回避型の愛着スタイルも含め不安定な愛着スタイルは、愛着が傷を受けたことから始まっている。

その起源を思い出すことが困難な場合も多いのだが、ある時期までは、安定した愛着を形成していたという場合には、愛着が傷を受けた状況を回想し、自覚できることがある。

無自覚な場合に比べ、自覚できる場合は回復のチャンスがそれだけ大きくなる。

愛着が何段階かで傷を受けているという場合もある。

無自覚な傷に、自覚された傷が加わっているというケースも多い。

そんなときは、記憶にある傷を自覚するだけでも、回復の手助けとなる。

記憶にない傷は自覚しようがないかというと、必ずしもそうではない。

傷となった直接の出来事自体は自覚できないとしても、その痕跡はさまざまな形で尾を引いているものだ。

親に対して何となくよそよそしい気持ちしかもてないとか、反発や嫌悪を感じる、怖いと思ってしまうといった自分ではコントロールのできない反応も、こうした”痕跡”を示していると言えるし、何か腑に落ちない場面や違和感を伴う出来事が記憶に残っている場合もある。

そうした生理的な反応や記憶の破片は、抑圧しきれない愛着の傷の”痕跡”であることが多い。

その後、親や周囲から聞き知った状況から、記憶もない時間に、その人がどのように扱われ、暮らしていたかを推測し、再構成することは、さほど難しいことではない。

ある程度、大人になると、自分の身に何が起こっていたかを、ほぼ正確に知ることは、その気になればできることだ。

ただ、傷が深すぎると、向き合う勇気がもてず、自分の過去を封印したままに過ごしてしまうことも多いが。

人生の壁にぶつかったり、行き詰まったとき、現在直面している問題だけでなく、その人がずっと放置してきた問題が改めて疼き始めるということも多い。

存在を揺さぶられるような体験をしたとき、人は自分を根底から見直し、基盤から立て直す必要に迫られるのである。

それは、ピンチであるが、同時にチャンスでもある。

大地震が来て、家が半壊することが、今まで放置していた欠陥に取り組み、もっと堅牢な家に造り直す機会となるように、つまずいたときは、愛着の傷という問題に向き合い、それを修復する好機なのである。

修復を求めて、問題が起きているということすらある。

そうした場合には、愛着の傷にきちんと手当てをする対応をしない限り、事態は一向に改善せず、問題が長引くこととなる。

回避という防衛がとても強い場合には、自覚的な作業が困難なので、修復に長い時間を要するのが常だ。

数十年という時間を要することもふつうである。

そうした場合には、修復のプロセスが無意識的に進み、その傷が乗り越えられたときに、自分の傷の存在が自覚されるようになるという場合もある。

ホッファーや山頭火の迷走した人生は、無自覚的な修復のプロセスに費やされた時間だったと言えるだろう。

解剖学者の養老孟司さんは、ご自身の回想によると、子どものころ、無口で大人しく、あいさつをするのさえ苦手な子どもだったという。

歩き出したり話し始めるのも遅く、昆虫採集や自然観察に熱中したというと、今ならすぐに「発達障害」とか「自閉症スペクトラム」ではないかと思われたかもしれない。

だが、それは生物学的な特性ばかりに注目した一面的な見方であり、氏が育った背景を知ると、別の一面もそこに関わっていることに気づかされる。

それは、幼い日に起きた、父親との死別という悲しい出来事である。

父親は、氏が四歳のとき、一年半の闘病の末、結核で亡くなった。

氏は、父親にまつわる二つの場面を鮮明に覚えているという。

一つは、父親の枕元においてあった赤いガラガラで、なぜそんなものがおいてあるのかと訊ねると、父親は声が出せないので、これで人を呼ぶのだと答えたという。

そのとき、子ども心に訊ねてはいけないことを聞いてしまったという思いに囚われ、以来、人に訊ねることに遠慮を覚えるようになったという。

もう一つの記憶は、父親が飼っていた文鳥を逃してやる光景であったが、五十歳を過ぎてから、その出来事が、実は父親が亡くなる当日の朝に起きていたということを知る。

父親は自分の死の直前に文鳥を自由にしてやったのだが、その光景が、父親の死とは切り離されて、養老さんの心に焼き付いたのだった。

父親の死に際のことも、氏は、心のどこかにずっと引きずっていたという。

臨終間際の父親が絶え絶えの息を喘がせているとき、養老少年は父親に「さようなら」を言うように促されたのだが、どうしてもそれが言えなかったのだ。

五十歳近くになったある日、電車に乗っていた養老さんは、突然、気付いたという。

自分があいさつが苦手だったのは、あのとき「さようなら」を言えなかったためではないか。

だが、幼心に、さよならを言ってしまったら、父親が遠くに行ってしまいそうで、言わないことでせめてもの抵抗をしていたのではないか。

そう思った時、はらはらと涙が零れ落ちたという。

焼き場でも、どうしても泣くことが出来なかった養老さんだったが、はじめて父親の死に涙を流したのだ。

父親を喪うという悲しみを受け入れ、引きずっていた愛着の傷が癒えるまでに、それこそ半世紀近い歳月を要したのである。

※参考文献:回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち 岡田尊司著