愛着と性の営み

パートナーとの間に成立する性行為は、愛着スタイルの影響を強く受ける。

安定した愛着の人は、性的興奮やパートナーの性的魅力に対して素直に反応することができ、パートナーの要求を的確にとらえ、それに応えやすい。

また、抵抗や不安を覚えたり、一方的にのめりこんだりすることなく、自分とパートナーとの愛情の交換や反応を楽しむことができる。

性的なクライマックスに対しても、相手を自然にリードしたり、逆に相手に自然に身を任すことができる。

性的な満足度も高く、よって性的なことに過度に囚われることも少ない。

愛着の安定した人の性的営みの特徴は、特定のパートナーとの長期的な関係を好むということである。

相互の理解や思いやりが、親密な関係を楽しむ上で重要な要素になるのだが、愛着が安定した人は、それが自然に身につき、またそこから大きな満足を得られるので、新奇な刺激を求めることに関心が低い。

しかし、愛着が不安定な人は、相互的な信頼関係から得られる満足や歓びに乏しく、新奇な刺激の方が魅力的に映りやすいので、パートナーとの関係が短命に終わりやすい。

そうした傾向は、回避型愛着スタイルにも不安型愛着スタイルにも共通するのだが、両者の間には大きな違いがある。

その違いを一言で言えば、不安型愛着スタイルの人にとって、性的関係が非常に重要な意味をもつのに対して、回避型愛着スタイルの人にとっては、それほど重要な問題ではないということだ。

不安型愛着スタイルの人にとって性的なパートナーは、自分を支えてくれる存在であり、性的な奉仕は、いわば自分を支えてくれることに対する代償でもあり証でもある。

だが、回避型愛着スタイルの人にとって性行為は、それほど大きな快楽でもなければ、安心感の拠り所というわけでもない。

排泄や遊びや仕事と同じく、人生における一つの必要事にすぎない。

回避型の人は、密着した距離を心地よく感じることができず、また他者に対して否定的なイメージを抱きがちであるため、性的な営みは、不安を掻き立てるばかりで、楽しめる行為になりにくい。

実際、回避型愛着スタイルの人は、性的関係をもった経験が少なく、つきあい始めても、性的関係をもつ回数が、回避型愛着スタイル以外の人に比べて少ないとされる。

同棲しているカップルを対象とした調査でも、いっしょに暮していても性交渉をもつ頻度が少なく、そうした場面を避ける傾向が、男女とも認められている。

その一方で、自慰する頻度は、回避型以外の人よりも多く、自分でコントロールできる性的な営みの方が気楽に楽しめると考えられている。

回避型愛着スタイルの人が性的な営みを楽しめるのは、長期的な重荷や責任を背負わせられるという憂いがなく、その場限りの関係をもつことができるときである。

結婚を迫られたり、永続的な関係を求められると、性的欲望自体を感じにくくなってしまう。

負担に対する不安のために、交わりを楽しむどころではなくなってしまうのだ。

子どもをつくるために営みを強要されたりすれば、なおさらである。

もはや、それは気楽な楽しみではなく、苦役でしかなくなってしまう。

『課長島耕作』というサラリーマンに高い人気を誇った漫画がある。

バブルのころに連載が始まったが、主人公・島耕作の愛情生活には、回避型愛着の傾向をはっきり認めることができる。

島耕作と妻との関係は、物語がスタートしたころからすでに冷え切ったものになっていた。

妻も浮気をしているらしいが、彼はそれを問い詰めようともしない。

彼もまた不倫の恋に興じるが、彼が一番楽しめるのは、相手がセックス以上の関係を求めないときである。

妻が別居や離婚を切り出しても、仕方ないと受け入れる。

子どもに対して愛情がないわけではないが、子どもと離ればなれになることにも淡々としている。

彼と肉体関係になる女性は、すべて女性の方からアプローチしてくる。

自分から惚れた女性を口説くことはない。

島耕作は、団塊の世代に属し、主人公と同様、読者の中心も、当時、三十代、四十代を迎えた戦後のベビーブーム世代であった。

こうした主人公に、多くの人が共感したということは、団塊の世代において、すでに回避型愛着スタイルが広がり始めていたということになるだろう。

回避型愛着スタイルの人にはプロセスはいらない

セックスに至るまでには、通常、恋愛をしたり、口説いたり、デートに誘ったりといった面倒な手順を何段階も踏み、時間と手間をかける必要があるが、回避型愛着スタイルの人にとっては、そうしたプロセスが厄介に思えてしまう。

たとえばセックスをする関係になったとしても、今度は結婚を迫られるのではないかとか、時間とお金をかけてわざわざデートをしても、肝心なときに機嫌を損ねたり、タイミングが悪かったりして、セックスの誘いを断られるのではないかなどと思い煩うのもうっとうしい。

そうした煩い事を避けるのに好都合なのが、いわゆる風俗や、ネットの掲示板である。

行きずりのセックスやプロの女性に性のはけ口を求めることも、回避型愛着スタイルの人に多いとされる。

ある三十代の男性が悩んでいた。
男性は専門職で、職場ではそつなく仕事をこなし、同僚との関係も良好だった。

美しい妻がいて、子どももいて、家庭生活に何ら問題がないかのようであった。

だが、男性はある秘密を抱えていた。

風俗に通うのがやめられないのだ。

その悪習が始まったのは、妻との交際中からだった。

最初は、まだ結婚前だった妻と会える頻度が減り、性欲の処理に利用したことからだった。

だが、結婚しても、こっそり隠れて利用するということが続いてしまった。

妻に対して性的魅力を感じ、何ら不満はないにもかかわらず、行きずりの女性とのセックスがやめられなかった。

かといって、特定の女性と不倫をしたり、恋愛をしたりする気持ちは毛頭なかった。

ただ、その場限りの性欲の処理を後腐れなく行えればよかった。

風俗であれば、相手の体調や気分に関係なく、自分が必要とするときに欲望を解消することができた。

出会ったばかりの女性とセックスをすることからは、性的な満足は得られても精神的な満足は得られなかった。

つまの方がずっと魅力的だと感じているが、性的な欲望を処理するだけの相手だと逆に割り切ることができた。

この男性には、もう一つ大きな特徴があった。

それは、一見するととても明朗で、気さくにしゃべり、社交的だとさえ思われているが、実は本当の友達が一人もいないということであった。

そうした傾向は、中学くらいから続いていて、学校では楽しく話をするが、個人的なつきあいをしようと思ったことは一度もなく、互いの家に遊びに行くというような関係になったこともなかった。

社交的にふるまう自分は、ある意味、演技している自分であり、プライベートでまでそれを続けたいとは思わなかった。

彼は、一見しただけではわかりにくいが、実は回避型愛着スタイルを抱えた人だったのである。

この男性は、支配的な母親に過保護に育てられていた。

何もかも母親が決めて、男性は母親の言いなりとなって暮らしてきた。

母親は、子どもを可愛がりすぎるタイプで、不安型の愛着スタイルの持ち主と考えられる。

不安型の母親に過剰に支配されて育った場合も、子どもはしばしば回避型愛着スタイルを身につけてしまう。

人と関わることに、自然な歓びよりも息苦しさを感じてしまうのである。

だから情緒的な関わり抜きのセックスの方が、うっとうしさを感じないですむ。

肉体や性的征服への純粋な欲求を満たすことができたのだ。

それは、味気無さを補って余りある魅力だった。

この男性の場合、母親に溺愛されたことから自己愛的な万能感が残り、それを満たすために、女性を思い通りに征服する行為が、深層心理に根ざす欲求に、うまくはまりこんでしまったのだろう。

いわゆる男根ナルシズムだが、そこで味わう満足には、後ろめたさはあるものの、支配的な母親とどこか重なる妻との管理されたセックスからは得られない自由さがある。

それは、この男性にとって、母親や妻の支配から解放されるという意味をもっていたのだろう。

回避型愛着スタイルの人は性行為を忌避する場合も

このように、性行為を非情緒的な行為に貶めることで、スポーツやゲームのように扱おうとする回避型愛着スタイルの人がいる一方、むしろ回避型愛着スタイルに多いのは、性行為にあまり積極的になれないというタイプである。

比較的軽度のものが性行為の回避、いわゆるセックスレスであり、さらに重度なのが性行為そのものの忌避である。

性行為の回避は、性行為によって得られる快感よりも、性行為に伴う気苦労や苦痛、不安感といったものが勝ることによって起きる。

パートナーから性行為について責められたり、失敗した体験が原因となることもあるし、パートナーからから拒否されたことをきっかけに、セックスレスに陥る場合もある。

愛着が安定していないカップルでは、パートナーへの性的な欲求が衰えたり、冷めてくると、互いの欲求がシンクロしにくくなる。

ズレやすれ違いが増え、セックスの拒否や回避も起きやすくなる。

パートナーの一方が性的な欲求不満を抱えてしまうと、性的な関係の終焉が関係の終焉にもなりやすい。

他方、性行為の忌避には、性行為恐怖症のような状態から、禁欲や非人格的な対象を求めるといったものまで、さまざまなタイプがある。

いずれにしろ現実の異性や生殖器が、グロテスクで醜悪で穢れたもののように感じる傾向は共通している。

性行為恐怖症は、インポテンツという問題を伴いやすい。

それが元で、パートナーに責められたり嘲られたことから、性行為恐怖症に至ってしまう場合もある。

禁欲的な生活スタイルも、回避型愛着スタイルの人がしばしば採用する生き方である。

社会的喜びがとぼしいシゾイド的な人では、その傾向が強まりやすい。

二十代後半の男性Tさんは、女性恐怖症に苦しんでいた。

人並み以上のルックスに恵まれているにもかかわらず、自分を醜いと感じ、また自分の能力にも自信がもてないでいた。

そのことで、何度もカウンセリングを受けてきたが、カウンセラーに対しても打ち解けることができないと悩んでいた。

本心が言えず、カウンセラーの発言に合わせてしまうのだが、同時に、わかってもらえないことに絶望して心を閉ざし、うわべだけで話す自分を感じていたのである。

人に理解されたいという気持ちが極めて強く切実であるにもかかわらず、自分を素直に開示できないのだった。

それは、結局、人を心から信じることができないからであった。

この男性の根底にあるのもまた、愛着の問題であった。

彼は、回避型に加えて、不安型も同居した、恐れ・回避型と呼ばれる愛着スタイルを抱えていたのである。

男性の父親は、子育てにまったく無関心で、現実の生活でも無力な回避型愛着スタイルの人物であった。

父親に何か言って欲しい、関わってほしいと思っても、父親はすぐ逃げ腰になってしまうのだった。

片や母親は、いつも先回りして心配ばかりし、子どもの世話を焼くことを生きがいにしているような不安型愛着スタイルの女性であった。

母親の不安型愛着の問題が、明らかな形で露呈し始めたのは、彼が高校生になったころのことである。

彼が「バイトをしたい」と言ったとき、許してくれなかったのである。

その代わりに小遣いは潤沢に与えられた。

彼が大学の二回生になったとき、「仕送りを半分にしてもたっていいから、バイトをしたい」と言ったときも、母親は強硬に反対した。

結局男性は、自立の練習をする機会をもてないまま、大学生活を終え、就職した。

しかし、対人関係でつまずき、会社を辞め、結局母親に依存した状態が続いてしまうことになる。

その一方で、自分を溺愛した母親を憎悪するようになる。

自分の自立を阻んだのは母親のエゴだということを、彼は無意識に感じていたのだ。

それから何年も経って、自分と向き合う中で、彼は自分の対人関係の問題が、いつも母親に気をつかい顔色をうかがってきたことや、父親から関わってもらえなかったことと関係していることに気づくようになった。

そして彼の中の女性恐怖、女性嫌悪の根っこは心の中に抑圧してきた母親に対する恐怖と嫌悪にあったのである。

回避型愛着スタイルの非人格的な性愛

回避型愛着スタイルの人は、しばしば現実の人物を愛するというよりも、その人自身の自己愛的な偶像を愛する。

現実に深く耽溺することは、現実の存在を失ったとき大きな打撃を受けるが、偶像を愛していれば傷つく心配は少ないからである。

だから回避型愛着スタイルの人は、しばしば非人格的な対象への愛という形をとる。

たとえば、現実の異性よりも、アイドルやスターといった偶像的な対象への強い憧憬である。

最近では、アニメのキャラクターのような架空の存在への愛という形をとることも多い。

このように抽象化され、純化された存在に比べれば、現実の異性は、あまりにも不完全で、猥雑で、醜悪にさえ感じられてしまう。

回避型愛着スタイルの人は、感情の渦に巻き込まれないために、距離をとるという戦略に頼っている。

積極的に探索したり、自分をありのままに表現したり、相手を受け入れる間口を広げるよりも、関わりを制限し、外界への窓口を小さくすることで自分の身を守っているのである。

性的な営みにおいても、相手の求めや反応を感じとり、それに応えていくというよりも、自分の見たいものだけを見て、自分の中だけで自己完結しようとする。

そのため、性的な営みは、パートナーとの相互的で共感的な営みというよりも、相手を支配したりコントロールしようとする行為となってしまう。

だから、回避型愛着スタイルの人のセックスは、パートナーの感情やニーズを無視した、自分勝手な行為になりやすい。

SM的な傾向を帯びたり、フェティシズム的な特徴を示しやすいのである。

回避型愛着スタイルの人は、親密さをさけようとする傾向があるにもかかわらず、ある時期、相手を問わず乱交的なセックスに陥ることがある。

これは征服や支配欲、賞賛欲といった自己愛的な願望に突き動かされたことによるものだが、セックス自体の歓びや関わりから得られる安心感は伴わず、むしろ飢餓感や空虚さが強まってしまう。

そうした場合、今度は逆に禁欲的な生活に路線変更するということも少なくない。

セックス本来の歓びとは無縁な、行為のための行為でしかないので、空しさが限度を超えると、もはやそれを続ける意味はなくなってしまうのである。

回避型愛着スタイルの人は、愛情とセックスをまったく別の問題としてみる傾向がある。

愛情などなくても、性欲さえあればセックスできると考えるのである。

カサノバ的な猟色は、回避型愛着スタイルの人によって行われる。

一方、安定型の人は、愛情を感じていない相手とセックスすることに、強い抵抗を感じる。

また不安型の人は、愛情というよりも淋しさを紛らわせたり、相手の機嫌を損ねないためにセックスをする。

本当は愛していない相手でも、強く求められると、身近な人と性的な交わりをもったり、相手を問わずセックスに至ることがある。

回避型愛着スタイルの人が、自分の性的な能力や魅力を誇示するために、愛情のない相手でもセックスするのとは、意味合いが異なっている。

相性と愛着スタイルの組み合わせ

昔から「相性が合う・合わない」ということはよく言われる。

相性の合う相手となら、互いが安らぎを得やすく、うまく支え合うことで、仕事でもよい働きができる。

ところが、相性の悪い相手だと、関係がぎくしゃくするだけでなく、仕事や社会的な活動という面でも、互いの能力を活かしきれずに、不本意なパフォーマンスしか示せない。

こうした相互作用は、性的な営みについても言える。

互いが歓びを共有する関係になることもあれば、どちらもそうした行為に関心を失くしてしまい、早く老け込んだり、欲求不満を強めてしまう場合もある。

歓びを共有し合う関係では、その好影響が、健康面や社会的活力など、他の面にも及ぶ。

俗に「上げまん」とか「下げまん」といった言い方をするが、パートナーとの相性によって、その人の性的活力のみならず、社会的成功さえも左右されるということは、実際に経験するところである。

この相性というものは、愛着スタイルの相互作用としてみることができる。

回避型愛着スタイルの男性の場合、パートナーが不安型愛着スタイルだと、性的交渉の頻度がむしろ少なくなってしまうと報告されている。

不安型愛着スタイルの女性は、親密さに対する渇望が強く、性的な営みに愛情の証を求めようとする。

この研究論文の著者によると、回避型愛着スタイルの男性は、そんな不安型愛着スタイルの女性から求められれば求められるほど、性的営みを重荷に感じ、それを歓びと感じるよりも厭わしく思ってしまうのではないかと推測している。

回避型愛着スタイルの女性の場合にも、同じ傾向がみられる。

パートナーが不安型愛着スタイルの男性の場合、同じように性的な交渉の頻度は減ってしまうのである。

回避型愛着スタイルと不安型愛着スタイルの欲求のギャップは、性的な接触の頻度にもあらわれるが、より重要なのは、その質的な違いである。

不安型愛着スタイルの人がセックスに求めるのは、情緒的なふれあいや精神的なつながりで、自分が愛されていると感じられることである。

だから、セックス自体よりも、抱擁されることや愛撫されることを求める傾向もある。

それに対して、回避型愛着スタイルの人は、情緒的なものを抜きにしたセックスを、むしろ好む傾向にある。

抱擁やキスをあまり好まず、愛撫したりされることも心から楽しめない。

性的な営みがマンネリ化すると、特に回避型愛着スタイルの人は、そうしたことをしだいに省略し、いきなり関係しようとしがちである。

相手の反応をみながら興奮を高めていくというプロセスが軽視されてしまうのは、もともとそうしたものへの関心が低く、心地よさをあまり感じられないからである。

当然、不安型愛着スタイルのパートナーにしてみたら、求めているものとまったく違う、味気ないセックスになってしまう。

また、不安型愛着スタイルの人にとってセックスは、愛されていることの証という意味があるが、回避型愛着スタイルの人の場合、自分の価値や自信を高め、プライドを満足させるという意味が強い。

自分の性的能力や魅力を証明したり、相手を虜にし征服することで満足を味わったり、魅力的なパートナーと関係をもつことで周囲から賞賛され羨ましがられたりすることも、性的営みの重要な目的となるのである。

実際、回避型愛着スタイルの人の場合、それほど乗り気ではないのだが、周囲に一人前と認められるために、セックスをしたり結婚をするというケースが少なくない。

情緒的なつながりのまったくない相手に、童貞や処女を安っぽく捧げてしまうことも、回避型愛着スタイルの男女、ことに男性に多いとされる。

回避型愛着スタイルでも、性行為に積極的なひとはいるが、その場合、気持ちのつながりと性的な関係は、かならずしも一致せず、本当に愛している人に対しては言い寄ったりせず、どうでもいい相手とセックスをするという傾向がみられる。

また、セックスや異性の肉体そのものへの関心、性的欲求の満足が、性行為のモチベーションとして大きい傾向もある。

回避型愛着スタイルの人は独りよがりな行為になりやすい

回避型愛着スタイルの人は、自分の性的な幻想を満足させるために、その道具として、パートナーの肉体を利用しようとする傾向もみられる。

幻想に強く支配されたセックスは、えてして独りよがりなものとなりがちである。

相手の自然な反応によって、歓びや興奮が高まるというよりも、自分の期待した通りの反応が返ってこないと、幻滅を感じてしまう。

だから、パートナーの現実の反応は、興ざめなものとして映ることもある。

回避型愛着スタイルの人は、感情の力が弱い。

感情や本能的嗅覚しか答えを出せないような問題が苦手である。

だから、相手の気持ちを感じとることに困難を感じる。

嫌われているのに、愛されていると思い込むこともあれば、愛されているのに、まったく気づかないこともある。

これでは、せっかく奮起して動き出しても、選ぶ相手を間違ってしまうことになりかねない。

それで手痛い失敗を味わうと、ますます臆病になって、動こうとしなくなる。

愛着が不安定な人の場合、セックスを強要するリスクが高くなるとされるが、なかでも回避型愛着スタイルの人は、最初のデートのときなど、相手に心の準備ができていないにもかかわらず、セックスを迫るという事態が起きやすい。

相手の反応や気持ちに目を向けることよりも、自分の欲求や期待に支配されて行動するので、そうした行き違いが生じやすいのである。

付き合っていたり、一緒に暮らしている場合でも、回避型愛着スタイルの人は、パートナーの気持ちと関係なく性的な営みをもとうとする。

パートナーを自分の所有物のように受け止めやすく、また義務として自分の欲求に応じるべきだと考える傾向もみられる。

不安型愛着スタイルの人も、相手に性行為を強要する場合があるが、安心感を得ようとして求めることが多い。

相手から見捨てられる、拒否されるという不安を、セックスをすることで打ち消し、紛らわそうとするのである。

その意味で、回避型愛着スタイルの人にとっても不安型愛着スタイルの人にとっても、セックスを拒否されることは大きな動揺を引き起こす。

回避型愛着スタイルの人は、プライドを傷つけられたと感じ、驚きと怒りに囚われる。

継続的な関係にある場合は、パートナーが義務やルールに反していると受け止め、そのことを引きずりやすい。

回避型愛着スタイルの人の生活は、その場その場の情緒や感情ではなく、義務や約束事や習慣をベースに成り立っているので、イレギュラーな事態をうまく受け止められないのだ。

こうして、パートナーとの生活が安全基地と感じられなくなっていく。

一方、不安型愛着スタイルの人にとっては、義務やルールよりも、そのときの気持ちが何よりも重視されるので、習慣や決まり事のようにセックスを求められることは、とても苦痛で暴力的なことに思えてしまう。

もちろん、そうしたパートナーを安全基地とは感じられない。

こうした受け止め方の違いが、双方から安全基地を奪い、愛着を不安定なものに変えていく。

セックスにおけるすれ違いは、その意味でも重要な問題だと言える。

※参考文献:回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち 岡田尊司著

 

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