彼は、確かに正直で、律儀で、几帳面で、正義感が強く、義務感も強い。

しかし、それは本当にそうなのだろうか。

普通の人以上に義務感、正義感が強いのは、一種の”やましさ”があるからではないか。
”やましさ”の抑圧の結果として、義務感、責任感、正義感が強いのではないか。

自分に正直になってみると、実は普通の人以上に、義務感が強いわけではない。

本当のところ、彼は無意識下では普通の人以上に、利己主義、無責任、自己中心性があるのではないだろうか。

彼は普通の人以上に利害に敏感である、普通の人以上に卑怯である。

要するに、普通の人以上に”ずるい”のである。

しかし、彼の規範意識は普通の人以上に強い。

こうあるべきだという規範意識は肥大している。

そして、自分は利己主義であるという感じ方を、意志の力で無意識へと追いやってしまっている。

彼はすべてにわたって模範的である。

しかし実のところ、本当のものは何ひとつないのではないか。

すべては抑圧の結果として、そう見えるだけなのである。

彼の正義感、義務感は、自分は利己主義者であるという感じ方を抑圧し、やましさを裏側にはりつけている正義感、義務感でしかないのではないか。

模範的である彼が、家庭や学校や職場で、他人と紛争を起こしやすいのは、表面的には、正義感、義務感が強すぎるからのように見える。

しかし実際は、本当の正義感、義務感が欠如しているからにすぎないのである。

悩み相談で次のようなことがよくある。

「うちの子は、正義感が強くて、担任の先生と折り合いが悪いのですが、どうしたらいいでしょう。」

いろいろ聞くうちに、やがて母親は、担任の先生を非難し始める。

「うちの子は、どうしても曲がったことが嫌いですから、担任の先生ととことんやってしまうんです。」

この正義の士が行くところ、どこでも人間関係のトラブルが起きる。

彼がトラブルメーカーになってしまうのは、普通の人が持っている程度の義務感や責任感が、彼にないからなのである。

その欠如を抑圧することから出てくる誇大な義務感に、周囲の人はついていけないのである。

自分の内部にもりあがる正義への意欲があれば、そんなに周囲といざこざを起こさないのではないか。

むしろ、正義への意欲の欠如を自分自身隠そうとするところから生じる正義感だから、ついつい他人への批判と結びついてしまう。

内発的に社会への愛情があって、そこから生じてくる社会的正義感であれば、それほど周囲といざこざは出てこないはずである。

むしろ、世の中の低俗さや不正を論難すること、そのことが目的の社会的正義だから、周囲はたまらないのである。

社会への愛情、周囲へのいたわりなどもっていない自分を抑圧して出てくる社会正義だから、その正義はづおしても誇大な言葉となって表現される。

その誇大な言葉で表現される社会正義に人はついていけないのである。

自らの虚偽性を抑圧して出てくる大義名分をふりかざされたのでは周囲はたまらない。

自らの内面は虚偽に満ちている。

彼は無意識下では、自分が私利私欲の人であることを知っている。

がりがり亡者であることを知っている。

だからこそ、世を慨嘆するのである。

社会批判は口実に過ぎない。

社会に対して内発的な愛情を持っている人間は、その正義感ゆえにいたるところで日常的にいざこざを起こすなどということはない。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するにはいざこざの原因は自分に正直になって、自分なのではないか、そもそもいざこざなのか考えてみることである。

※参考文献:自分を嫌うな 加藤諦三著