楽しむとは快感を味わうことである。

快感は生命の源であり、価値の源泉である。

快体験は自己価値感をもたらし、不快体験は無価値感をもたらす。

無価値感の強い人は快感を犠牲にしがちであり、そのためにいっそう無価値感を強めてしまう。

快楽は悪いことか?

禁じられる快感

無価値感の強い人は、快感に対する怖れがあり、快体験に没頭できない。

のんびりとした時間を過ごしていると、怠惰を責める心が湧いてくる。

楽しいときを過ごしている最中でも、脳裏にふと「これでいいのか」という不安がよぎる。

食事を楽しんでいるときには、お腹のあたりに不快感がうごめく。

セックスやマスターベーションにはとくに強い罪悪感が伴う。

これは、成長する過程で快感が罪悪感や不安と結びついてしまうためである。

子どもをしつけるときは、快感のあとには罰が来る、と脅すことが少なくない。

「アイスクリームをそんなに食べると、お腹が痛くなるよ。」

「ゲームばかりしていると、受験に落ちるぞ。」

さらに、苦しみにこそ価値がある、という理念で育てられる。

それは、次のような標語で表される。

「可愛い子には旅をさせよ。」

「鞭を惜しめば子どもは駄目になる。」

子どもが快を求めると、怠け者、わがまま、自分勝手、利己主義などと非難され、快自体が罪悪であると教えられる。

学校でもこの理念が根底をなしている。

子どもたちは、意義もわからず、興味も持てず、苦痛なだけの学習や諸活動に従事しなければならない。

これらを拒否しようとすれば不安や罪悪感を持つよう説諭され、実際罰が与えられる。

宗教も快楽を禁じる。

仏教では、快感への欲求が人間を苦しめるものとして、これを煩悩と呼ぶ。

快楽への欲求を捨てることこそが、平穏な心に至る道だと説く。

私たちの存在の源泉である性的快感を最も根源的な罪としてとらえ、原罪と呼ぶ宗教もある。

成長過程で快感が性と結びつくと、それに対応する身体部位も罪を担うようになる。

幼い子どもは、自分の身体を愛撫することで快感を得る。

男児はペニスで遊び、ペニスを擦る。

女児は陰部を撫でたり、押しつけたりする。

親はこうした場面に出くわすと、狼狽してひどく叱る。

それで、性的快感は悪いことであり、その快感を引き起こす身体部位は恥ずかしい、邪悪なものという意識づけがされてしまう。

排泄器官は性的器官と近接しており、それ自体快感をもたらす身体部位でもある。

このために、排泄器官は性的イメージと強固に結びつき、罪ある汚れた身体器官と意識づけられる。

だから性的快感に対して過度に抑制的に育てられると、排泄機能に障害が現れることがある。

「今、ここを生きられない」

親もまたこれまで述べてきたような環境で育てられたので、親自身が多かれ少なかれ快体験に罪意識や怖れを抱いている。

このために、子どもが楽しんでいるとつい不安になってしまい、水を差す行動をする。

好きなテレビ番組に夢中になっていると、「宿題終わったの?」と声をかける。

趣味に時間を使っていると、「そんなことより勉強しなさい」と要求する。

こうしたことから、子どもは純粋に浸る気持ちが妨害される。

ある女子学生は書いている。

「私には”これが好き”と言えるものがない。

まわりの友達がアイドルに夢中になれるのがうらやましい。」

別な学生は次のように書いている。

「子どもの頃、夏休みなど長期休暇でやることがなかった。

やりたいと思っていることがあっても、それほどやりたいとは思わないので、体が動かない。

だんだん気持ちが落ち込んでいく。

土日も嫌で、学校のある日の方がよかった。」

快感とは「今、ここ」を堪能することである。

快楽を堪能できない人は、「今、ここ」を生きることができない。

こうした人にとって、「今」とは、常に「後々」のための準備時間である。

だから、いつも何かに追い立てられているようで、気持ちを休ませることができない。

歪んだ快

食事をすれば食欲は消失する。

友人と楽しい時間を持てば、孤独感に悩まされることはない。

このように、人は満たされた欲求に拘泥することはない。

逆に、満たされない欲求ほど強くなり、その欲求に執着するようになる。

自然な快感を求める衝動が過度に抑制されると、歪んだ形での快を求める衝動に転化する。

快衝動の退行

快の衝動が満足させられないと、年齢不相応の快に執着するようになる。

たとえば、幼い時期に母親に対し甘える欲求が満たされないと、大人になっても甘えたい衝動から離れられなくなる。

幼い頃からいろいろな習い事をさせられ、親の期待に応えようとがんばってきた女子学生は言う。

「赤ん坊はいいな、何もしないでも愛してもらえるし、世話をしてもらえるから。」

かつて、留年を繰り返していた男子学生がいた。

彼が付き合うのは人妻ばかりで、甘えさせてくれる対象としてしかとらえていない。

相手は人妻なのに、夜会ってくれることを求めるなど、無理なことを要求する。

その無理を聞いてくれることが愛情の証しと感じられる。

こうしたことが重なると、当然彼女の家庭生活が危うくなる。

それで、彼女が本気になって離婚を考えるようになると、その途端に身をひいてしまう。

こうしたことの繰り返しであった。

中年期や老年期になっても、もっぱら自分に尽くしてくれることを求めるだけで、相手を庇護してあげることや、若い人の成長を援助することに関心を移せない人も退行状態にあるといえる。

依存症

満たされない快への衝動は、強迫的傾向を帯びる。

この典型が依存症である。

依存症には、アルコール依存症、薬物依存症、買い物依存症、ギャンブル依存症、セックス依存症、恋愛依存症等々がある。

買い物とロマンスが女性にとって幸福と力を感じることができる数少ない方法である。

このために、買い物依存や恋愛依存は男性よりも女性に多く見られる。

摂食障害も特定の快に過度に執着した状態である。

過食症は食べる快感への過度の依存状態であり、拒食症は、自分の身体が痩せることや食欲を抑制する充実感などに過度の快感を得ている状態である。

心身の健康のためには一定量の快感が必要である。

このために、たとえば、好きな部活に熱中しているときよりも、受験勉強のためなどで部活をやめたあとの方が、頻繁にマスターベーションをする。

旅行やハイキング、ゴルフなどを楽しんでいる人は、アルコールやタバコ、ギャンブルなどに依存することから免れている。

このように、依存症になる人は精神的・身体的快の不足状態にある。

彼らの多くは熱中する趣味やスポーツ、交際の楽しみなどを持っていない。

アルコール依存症のスポーツマンなど想像することができない。

依存症には精神的要因が大きく関係している。

親との葛藤を抱えているとか、生活上の大きなストレスを持つなどである。

しかし、依存症になりやすいかどうかには、遺伝的要因も関係する。

たとえば、依存症になる人は、ドーパミンの受容体密度が低いために快感回路が活性化しにくいという傾向が見出されている。

反道徳的行動とマゾヒズム

健全な欲求不満(=快体験)が禁止されると、憎しみや敵意が生じ、いじめや暴力などで快感を得ようとすることがある。

それだけでなく、禁じられたこと自体への反抗が快感をもたらすようになる。

校則破りなどはその典型である。

あるいは、過度に禁欲的な家庭の子が、援助交際をするとか、放縦な性行為に走るなどである。

快への衝動が非常に複雑で屈折した形になる場合もある。

たとえば、快体験を放棄することで快を得ようとする禁欲主義や、自己犠牲の生き方が快感になる人もいる。

苦痛や屈辱が性的快感をもたらすようになる人もいる。

この人は、性的快感という罪を身体的苦痛によって償おうとするかのようである。

さらには、自責感だけでは合理化できず自傷行為に走る人もいる。

成熟した大人の条件

快と幸福の密接な関係

幸福な人生は快体験に満ちている。

発達とは幸福な人生を送るための力をつけるものであるから、発達とはより豊かな快体験ができるようになるということに他ならない。

より豊富な快体験ができるようになるためには、快感のチャンネルを広げることと、快への感度を上げることという二つの道がある。

快感のチャンネルを広げることとは、たとえば、新たな趣味を持つとか、新たな体験にチャレンジするなどである。

快への感度を上げることとは、たとえば、季節のちょっとした変化を楽しめるようになるとか、小説やドラマにより深く共感できるようになるなどである。

いくつになっても、快感チャンネルを広げ、快感感度を高めることができる。

異なるチャンネルによる快感でも、脳内では共通の回路が働くことが明らかになっている。

この脳の部位は俗に快感回路といわれ、身体的快感では当然のことであるが、美的鑑賞とか、寄付をするなどで得られる精神的快感においても同じように活性化するというのである。

子どもになれる心

快への率直な態度は、活力を引き出し、健康を保持する作用がある。

心身共に健康な人は、スポーツなど身体的快を楽しみ、愛情に彩られたセックスを楽しみ、読書や映画、演劇やその他の文化的精神的快を堪能している。

逆に、快感とは裏腹な仕事や生活を続けていれば、やがてエネルギーが枯渇し、心身が疲弊する恐れがある。

燃え尽き症候群、うつ病、さらに過労死などはこうした典型である。

ときに精神的快は、身体的快と離反する。

すなわち、身体的不快や苦痛に耐えることで初めて精神的快を得ることができる場合がある。

たとえば、座禅において、脚のしびれや寒さなどを耐えるなかで心の爽快さが得られる。

こうしたことのために、精神的快こそ人間として求めるべきものであり、身体的快感を求めるのは精神的未熟さだとする考え方がある。

そうではなく、成熟することとは高次の精神的快ばかりでなく、原初的な身体的快をも率直に楽しめることでもある。

高度に自己実現した人を研究対象にすることで人間性心理学という新たな心理学の潮流を創ったマズローは、成熟した人間の特徴として「自発的に退行できる」ことや「無邪気さ」を挙げている。

成熟した人は、誰よりも楽しむことができる人たちであり、意のままに退行できる人であり、子どもの気持ちになって子どもと遊び、親しくなれる人なのである。

楽しみのスケジュール

豊富な快感を体験するためには、生活設計に楽しみの計画を組み込むことである。

中・長期の計画では、旅行、趣味・特技などの向上、新たな挑戦などである。

短期的には、毎月、毎週のスケジュールに楽しみを組み込む。

さらに、毎日、ちょっとした楽しみの時間を持つようにする。

例えば、クラシック音楽を聴きながら、ゆっくりとコーヒーを飲むのが毎日の楽しみの時間という人もいる。

楽しみのスケジュールには、スポーツなどの身体活動を含ませたい。

適度な運動は脳内快感物質であるドーパミンの分泌を促す。

ちょっと体を動かすだけでも心地よい。

一番やりやすいのは歩くことである。

歩きやすい靴を履いて、しっかりと前を見てさっさっと歩く。

指先、足先まで生気が満ちるようにと、手を振りやや歩幅を大きくして。

気持ちが沈んでいるときは、下を見て歩きがちである。

下を向けば失意・落胆、上を向けば夢と希望、前方は未来後ろは過去や悔恨に結びつく。

だから、顔をしっかりと前方、やや上方に向けて歩こう。

海外からの旅行者を紹介するテレビ番組が好評である。

あの番組を見ると、人の温かさと、何よりも人生は自由に大胆に楽しんでよいのだ、と思わせてくれる。

人生の目的とは、言うまでもなく苦しむことではない。

楽しむことだ。

働くのもまた楽しむためだ。

生活を共にするのも楽しむためだ。

楽しむことに遠慮はいらない。

快感のチャンネルを拡大し、高めることで、たっぷりと快感を堪能したい。

そうすることで、「今、ここ」を生きている、自分を生きていると実感する。

※参考文献:「自分には価値がない」の心理学 根本橘夫著