気が小さい人が自信をもつための初め

「完璧でない自分」を受け入れる

強迫的に完全主義の気が小さい人は、生きるのがしんどい。

生きるのがしんどい気が小さい人は、楽天的な人と自分とを比較して、どこが違うかをよく観察してみることである。

楽天的な人の感じ方と、自分の感じ方とどこが違うかを、よく見つめることである。

楽天的な人にも完全主義の気が小さい人にも、人にはそれぞれ弱点がある。

気が小さい人はそこで自分に、ある楽天的な人と同じ弱点があったら、自分ならどのように振舞うかを考えてみることである。

そのように自分を見つめていけば、自分の人生をつらくしているのは、実際の自分が持っている弱点ではなく、実際の自分の弱点についての自分の感じ方であるということがわかるであろう。

また、生きるのが苦しそうな人をよく観察するのである。

その人の感じ方の特徴は何かを、よく見ることである

その気が小さい人はなぜ苦しんでいるのかを考えるなら、案外その原因がわかる。

自分のことだとわからないが、人のことだとよく見えるものである。

そして気が小さい人はその見えたことが、自分に当てはならないかを考えてみると、それがよく当てはまったりする。

そして自分がなぜ生きることを苦しく感じるかがわかれば、少しは生きることが楽になる。

自分では自分の完全主義への強迫性についてよくわからなくても、他人のそれはよくわかる。

すると、気が小さい人はなんであんなに完全であろうと気にするかと思えてくる。

自分は完璧でなければならないと強迫的になっているとき、それをおかしいとは思わない

しかし他人から見れば、その自分の姿勢は奇妙なのである。

他人が完璧であるべく強迫的になっている姿を見て、自分も完璧であろうとするのをやめる気にならないだろうか。

自分自身は格好良く感じていたけれども、完璧であるべく強迫的なのは、やはりどこか病的であるということがわかるのではないだろうか。

気が小さい人は「弱点」だって、「自分らしさ」の一部

自分の弱点にとらわれる人も、完璧への強迫性がつよいのである

気が小さい人は自分は完全であらねばならないと思い込むから、自分の弱点が気になるのである。

完璧に女らしくなければいけないと思い込んでいる気が小さい人は、自分の女らしさに不安になる。

いつも男性から、自分の女らしさについての賞賛の言葉を聞いていないと不安になる。

いつも自分は女らしいという保証を男性から得ていないと、不安なのである。

男性は女性に、そんなに女らしくなければいけないなどと期待してはいない。

普通に女らしくあれば充分である。

完璧に女らしくなければならないと強迫的になって、実際の自分を拒否している気が小さい女性は、充分に男性を受け入れることができない。

自分を拒否してしまう者は、どうしても他人を拒否してしまう

それはおそらく、気が小さい人は「超自我」が強すぎるのである。

つまり気が小さい人は欲求が抑制されている。

気が小さい人は自分は何がしたいのかがわからない。

少なくとも自分が何をしたいかより、他人が自分に何を期待しているかということのほうが重要である。

気が小さい人は自分が完璧な女であるかどうかということばかりが心配になり、相手の男性への好意が積極的にならない。

超自我が強すぎて、欲求が抑制されていればそうなるのは当たり前である。

気が小さい人は超自我が強すぎると自然なやさしい感情のようなものが欠けてくる。

心理学者のカレン・ホルナイがある本のなかで、超自我を秘密警察にたとえて説明している

秘密警察の活動の活発な国は、自然なのびやかさはないであろうし、国としてのつきあいも不信感があるであろう。

超自我の強すぎる気が小さい人は、自然の感情の発露がないが、それは神経症的自尊心の表われでもあろう。

気が小さい人は何か自然な感情は悪いこと、自分にとって屈辱的なことと感じているのではなかろうか。

人間の自然な感情の発露には、反社会的なところもあるが、逆に本当の思いやりや、やさしさもある。

「本当の」というのは、何の見返りも期待しないでということである。

与えることが同時に受けることであるようなものである。

与えることが自分にとって喜びであるというようなものである。

情緒的に成熟した母親の、子どもに対する愛情のようなものである。

それは母親と子どもばかりではなく、他の人間関係でも起こる

これとまったく反対なのが、気が小さい人の恩着せがましさである。

超自我にとって大切なのは、タテマエであるが、自然な感情の発露にとって超自我はそれほど大切なものではない。

ところで気が小さい人の完璧への強迫性というのは、真に完璧への強迫性であろうか。

そうではない。

それは完璧に見えることへの強迫性である。

完璧に女らしくなければならない、完璧に男らしくなければならないというのではなく、完璧な女に見えなければならないのであり、完璧な男に見えなければならないのである。

カレン・ホルナイが次のような言葉を使っている。

“a need to maintain the appearance of perfection”

人は完璧でなくても愛される。

人は相手にいつも完璧を期待してはいない

完璧でない自分を許せないのは自分であって、他人ではない。

自分が完璧であるかどうか、そんなに心配することはない。

完璧であらねばと、完璧の強迫性に苦しんでいる気が小さい人は、自分の心の底にある不安と直面することである。

気が小さい人はどんなに不安などないという顔をしてみても、無意識にある不安に支配されている。

もし本当に不安でなければ、完璧であらねばと苦しむことはない。

気が小さい人が自分で自分をコントロールできないのは、無意識にある感情に支配されているからである。

意識の領域でどんなに自分を自分の思うようにコントロールしようとしても、そのように自分は動かない。

自分はやはり自分の無意識にある、強い感情に支配されているのである。

人は好きこのんで苦しんでいるわけではない。

人は好きこのんで強迫的な完全主義に苦しんでいるわけではない

気が小さい人が無意識の領域に不安があるなら、意識的にどんなに「完全でなくてもいい」と自分に言い聞かせても、やはり完全でなければとあせる。

あせるまいと意識的に努力してもあせる。

そうした点で人を動かしているのは、意識の領域ではなく、無意識の領域だからである。

気が小さい人は何か重大な感情を自分に隠しながら、意識の上であせるまい、あせるまいと努力してみても効果はない。

何か重大な感情を自分に隠せば、人は不安になる。

気が小さい完全主義者が柔軟に現実に対応できないのも、無意識に支配されているからである。

完全主義者は現実の世界で、現実と照らし合わせて行動しているのではなく、無意識の世界を満たすために行動している。

成功する人は皆、「自然なのびやかさ」を持っている

神経症的な気が小さい人が企業でなかなか実績を上げられないのも、この柔軟性の欠如による

相手との交渉でも、神経症的な気が小さい人はいかに自分が正しいかということばかり主張する。

つまり、自分の正しさを主張して、自分を守ることばかりに気をつかう。

自分の正しさを主張することが、相手のメンツを結果として傷つけるということなど考えない。

あるいは自分がいかに正しいかを主張することが、相手の不利益につながるかなどということもまったく考えられない。

したがって、周囲の者を自分の味方にして、交渉を有利に導くなどということはできない。

企業のなかで交渉を有利に導きながら仕事の実績を上げるような人は、自分の正しさを強調することばかりに気をとられている気が小さい人ではなく、何が相手にとって魅力あるかを考える人である。

そして相手にとって有利なことで、自分がいまできることは何かを考えられる人である。

自分はこんなに素晴らしいのだぞ、ということを誇示することにばかり気を奪われているような神経症的自尊心の持ち主に、企業のなかで仕事はできない。

しかし、これも非現実的なほど高い期待と同じで、なかなか改められない

気が小さい人は頭では理解できたとしても、自分はこんなに素晴らしいのだぞということを誇示することは、心の葛藤を解決するための手段であるからである。

つまり気が小さい彼は、自分はこんなに素晴らしいのだぞと人に誇示することで、味わうことを避けようとしている重大な感情がある。

気が小さい人はその感情を味わうことを避けるための行為が、自分の素晴らしさの誇示なのである。

したがって気が小さい人は頭ではそのような誇示が仲間を離反させ、交渉を進める上でマイナスになるとわかっても、ついつい誇示してしまう。

気が小さい人は企業のなかで大きな仕事はできない。

彼にとっていま最も重要なのは、心の葛藤を解決することで、仕事をすることではない。

「あいつは本気でない」というのは、そのような気が小さい人を表現している言葉である。

つまり気が小さい人は本気で仕事を完成させようとするよりも、周囲の人にちやほやされることのほうが目的になるからである。

気が小さい人は周囲の人に騒がれることで自己満足する。

本気で苦しく長い努力を積み上げていくだけの気力、忍耐力はない。

それは、女性が「結婚したい」と騒ぐときも同じである

結婚したいという。

本人も自分では本気であると思っている。

しかし、よく気を付けて見ていると、どうも皆に結婚、結婚と騒がれることが目的で、現実に結婚相手を選ぶことがない。

気が小さい人はどうも皆に騒がれて気持ちよくなっているだけで、現実の選択をしたり、生活という日常を背負っていこうとする気はないようである。

つまり、気が小さい人は騒がれると満足してしまい、それ以上の現実の困難は避けてしまう。

よく「あんなのくだらない」とか、「あの人は程度が低い」とかいう。

「あの大学は程度が低い」などといって、一人で得意になっている人もいる。

しかしそれらの言葉によって、相手がどれほど傷ついているかは考えない。

それはそのようなことをいう気が小さい人が神経症的で、自分を守ることばかりに気をつかっているからである

気が小さい人は自分を守ることに精いっぱいで、その言葉の影響を考えるゆとりがない。

「あの人は程度が低い」「あの大学は程度が低い」という言葉で、実は自分はすごいのだぞと言おうとしているにすぎない。

しかしそのような言葉をいつもいうことで、自分を守ろうとしている親は、その言葉がどれほど子どもを傷つけているのか、まったく考えない。

子どもは「ああなったら人にばかにされる」「あんな大学に入ったら人から軽蔑される」といつも恐れるような人間になる。

子どもは自信を失う。

気が小さい人の才能・若さ・時間・・・無駄にする生き方

カレン・ホルナイは強迫性の特徴について述べているが、その一つは何度もいうように、現実の自分を無視すること

それは、はたから見ていると、もったいない生き方に見える。

気が小さい人はせっかく持っているその人の能力を使わないで、持っていない能力にこだわっているからである。

せっかく生まれてきて、いろいろな才能に恵まれ、若さに恵まれ、ありあまる時間に恵まれ、やろうとすればいろいろなことができる。

気が小さい人はそれなのに何も成果が上がらないことに、せっかくの時間と能力を費やしているからである。

たとえば二十代の若者がいる。

青春時代である。

青春時代は二度と戻らない。

その人にはいろいろな才能がある。

人と比べてではなく、その人ができることはたくさんある

それなのにその気が小さい人ができないことにこだわり、悩みながら青春を浪費する。

そして、気が小さい人は一度しかない人生をただ悩むだけで終わっていく。

気が小さい人はせっかくありあまるほどのものを持ちながら、何一つ実現せずに、悩み苦しみ、気力喪失しながら、暗い気持ちで、暗い顔をして、自信喪失して、絶望しながら、あまりにもつらいだけの人生を終わっていく。

気が小さい人はちょうどたくさんの美味しい料理を目の前にしながら、そこにないものを求めて空腹で死んでいくようなものである。

「なぜ自分はそんなにも苦しんでいるのか」という真の原因を突き止めようとする勇気がないために、つらい思いを毎日しながら無駄に人生を送る。

気が小さい人が実際の自分を無視するということは、大きな人生の目標について過ちを犯すばかりではなく、日常のことについても過ちを犯す。

それは自分の実力を無視して志望の大学を決めたり、就職を決めたり、昇進を求めたりということに表われる

さらに、気が小さい人はその努力の仕方にも過ちは表われる。

気が小さい人は自分の実力は英語の初歩であるのにもかかわらず、中級の英語や上級の英語をやるから努力が実らない。

スキーをしにいくのにも、初級の指導を受ければそれだけの進歩があるのに、中級や上級の指導を受けるから、やはり努力の効果が表われない。

強迫的に栄光を求める気が小さい人は、堅実さに欠ける。

気が小さい人は一歩一歩確実に階段を上がっていくことができない。

表面の華やかさを求めてしまう。

気が小さい人は地味な努力をしないから、努力の割には結局効果が上がらない。

成果を早く求めすぎる。

気が小さい人は努力しながらも挫折を繰り返し、いよいよ自信を失っていく。

自分にできることをこつこつと実行していれば、自然と道が開けてくることもあるのに、高望みして、自分にできないことを背伸びしてするから、結局つらい努力をするだけで挫折していく。

自分にできること、自分がするのにふさわしいことをするのは、その気が小さい人の神経症的自尊心が許さない。

気が小さい人は自分が普通の人では我慢できないと、偉大な人になることにこだわることで結局神経症的になり、つらいだけの人生を送る。

「原因」に気づけば、問題は自然に解消する

自分にとって非現実的な期待に執拗にこだわり、自分にできることをすることを拒否する。

気が小さい人はなぜそこまで非現実的なことに執拗にこだわるかは、それによって「自分にとって重要な他者」との対決を避けられるからである。

「自分にとって重要な他者」とは多くの人の場合、親である。

親が自分の実際を無視して、非現実的な期待をかけた。

有名大学に入ること、有名企業に入社すること、エリートコースを歩むこと、同僚より早く出世すること、スポーツでも活躍すること等々、その人にはできないことを期待する。

その気が小さい人は親に心理的に依存している。

心理的に依存しているとは、親の期待を裏切れないということである。

その気が小さい人にとって何がつらいかといって、親の期待を裏切ることが何よりつらい。

気が小さい彼が執拗に非現実的な理想像にこだわるのは、親との対決を避けたいからである。

あるいは気が小さい人は心理的に成長することを避けようとしているからである。

心理的に成長すれば、彼の抱えている問題など自然と跡形もなく消えてしまう

気が小さい人は自分の過去と、自分の心の底にある実際の感情に直面できれば解決するのに、それを逃げて解決しようとするから、つらいだけの人生になるのである。

近い人への憎しみや敵意、実際の自分への劣等意識、心の底に実際にある感情からは逃避できない。

気が小さい人は逃避しようとしても逃避できないことから逃避しようとしたのが、つらい人生の原因である。

そして気が小さい人は心の葛藤を解決するのに、自分の身近にいる者を使う卑怯者も多い。

たとえば親が親自身の心の葛藤を解決するために、子どもを使う。

子どもに自己を同一化する。

そして子どもの栄光を通して、自分の心の葛藤を解決する。

そのとき起きるのが、子どもの現実を無視するということである

自分と子どもが一体となってしまう。

つまり、子どもの現実をまったく無視するということである。

何が子どもにとってよいかということをまったく無視する。

それは子どもにとって、地獄である。

ところが子どもが不幸になり、気が小さくなり、神経症的になっても、社会的に成功しさえすれば、親は心理的葛藤を表面的には解決したように人には見せることができる。

子どもを不幸にすることで、自分の体裁をつくろったということである

あるいは子どもが成功しないときには、子どもを非難していれば気が紛れる。

子どもを非難することで、葛藤を解決しようとする。

そして子どものほうは神経症的になった上に、「親はあんなに立派なのに」などと世間から非難されたりする。

逆に親のほうは、世間から同情されたりするということがある。

気が小さい人の「弱点」にとらわれない生き方

こうあらねばならないという意識が強すぎる人がいる

気が小さい人は疲れていると、早く疲れをとらなければならないと思う。

そして気が小さい人は熟睡しなければならないとあせる。

熟睡しようと、意識して努力する。

気が小さい人は熟睡しようと懸命になる。

今日は疲れた・・・などと、ぼーっとしていられない。

気が小さい人はいつも懸命なのである。

疲れをとろうとして懸命になったのでは、疲れはとれない

疲れやすい気が小さい人にはこのように「こうあらねばならない」という意識の強すぎる傾向があるのではなかろうか。

経験が自然に流れていかない。

気が小さい人はいつも無理がある。

いつも肩に力が入ってしまう。

気が小さい人はいつも何かに追われているのである。

肩の力を抜こうと意識的に努力してみても、肩に力が入る。

気が小さい人は心の底に不安がある限り、意識して肩の力を抜こうとしても肩に力は入る。

いつも不安な何かに備えているのである。

気が小さい人はその恐怖に対して準備しているのである。

何か自分に対してつらいことがおきるに違いないと感じ、それに対して準備をしている。

だから気が小さい人は休んでいられないのである。

気が小さい人はその来るべきつらい日に備えて準備をしなければならない。

いつも気が小さい人は恐怖に対して身構えている。

「こうあらねばならない」という意識の強すぎる気が小さい人は、何か不安なのである。

気が小さい人はあせるのは何か不安だからである。

早く安心したいのである。

気が小さい人はあるべき自分になることで、早く安心したいのである。

これでもか、これでもかと完璧をめざして不安な努力を毎日続ける。

気が小さい人はとにかく安心したい。

完全であれば安心できると思っている。

しかし気が小さい人はどこまでいっても安心できない。

気が小さい人は不安の原因は自分の外側にあるのではなく、心の中にあるからである。

たとえば、安心するために財産を求める人がいる

しかし気が小さい人はどんなに財産を持っても安心できない。

持っても持っても不安だから、安心しようとあせる。

気が小さい人はもっと財産を持たなければとあせる。

安心するためにもっと財産を持とうとする。

気が小さい人はそのためにあせる。

財産を持つためには、もっと働かねばならない。

気が小さい人はそのためには、もっと体力がなければならない。

そのためには、もっと効率的に働かねばならない。

気が小さい人はそのためには、もっと体が快調でなければならない。

もっともっと、というあせりである。

実際の自分が愛されるに値すると思っているような人、自己評価の高い人は陽気な人であり、楽天的な人である。

そういう人はいつも「こうあらねば」と心理的にあせってなどいない

楽天的な人は自分の弱点が表われることを恐れていない。

完全でなくてもあせらない。

実際の自分が愛されると感じている人は、自分に隠さなければならない感情がない。

したがって不安がない。

気が小さい人は自己蔑視が神経症的自尊心を生み、その結果が完全主義へとつながっていく。

自己蔑視している気が小さい人は、楽天的な人の前でも、自分の弱点が表われることを恐れる。

陽気な人は、自分の弱点にとらわれていない。

弱点にとらわれていない人は、同時に過去のどうすることもできないことにもとらわれていない。

つまり、気にしていない。