過剰な自己意識と本当の自分

期待された役割を生きる人は、愛されたいという強迫的な願望が基礎にあるために、嫌われないか、拒絶されるようなことをしていないかなどと、過度に気にかける心性があります。

そのうえに、内面の心の貧弱さ、無能力さを意識しており、それを必死に隠し、強がっている存在です。

こうした「本当の自分」を暴露されると、心が傷つき、混乱させられ、存在そのものが脅かされるという不安を持ちます。

このために、「本当の自分」が現れないようにと、自分の心と行動に常に注意を払わなければなりません。

「偽りの自分」によってうまく偽装するように、常に自分を監視しなければなりません。

こうして自分の心や行動に過剰に意識が向けられていきます。

他の人に自分がどのように映っているかが気になります。

他の人を見ても、実際には他の人を見ていません。

いつでも他の人に映った自分を見ようとしているのです。

他の人と話していても、相手の言葉をそのまま聞いていることはありません。

相手がどのような言葉を期待しているかを読み取ろうとしています。

「賢い人」と思われるためには、どのような言葉を返せばよいかと考えています。

こうした率直さの欠如のために、人と接する際に考えすぎて、不自然になってしまうことがあります。

過度の自己意識が、「本当の自分」を偽っているという自覚を強めるので、自己欺瞞や偽善という感覚から逃れられません。

本当の自分という豊かさの幻想

こうした過剰な自己意識ゆえに、期待された役割を生きる人は、「本当の自分」が繊細で内容豊かな自分だ、という思いを持っています。

しかし、実態はまったく逆です。

健全な自我においては、意識が外界と内界へバランス良く向けられていて、これによって自分を外界に開放し、心と行動が外界と調和しつつ豊かになっていきます。

ところが、「本当の自分」においては、意識はもっぱら内界へと向けられます。

たとえ外界に向いていても、それは外界から自分を防衛するためでしかありません。

現実は多様で複雑です。

多様で複雑な現実にぶつかるなかで、心的世界も多様で複雑な実質的内容で満たされ、現実のなかで機能する能力が獲得されていくのです。

ところが、「本当の自分」は、現実の行為を伴いません。

常に果てしなき可能性としてとどめられています。

永遠に実行されない意図として存在します。

このために、心はなんら実質的な内容で満たされることがありません。

だから、「借り物の感覚で、借り物の言葉しかしゃべっていない借り物の自分」という感じがするのです。

実質的な内容で満たされることが無いために、実質的な能力を獲得することもできません。

だから、現実の人生を生きていくという自信が希薄です。

アイデンティティを確信するためには、自分を知ってくれて、アイデンティティを固める助けになるような反応を返してくれる他者の存在を必要とします。

子どもが自分の幼い頃のことを聞きたがったり、両親の結婚のいきさつを聞きたがることなど、いずれも子どもにアイデンティティへの欲求があるためです。

青年が何時間も親友と語り合うこと、恋愛している男女が自分を語り、相手に語らせようとするのも、自分をしっかりとつかみたいからなのです。

ところが、期待された役割を生きる人は、「本当の自分」を表出することを拒否します。

このために、アイデンティティを確認してくれる他者からの反応を得ることができず、いつまでも自分が曖昧なままに留まっているような不安を覚えるのです。

このように、「本当の自分」を大きくしていくことは、自我の拡大ではなく、自我の萎縮へと至る道なのです。

「本当の自分」に救いを求めれば求めるほど、自分を貧弱化させているのです。

「本当の自分」は、強がっていても、自分が無能力だ、無価値だという感覚から逃れられず、貧弱な自分、空疎な自分という意識に苦しむのです。

期待された役割を生きる自分が生む憎しみ、嫉妬

期待された役割を生きる自分を形成するそもそもの発端は、養育者からの愛が得られないという不安でありました。

このために、代償的自己を強固に形成する人の心の底には不安感が横たわっています。

必要以上にがんばってしまうのは、根底に外界への不信による不安があるためなのです。

世の中、じっさいには、なんとかなるものです。

取り返しのつかないことなど、そうそうあるものではありません。

ところが、期待された役割を生きる人は、世の中をいきていくのは大変なことであり、なにか取り返しのつかない出来事が生じるのではないかという恐れをいつも持っています。

たとえば、発表や報告をしなければならないとき、多くの人は、「なんとかなるものさ」と思います。

ところが期待された役割を生きる自分が強固に形成された人は、自分の価値を決定的に貶めてしまうような失敗を予期して、発表や報告を人生の重大事ととらえてしまいます。

こうしたことのために、「本当の自分」は「偽りの自分」を嫌うだけでなく、恐れてもいます。

なぜなら、たとえば、力のなさが現実に露呈してしまうなど、「偽りの自分」の行動によって「本当の自分」の欺瞞性が暴かれてしまう危険があるからです。

また、「本当の自分」とは幻想であることを心の隅で意識しているので、外界によってこの欺瞞性が暴露されてしまい、救いの砦としての「本当の自分」が陥落させられてしまうかもしれないと恐れています。

このために、外界は「本当の自分」にとって大きな脅威となり、敵意の対象となります。

さらに、他の人は自信に満ちているように感じられ、自分を楽しんで生きているように感じられ、つい、うらやんでしまいます。

そうなれない自分にもどかしさや怒り、無力感を感じます。

こうしたことで、「本当の自分」には、羨望や嫉妬、憎しみの感情が基底にあります。

しかし、期待された役割を生きる多くの人は「良い人」なので、こうした感情を表現することはほとんどありません。

それでも、何かの拍子に辛らつな言葉とか、突発的な怒りなどとして表れ、その意外な姿に周囲の人が戸惑うというようなことがあります。

なかにはこの感情にとりわけ敏感で、自分の本性を邪悪ととらえている人もいます。

この邪悪な本性を偽って生活している二重人格であるという感覚を持ちます。

じっさい二重人格者では、普段現れないもう一つの人格は憎しみや敵意に満ちた人格であるのが通常です。

この邪悪さの表出を試そうとする人もいます。

また、反抗期には、この邪悪さを意識的に表出する傾向があります。

たとえば、わざと憎まれることを言うとか、傷つけることを言うなどです。

あるいは、性を売るとか、愛のないセックスをするなど、自分の身体を汚す行動を取ることです。

これによって、「本当の自分」を露出したかのような気持ちになるのです。

円満な社会人であり、良き家庭人である人がひどい事件を起こし、周囲の人が「あんないい人がこんな事件を起こすなんて信じられない」と口を揃えて言うことがあります。

これも、「本当の自分」の敵意や憎しみが引き起こした事件と理解されるものが少なくありません。

※参考文献:「いい人に見られたい」症候群 根本橘夫著