みはいよいよ深刻化する。

思い込みが激しい人は騒ぐ時、嘆く時には解決の意思がない。

思い込みが激しい人は外の世界に心は開かれていない。

参考文献:イライラのおさめ方 加藤諦三著
 

 

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