恥ずかしがり屋を克服する初め

私たちは戦いによって自信を得ていく

戦いの機会を避ける恥ずかしがり屋の人は、けっして真の自信を得ることができない。

恥ずかしがり屋の人は戦うことが自信を得るうえで大切なのであって、負けるか勝つかが問題なのではない。

血みどろになって戦った恥ずかしがり屋の人は、たとえ負けても自信を得ているはずである。

恥ずかしがり屋の人は自分が正しいと思うことも、それを主張することで憎まれることも、人間にとって大いなる戦いである。

憎まれるのが恐くて自分を主張するのを避けることは、戦いを避けたことになる。

恥ずかしがり屋の人は皆が排斥する者を愛している時、その愛している人をかばうのは戦いである。

自分の愛を守るための戦いである。

恥ずかしがり屋の人はその人への同情からではなく、その人への愛から、皆が不当にその人を排斥する時、正面きって皆と対立することは立派な戦いである。

皆から憎まれるのが恐くて、なんとかその場をとりなおそうとする者は自信喪失し、やがてノイローゼになるのである。

恥ずかしがり屋の人は皆からも憎まれたくないし、その愛している人とも一緒にいたい、そんな中で真の戦いを避けるから、二つに引き裂かれてノイローゼになってしまうのである。

戦いの場が自信にとって必要だというのは、戦いにおいて自分の依存心を切り捨てていかなければならないからである。

依存心がある限り、真の戦いを戦い抜けない

父親である王にむかって息子が退位を迫るのは、この世で最も難しいことの一つだと言った新王がいたが、その新しい王は戦いの場を避けなかったのである。

恥ずかしがり屋の人は親に対して依存心があれば、けっして退位を正面から迫ることはできない。

卑怯なやり方というのは、自分の望んでいることを自分が望んでいるのではないような”ふり”をして、周囲の人間に父親である王を退位させることである。

そのような恥ずかしがり屋の卑怯な息子は、真の戦いの場を避けることによって、自信を得る機会を失ったのである。

恥ずかしがり屋の人は何よりもそれは親への依存心を自分の中に残しながら、自分の望みを遂げたからである。

自分が王になりたいという望みであれ、自分の愛している人を幸せにしたいという望みであれ、恥ずかしがり屋の人はその望みを遂げるのには戦いが必要な時がある。

その時その戦いを避けて自分の望みを遂げようとする恥ずかしがり屋の人は、たとえその望みを遂げても自信を得ることはないにちがいない。

甘えのある恥ずかしがり屋の人は、自信をもつことはできない。

甘えとは相手との一体感を求めることだからである。

自己主張とは、自分の望みを相手の前にさらけだすことである。

恥ずかしがり屋の人はその結果として、その相手を失うかもしれない。

その相手とは今後まったくべつの人生を歩むかもしれない。

恥ずかしがり屋の人はそんな危険をおかしながら、自己を主張する時、、その人は自信を得る。

そのような自己主張をする時、自分の中にある相手との一体感への希求は切り捨てられる。

恥ずかしがり屋の人はもちろん、そのような自己主張が相手に受け入れられる時もある。

その時は、甘えとしての一体感ではなく、さわやかな一体感が二人の間に生まれるに違いない。

恥ずかしがり屋の人はそこには自己の望みを抑圧した、屈折した感情をもちながらの一体感ではなく、互いに͡個を大切にしたうえでの、さわやかな一体感が生まれる。

恥ずかしがり屋は甘えを断ち切らない限り、”依存”はますます強化されていく

甘えを脱しきれない人がつねに欲求不満なのは、つねに自分の望みを抑圧しなければならないからである

恥ずかしがり屋の人は一体感がこわれるのが恐くて自分を主張することができない。

それが甘えた人間である。

親が子どもに甘えるような場合には、親は心理的に依存しながら恥ずかしがり屋の子どもを自分の思うように動かそうとする。

心理的に頼りながらも、恥ずかしがり屋の子どもを支配しようとする。

子どもべったりで生活しながら、恥ずかしがり屋の子どもを自分の望む職業につかせようとする。

子どもべったりの生活をしている親だから、恥ずかしがり屋の子どもの言うことをきくかというと、けっしてそうではない。

子どもべったりの生活をしながらも、恥ずかしがり屋の子どもを自分の望む大学に入れ、自分の望む企業に就職させようとする。

甘えた人間関係一般について言える

恥ずかしがり屋の人は相手に依存しながらも相手を支配しようとする。

いや、正確には恥ずかしがり屋の人は相手に依存しているからこそ、相手を自分の思うようにしようとするのである。

相手に心理的に依存していなければ、それほど相手の一つ一つの言動が自分の心理に影響しない。

恥ずかしがり屋の人は相手に心理的に依存しているからこそ、相手から尊敬されることが意味を持ち、相手から嫌われることが恐い。

相手に依存しているからこそ、相手を支配しないではいられなくなる。

恥ずかしがり屋の子どもべったりで生きてきた親にとって、子どもが一人前の人間になって、親とちがった新しい人生を生きることは許せない。

子どもべったりで生きてくればくるほど、恥ずかしがり屋の子どもを支配しようとする。

恥ずかしがり屋の人は自己を主張することがいかに大切かは、このことでわかるであろう。

自己を主張するためには、相手への依存心を切り捨てなければならない。

そして恥ずかしがり屋の人は、相手を利己的に支配しようとする気持ちを、同時に切り捨てることでもあるのだ。

自信とは、自分が自分に依存していることである

甘えとは、恥ずかしがり屋の自分が心理的に他者に依存していることである。

甘えている恥ずかしがり屋の人が自信の欠如に苦しむのは当然なのである。

恥ずかしがり屋の人は他人の是認あるいは賞賛なしには、自己確立できないからである。

そして恥ずかしがり屋の人は戦いこそが、この甘えの心理を切り捨ててくれる。

恥ずかしがり屋の人は他者によって与えられていた自己評価を脱出できるからである。

子どもべったりで生活してきた親に育てられた恥ずかしがり屋の子どもは、心理的に親に取り込まれている。

親が心理的に子どもに依存しているが、恥ずかしがり屋の子どもも親に依存している。

こんな時、恥ずかしがり屋の人は親の自己中心的な期待を裏切って、自分の望みに目覚めて行動することは、真の戦いである。

恥ずかしがり屋の人は自分の側にある親への依存心を切り捨てない限り、親の支配欲に太刀打ちできない。

この戦いを”親孝行”という美名のもとに避ける恥ずかしがり屋の子どもは、永遠に自信をもつことはできない。

永遠に自分の中に依存心を残し、屈折した感情で生きるしかない。

恥ずかしがり屋の人は友情における戦いも、上役との戦いも、すべて相手への依存心を切り捨てることによってしか戦い抜けない。

相手への依存心を切り捨てない限り、友人といい、上役といい、親子といっても、恥ずかしがり屋の自分と相手は互いに個性をもった人間にはなれず、恥ずかしがり屋の自分も他人も自他の区別のない均質な存在になってしまう。

お互いに依存心のある付き合いは、個性をもった付き合いではなく、同性愛的付き合いである

恥ずかしがり屋の依存は断ち切らない限り、ますます強化されていくものである。

ますます恥ずかしがり屋の依存を強化することで、破綻を一日一日のばしていくことはできる。

しかし、恥ずかしがり屋の人はその破綻はより決定的なものとなってしまう。

恥ずかしがり屋の人は人格が狭い秩序にどんどん閉じ込められていくのである。

より人格は固定され、より束縛されてしまう。

恥ずかしがり屋の人は依存的結合関係からの分離・独立なくして自信は生まれない。

親との心理的依存関係があり、その親からの期待にこたえて、どのように成功しても、その恥ずかしがり屋の人は自信をもつことはできない。

逆に、恥ずかしがり屋の人はいずれノイローゼになっていく。

恥ずかしがり屋の人はどのように成功しても、期待の重圧感には苦しむからである。

その依存関係は一般的他者との依存関係にも拡大し、他者への盲従的姿勢とさえなる。

恥ずかしがり屋の人は成功によって、期待の重圧感は重くなるばかりである。

逆に失敗し挫折した恥ずかしがり屋の人は、さらに目標を高く設定する。

次の挫折はもっと高い目標の設定となる

これが恥ずかしがり屋の人は挫折を直視できないということである。

挫折を直視する者は救われるというのは、その人が依存関係の束縛から独立できているからである。

ある父は、恥ずかしがり屋の子どもに強圧的、命令的、独断的な態度で接していた。

その恥ずかしがり屋の子は親に服従、依存していた。

その子の理想の自画像は、親の理想世界の観念に占拠されていた。

恥ずかしがり屋の彼は努力したが有名大学に入れなかった。

彼はやがて他の大学を卒業して企業に入社した。

恥ずかしがり屋の彼はそこで出世をいそいだ。

彼は若くして重役になりたい、彼の目標は有名大学不合格という挫折で、より高くなっていった。

恥ずかしがり屋の彼は出世を焦りすぎて、借金などを繰り返し、そこの企業を退職した。

彼は次に、彼は国会議員になろうとした。

恥ずかしがり屋の彼は次々に挫折し、そのたびごとに目標は高くなっていった。

彼はその目標が首相にまでなった時は、すでに心を壊していた。

恥ずかしがり屋の人は古い”依存のルール”を拒否すること。

これなしに自信はありえない。

恥ずかしがり屋の人は時には親の気持ちを”裏切る”ことも必要

恐怖に打ち克つ唯一の方法は、恐怖の対象にたちむかうことである

自信のない恥ずかしがり屋の人は、人生の初期の段階での人間関係が、次の段階へ進むところでつまずいているのが現状であろう。

恥ずかしがり屋の人は第一段階にとどまることもできず、かといって第二段階に進むこともできないでいる。

次のような手紙がある。

「昨年の春以来、僕は自分がただ親の、特に母親の敷いたレールの上を走ってきただけのような気がしてなりません。

そして大学生になってからは、そこらへんにいる典型的な大学生の歩む道をたどってきたような気がします。

自己の人間性の発現自体が、何か悪いことででもあるような気さえしていました。

それらの自己実現の欲求は、無意識下に追いやられてしまっていたような気がします。

そして他人の眼を意識する八方美人的な人間になってしまいました」

恥ずかしがり屋の彼はこの手紙を書きながら、今の自分が本当の自分でないことに気付いている。

そしてここで注目しなければならないことは、恥ずかしがり屋の自分が自分であること、という生きるうえで最も大切なことを、罪の意識をもって受け止めていたということである。

親が恥ずかしがり屋の子どもに情緒的に依存して生きる時、恥ずかしがり屋の子どもは自分らしく生きることを罪と感じてしまう。

最近の母親が喜ぶことは

1.夫の異例の出世
2.子どもが賞状などをもらうこと
3.子どもが有名大学に入ること

だそうである。

ここで夫の異例の出世が絶望的であれば、生きがいは恥ずかしがり屋の子どもの賞状ということになろう。

このように母親の喜怒哀楽が自分に依存しているとなれば、恥ずかしがり屋の子どもはそれに一方では応えたいと思う。

しかし恥ずかしがり屋の人は成長すれば、それと逆に独立への願望も芽生えてくることになる。

しかし母親の恥ずかしがり屋の子に対する依存が強ければ強いほど、この独立への願望は強く抑圧されることになる。

恥ずかしがり屋の本人の罪の意識というのは、裏切りの感覚である。

母親の強い心理的依存を感じた恥ずかしがり屋の子どもは、自己実現を裏切りと思い、罪の意識に悩まされることになる。

母親が明示的に恥ずかしがり屋の子どもに支配的になる場合は、むしろ問題は少ない。

しかし現代の母子関係というのは、明示的な支配ではない。

母親はホンネとして「できれば少しでもよい大学へ、できれば少しでも大きな会社へ入ってもらいたい」、そしてそれが何よりも母親自身にとって嬉しい。

しかしこのことを明示的に恥ずかしがり屋の子どもに言わない。

”恥ずかしがり屋の子どもを生きがいにする母親は、恥ずかしがり屋の子どもの負担になるので、よい母親ではない”という情報が氾濫している。

学歴社会の歪みも言われている。

物質的豊かさだけが人生ではないというタテマエもある

となると、母親はポーズとしてはタテマエをとるが、ホンネはちがったところにある。

「あなたのためによい大学、大きな会社がいいのよ」というように、自分のホンネを隠して振る舞う人がでてくる。

この陳述は命令である。

文法的形式は命令ではないが、内容は命令である。

恥ずかしがり屋の子どもは母親のホンネに気づくことは禁じられている。

ホンネに気づくことは母親の自尊心を傷つけるし、母親を怒らせる。

かといって、恥ずかしがり屋の人は「僕はべつにそんな生活したくない」などと相手の言うことを形式的に受け取って対応すれば、また怒られる。

なぜかと言えば、「あなたのために・・・」と文の形式はなっているが、内容はあくまで、「よい大学に、大会社に」という命令であるからだ。

恥ずかしがり屋の人は相手の言うことをそのままに受け取って反応しても怒られる。

かといって、恥ずかしがり屋の人は相手のホンネを知って、つまり命令文と受け取って反応しても怒られる。

もう一度繰り返すと、恥ずかしがり屋の人は形式そのままに受け取って行動しても怒られるし、内容を受けとって行動しても怒られる。

だとすれば、この恥ずかしがり屋の子どもが、母親とのトラブルを避けるためにはどうしたらよいか。

それはただ一つ、恥ずかしがり屋の人は「自分は自分のためによい大学、大きな会社に行くのだ」と信ずることである。

このようなことは、本当の自分にも、本当の相手にもふれない訓練をその恥ずかしがり屋の人にしてしまう。

自分が本当には何を望んでいるのか、ということにも気づいてはいけないし、相手が本当は何を望んでいるかにも気づいてはいけない

このようにして育ってきた恥ずかしがり屋の子どもが、他人とコミュニケーションできるはずがないであろう。

母と子の間には、偽相互性しか成立しないであろう。

このようにして育てば、恥ずかしがり屋の人は自分自身による認識や弁別は存在しない。

恥ずかしがり屋の人は存在したら罰せられるのであるから。

罰には罪の意識が対応する。

したがって先の手紙のように、「自己の人間性の発現自体が悪いことででもあるような気さえしていました」となってくる。

この恥ずかしがり屋の子どもは、自分の情緒的資質の発展は禁じられ、母親の望む”よい子”としての役割を演じつづけることを要求されていたのである。

恥ずかしがり屋の彼は”よい子”であるという、母子関係から生まれる役割をはなれては、自分の存在を証明することはできない。

彼のアイデンティティーは、母子関係から生まれる役割のみによって支えられていたのである。

正常な人間関係には「くいちがい」があって当然

ある大学での話である

そこの大学は有名大学ではなかった。

そこのある学生が近所の小学生とソフトボールをして遊んでいたが、母親がとんできて、「あんな大学の人と遊んではいけない」と子どもを連れて帰ったという。

これもまた、ある家庭教師をしている学生が、嘆いて言ったことである。

ある時アルバイト先の母親から電話があった。

小学生の息子が中学の受験に失敗したというのだ。

落ちてしまった以上、仕方がない。

次は高校の受験だ。

この二月からはじめれば、他人より早く準備にかかったことになるだろう、と言ったという。

先生(学生のこと)は今は春休みだから、時間がある時はいつでも来てくれと言ったとのことである。

「なぜ、あの母親は息子が悲しんでいるのをなぐさめないのだろう、と思うと僕は悲しくなった」と彼は言っていた。

また、ある学生は母親への憤懣を次のように述べる。

「近頃見かける子どもは、小さいくせにやたら眼鏡をかけている。

また、少し手をひっぱっただけで骨が折れてしまう子どもすらいるそうである。

私が思うに、これらすべてが日本の教育問題であり、それは親が悪いと思う。

特にひどいのが母親。

自分の恥ずかしがり屋の子どもが有名大学に入れればと願い、自分自身がバカであるのにもかかわらず、自分に似た子どもに、”やればできる”と言う。

どうしても有名大学にいかせようと、本人の意志にかかわらず学習塾に無理やり通わせる」

母親についての話は、枚挙にいとまがない

恥ずかしがり屋の子どもの成長にともなって母子間の役割に変化が生ずるのではなく、役割構造は不変に保持される。

そして恥ずかしがり屋の子どもの独立分化傾向は、恥ずかしがり屋の子どもの側の罪の意識によって抑圧されることになる。

恥ずかしがり屋の人は人生の次の段階における人間関係を樹立し得るためには、まず何よりも、自らの独立を、たとえ母子関係の犠牲においても勝ちとらねければならない。

自分の独立への可能性を追求することが、自分のためにも、自然な次の母子関係のためにもよいことなのである。

今、母子関係の犠牲においても、と記したが、それは人間の自然の成長の過程において克服されるべき、古い母子関係なのである。

恥ずかしがり屋の人は自分の独立分化の傾向を大切にすることで、自然な次の新しい母子関係へと母子関係も発展していくということである。

古い母子関係の結束をしいることは、恥ずかしがり屋の子どもにとっても母親にとっても、二人の関係にとってもよくないことである。

正常な次の段階の人間関係というのは、お互いの間に期待の食い違いがあって当然なのである。

※参考文献:『自信』加藤諦三著