今日、回避のワナに陥っている人の多くに共通する深刻な問題は、情報通信依存、画面依存である。

総称してメディア依存と呼んでおこう。

かつて人々は、現実生活を回避して、内的な生活に沈潜しようとしたとき、読書や瞑想といった方法に頼ることが多かった。

瞑想をすると、外界からの情報を最小限に減らすことができるが、読書もまた、接する情報量という点では、映像や音声に比べて少なくて済む。

その分、想像をふくらませるといった、能動的な精神的作業に向かう部分が大きい。

濫読したり、長時間ぶっ続けでしない限り、入ってくる情報量を適度に減らし、頭を整理し、自分で考える余地を生むのである。

また、文章を書くという行為は、読書よりもさらに扱う情報量が少ない。

どんなに書くのが速い人でも、その速度には限界がある。

一時間で原稿用紙に十枚書いたとしても、情報量は50キロバイトにも満たない。

われわれの情報処理能力の限界は、450キロバイト毎時なので、まだ400キロバイトの余地がある。

その分だけ、さまざまな想念をふくらませることができる。

話すという行為も同じである。

人と会話をしたり、時間を共有することも、回避を突破する上で重要である。

興味や関心を共有する人と関わりをもつことが活力源となることもあるだろう。

ただ、そこにもまた、落とし穴があることをわすれてはならない。

現在はネットワークを介して、容易に同行の士や関心を共有する存在に出会うことができる。

現実の友人との交流が全くない人も、気の合う人とチャットをしたり、ゲームをしたりということが、ごく当たり前のことになっている。

通信回線を通して間接的につながっているにすぎないので、いざとなったらすぐに関係を断ち切ることもできる。

そんな保証があることで、関係をもつことへの不安が軽減され、敷居が低くなっている。

だが、回避に陥った人にとって、ネットの世界が現実への架け橋として機能することは残念ながら少ない。

逆に、いったんそこに安住してしまうと、次のステップが起きにくくなることの方が、はるかに多いのである。

リアルの関係と、ネットワークの関係は、一見、同じように見えても、そこには決定的な違いがある。

ネットワークを介した顔の見えない関係では、内側前頭前野などの社会脳(顔を見る、気持ちを推測するといった社会的行動に際して使われる脳の領域)が働きにくい。

人が行動するのを見るとき、同じ行動に関わる脳の領域が活性化される。

これがミラーシステムであり、この仕組みによって共感や共鳴も生じる。

ところが、相手の行動が見えない状況では、このミラーシステムも活性化されないので、本来の共感もはたらきにくい。

物や数字を扱うように、対人関係も処理されてしまうのである。

メールやネットを、補助手段としてもちいるのなら問題は少ないが、そこだけの関係に終始すると、社会的な刺激不足によって、社会脳が、極度の”運動不足”に陥り、機能低下を来しかねない。

また、共感システムとともに、愛着システムも活性化されにくい。

このような生活を続けると、回避型の傾向がさらに強まることになる。

そうした弊害を防ぐためには、やはり社会脳が働く環境に自らをおく必要がある。

話す際に相手の目や表情を見て相手の考えていることを推し量り、非言語的なやりとりやスキンシップを増やすことによって、社会脳や愛着システムは活性化するのである。

そのために、まずやるべきことは、パソコンやケータイの画面との接触時間を短くすることである。

一日一時間以内くらいに抑え、メールのチェックも一日1~2回時間を決め、そのときだけ返事を書くようにする。

メル友には、その旨を通知しておけばいい。

メールの奴隷のような生活を脱しよう。

だらだらとパソコンの画面を眺めたり、ケータイをいじる代わりに体を動かす、読書をする、文章を書く、人とリアルに関わるといったことに、もっと時間を使うようにする。

こうして、生活のリズムを整え、情報過負荷な状態をなくし、少し退屈なくらいの状態に自分をおく。

それが、回避のワナから抜け出す一歩になる。

※参考文献:回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち 岡田尊司著