認知が愛着を変えるのか、愛着が認知を変えるのか?

愛着が安定している時の認知(物事の受け止め方)と、愛着障害の認知は、同じ人であっても大きな違いを見せる。

愛着が安定している人の認知の特徴は、不快なことがあっても、それを過大視せず、むしろ、いい面や背景に思いを巡らせ、嘆いたり攻撃したりするのではなく、理解し受容しようとする。

不安型愛着スタイルに苦しんでいた人が、安定型に変わったときも、物事の悪い部分にとらわれすぎず、「そういうことがあったにしろ、良いところもあるのだし、また悪い点さえも、何かプラスになる面ももつ」と、肯定的に考えるようになる。

そして、自分がされた不快なことは許し、自分がしてもらった良かったことに、感謝の気持ちを抱くようになる。

体験した事実が同じであっても、その人の認知が変わることによって、事実を肯定的に考えられるようになる。

愛着の安定性は、体験した事実そのものよりも、それをどう受け止めるかという姿勢に左右されるのである。

同じような悲惨な体験をしても、その傷から人間不信に陥り、悲観的な考えから抜け出せない人もいるが、一方で、そうした悲観的な考えにとらわれることを免れたり、一時的にそうなっても、再び見方を変え、希望と信頼を取り戻す人もいる。

そこから、次のような希望的観測が生まれる。

身に受けた事実が同じであっても、受け止め方を変えることによって、愛着が安定したものに変わるのではないのか。

一言でいえば、「認知が変わることで、愛着を安定したものに変えることができる」のではないか。

その可能性を否定するつもりはない。

しかし、そうしたことが起きたと断言できるケースは、実際には稀である。

まず愛着の安定化が起き、そこから認知が変わったというケースの方が圧倒的に多い。

支援者が熱心にかかわることで、愛着が安定し、絶対許せないと思っていた気持ちが次第に薄らいでいき、物事の受け止め方が変わり、ぎくしゃくしていた家族との関係も改善していく―というのが、最も自然な流れである。

認知療法がうまくいくのは、すでに愛着が安定した人

つまり、最初の変化は、いきなり認知の変化から起きているというよりも、何らかの体験、多くは支え手との出会いによって、愛着の安定化が先に起きていることが多いのである。

例外的に、認知の変化の方が先行して起きるケースとしては、自分が死にそうな目にあったことがきっかけとか、愛する存在の死や命にかかわる事態に直面して、という場合が多い。

つまり、何らかの局限的体験が引き金となっている。

ただ、これらは運命の偶然によって引き起こされる事態であり、克服法として実践できるものではない。

もちろん、そうしたことがきっかけになり、ピンチがチャンスを生むということは、知っておいて損はない。

話を戻すと、愛着の安定化が十分でない段階で、認知を修正しようとすると、逆効果になることが多いという事だ。

よくあることだが「その受け止め方はダメだ」と言われたことで、

自分を否定されたと思い、落ち込んでしまったり、「自分の受け止め方はダメなんだ」と思うことで、人に対してかかわる自信が余計なくなり、改善しようという取り組み自体が行き詰まってしまう。

むしろ、そうした修正をほどこさず、愛着の安定化だけにエネルギーを傾注した方が、認知もバランスの良いものに変化するということを、しばしば経験する。

通常の認知療法なども、それがうまくいくのは、愛着が比較的安定した人である。

被害的認知を修正しようとしたばっかりに

高校生の女の子が、クラスの中で孤立し、教室に入れなくなっている。

女の子の相談を受けていたスクールカウンセラーは、愛着障害の彼女が物事を悪い方に受け止めすぎる傾向があることを強く感じるようになった。

その偏った認知によって、悪意のないさりげない言動までも、自分を攻撃するもののように受け止めていると思えたのである。

女の子の受け止め方が、愛着障害の彼女の適応力を損ない、教室でも孤立を招いているに違いなかった。

スクールカウンセラーとしては、愛着障害の彼女の被害的に受け止めてしまう傾向を修正できれば、もっと気楽に教室にも入れるようになるのではないか、そう思って、認知療法を試みることにしたのである。

ところが、カウンセラーが、「〇〇さんには、ちょっと物事を悪く受け止めすぎる傾向があるんじゃない?もう少し、心が痛まない受け止め方はないかな?」と発した言葉に、その愛着障害の女の子は顔色を変えた。

「先生は、私の言うことを信じてくれないの?私がオーバーに受け取っていると思っているの?」

カウンセラーは、「そんなことはないよ。嫌なことを言われて辛かったんだよね。でも、もう少し傷つかない受け止め方ができたらいいなと思って」と説明した。

その場は、納得して帰ったものの、その愛着障害の女の子は、二度とそのカウンセラーのところには行かず、「カウンセラーが自分の辛さを少しもわかってくれず、私の方にも責任があると言った」と、母親に涙ながらに訴えるという事態になってしまった。

その後、彼女を担当することになった別のカウンセラーは、愛着障害の彼女の気持ちに寄り添うことだけに注力した。

それと同時に、母親からも愛着障害の女の子にプレッシャーがかかっている点に着目して、母親のサポートにも取り組んだ。

母親はキリキリするのをやめ、愛着障害の女の子との関係も安定したものとなった。

すると女の子は、元気を回復し、クラスにも入れるようになった。

その後、愛着障害だった彼女は、自分から、「少し敏感になり過ぎて、悪く考えすぎていたかもしれない」と以前のことを振り返った。

認知には、何の手当てもしていないが、愛着が安定したことで、被害的な認知もなくなってしまったのである。

このケースのように、愛着に課題がある場合には、認知を扱うよりも、愛着の安定化に努力した方が有益である。

支援者との愛着がまず安定したものになるようにするとともに、親や家族との愛着の安定化や修復を図っていく。

ただ、愛着が安定し始めた時に、認知の方にも働きかけて、より柔軟で、適応性の高い受け止め方へと導くことは、いっそう着実な変化を生むことにつながる。

とはいえ、そのためには、本人のいる段階を追い越さないようにする必要がある。

本人が自分で気づくということが、大事なのである。