”おもちゃにされた人生”

弱い人間に「変われ!」と暗黙に求めてくる人は多い。
まず初めは親である。

親は子供を愛したつもりでいるかもしれない。
しかし、それは親の気持ちに沿って愛したに過ぎないのである。

今までに、彼は自分の気持ちに沿って愛されたことがあるだろうか。
もしかすると、生まれてから一度もなかったのではないだろうか。

もし、本当にありのままの彼が愛されたのであれば、どうして彼はそんなに目つきが悪くて苦しんでいるのだろう。
寝付いてもなぜ、すぐに目が覚めてしまうのだろう。

もし、本当にありのままの彼が愛されたのであれば、どうしてそんなに何をするのも億劫なのだろう。
なぜそんなに疲れやすいか、なぜそんなに動悸がするのか。

もし、本当にありのままの彼が愛されたのであれば、なぜそんなに胃が痛むのか、なぜそんなに食欲不振なのか、なぜそんなに全身倦怠なのか。

もし、本当にありのままの彼が愛されたのであれば、なぜそんなに過去の失敗のことで堂々巡りをしているのか、なぜ集中力がないのか、なぜ決断できないのか、なぜ行動力がないのか、なぜそんなに物事に取り組んでいくエネルギーがないのか。

人間にとって最も必要な愛を、幼児から少年時代に受けることができたら、どうしてこのような歪んだ人間になることがあろうか。

もし本当に愛されたなら、青年になって、どうして他人の評価によって自分の気持ちが揺れ動くほど弱い自我しか形成できないのか。

「俺はこういう人間だ」と、みんなの前にありのままの自分を出して他人と付き合っていこうとする自我の強さは、人間の成長に必要な愛を受けていれば、でてきていいではないか。

それを、他人に嫌われるのが怖くて、ありのままの自分を出せないのは、成長に必要な愛が欠如していたからではないか。

愛情は酸素なのである。

酸素なしでは肉体が生きていけないように、愛情なしでは精神は死ぬ。

彼は、愛されたつもりになっている。
しかし、それは親が彼に一体化し、自分の自由にしようとしただけなのである。
子供に一体化して、子供を自分の思いのままに支配しようとする。
それでいながら、それを愛と錯覚する。

彼はきっと親に共鳴したことがあるだろう。

親が「いいなあ」と言った時、それにあわせて、彼も「いいなあ」といったかもしれない。
しかし、親の方が彼に共鳴したことはあったのだろうか。

親の考えるように考え、親の感じるように感じてきた。
そして、時たま彼自身の感じ方を表現しようものなら、「勝手だねえ」となじられたのではないだろうか。

しかし、彼の心の中に入って考えてみれば、それは決して勝手ではなかった。
つまり、彼は親に共鳴している限りにおいて愛されただけなのである。

親のコントロールに服している限り、親の自己中心的な要求に迎合しているかぎり、彼は愛された。
しかし、そんな欺瞞の愛などない方がよほどよかったのである。

最もいいのは本当に愛されること、次にいいのは愛されないこと、最悪なのは親に一体化されて親の意のままに支配されることである。

彼はコントロールされた。
しかし、彼がやりたいことを親はサポートしなかった。
コントロールはされるけれど、サポートはされない。
これが親に”おもちゃにされた人生”である。

彼の人生をおもちゃにしようとする親に適応するために、彼は権威主義になった。
因習への執着、内集団権威への服従。
しかし、普遍的価値には無関心である。
正直であらねばならないのは会社の上司や同僚、部下に対してであり、外国の企業には嘘をついてもよく、外国の企業に嘘をついても自分の属する企業が儲かれば、良心の呵責などツメのアカほども感じない。
内省欠如。

そして、権威主義的性格となれば、紋切り型の者の味方、皮肉と敵意、怖れの投射、セックスへの過大な関心。
彼の人生をおもちゃにしようとする親に適用しようとして、彼の性格は権威主義的になってしまった。
権威主義というのはえらく劣等感が激しい。

彼は愛されたのではなく、支配されたのである。
そして、彼の考えている親孝行などは支配に対する服従であって、決して親に対する愛ではない。

それにしても、われわれ日本人には内集団の権威へ服従する人がなんと多いのだろうか。

※参考文献:自分を嫌うな 加藤諦三著