気にしすぎる人が自分で自分を軽んじてしまう人の心理

自分が実際に感じているように感じることができないのは弱さである

そうした感情のなかで、気にしすぎる人が何よりも重要なのはおそらく憎しみ、怒り、敵意であろう。

神経症になる気にしすぎる人は、憎んでいるのに、まったく憎しみなどないかのごとく装う。

気にしすぎる人は自分の心の底にあるのは敵意なのに、そんなものはまったくないかのごとく振る舞う。

相手に対してばかりでなく、気にしすぎる人は自分に対してもそのように振舞う。

憎んではいけない、不満をもってはいけないというメッセージを親から与えられる気にしすぎる子どもは多い。

また親から嫌われるのが怖くて、不満があっても不満がないかのごとくに振る舞う気にしすぎる子どもも多い。

心の底に不満を持ちながら、満足しているかのごとく振る舞う気にしすぎる子どもも多い。

そのような気にしすぎる人は相手に対して自分は満足しているということを示すばかりでなく、自分に対しても自分は満足していると「信じる」のである。

不幸であるにもかかわらず、気にしすぎる人は幸福だと「信じる」ことはよくある。

このような歪んだ確信から不安は生じてくるのであろう

自分のなかにどうしようもない不安や強迫性を感じる気にしすぎる人は、今の自分の「確信」を疑ってみることである。

気にしすぎる人は自分は実際満足しているのだろうか、自分は本当に幸せなのだろうか、自分は本当にこの人に不満はないのだろうか、疑いようもないほどのことを疑ってみることから、自分の不安や強迫性の根源がわかってくるのである。

幸せの幻想、満足の幻想、さまざまな幻想にしがみついているから、気にしすぎる人は心が最後のところで不安なのであろう。

幸せで満足している人がどうして他者にしがみついて生きようとするだろうか。

どんなに幸せを装ってみても、心の頼りなさをどうすることもできないのが人間なのである。

自分を憎んではいけない。

他者にむけるべき攻撃性を他者に向けない限り、そのエネルギー、攻撃性は自分に向いてきてしまう

それが気にしすぎる人の弱さなのである。

小さい頃、気にしすぎる人はその人を必要としていたから、どんな扱いをされてもどうしても憎むことができず、自分を憎んでしまった。

気にしすぎる人はこの攻撃性の方向転換をしっかりと実感することである。

そしてこの方向転換は、幼児期の一人についてだけおきることではない。

自分が心理的に依存している人に対しては、常に起きる可能性がある。

対立に耐えられない気にしすぎる人は、心の優しい人ではあるが同時に弱い人なのである。

心の中がいつも頼りなくて、気にしすぎる人は一人で生きていく姿勢をとれない人なのである。

憎しみを自分に向けたことで、気にしすぎる人は自分は愛されるに値しないと感じてしまうのである。

自分は愛されるに値しないという、自分についてのきわめて重要な感じ方は、いろいろなところから生まれてこよう

たとえば、気にしすぎる人は恩着せがましい親に育てられるなどということである。

しかしこれも恩着せがましい親に従順であったから、気にしすぎる人はそう感じてしまったのである。

恩着せがましい親に不快感をもてれば、それほど自分は愛されるに値しない人間であるという自分のイメージに苦しむこともなかったであろう。

幼い日、少年の日、青年の日、気にしすぎる人は心の底では恩着せがましい親の言動に不快感をもっていたのである。

しかしそれを意識の上にのせるには、気にしすぎる人にはあまりにも弱すぎた。

弱い気にしすぎる人間にとって、他者を憎むことより自分を憎むことのほうが、はるかにやさしい。

他者を憎むことは弱い気にしすぎる人間にとって、恐ろしいことなのである。

とても生きていけないような気持ちに気にしすぎる人はなる。

そして残念ながら、人間というのは愛されることなしに強くなることはできない。

愛する能力のない我執の親の不機嫌さの前で、幼い子どもはヘビに見据えられたカエルのようにすくんでしまう。

そのとき幼い子どもは、他者でなく自分を憎みだす

気にしすぎる人は自分にとって重要な周囲の人間から不当に扱われるたびに、いよいよ自分を憎み始める。

不当に扱われたことの憎しみのもっていき場が気にしすぎる人はないのである。

そうした気にしすぎる人は周囲から軽く扱われ、もてあそばれ、利用され、からかわれて生きる。

そしてそのたびに、気にしすぎる人は自分への憎しみを増していく。

気にしすぎる人は間違った「思い込み」のとりこになった人

人間というのは悲しいもので、ある程度強くならなければ、自分の弱さすら自覚できない

自分を憎むことで、自分の感情を処理していくことを学んでしまった気にしすぎる人は、大人になってもそれを続ける。

自分を憎んでしまった気にしすぎる人は、あの不幸な完全主義者になっていく。

完全でなければ愛されないという、あの間違った感じ方に気にしすぎる人はとらわれていく。

そしてまた気にしすぎる人は自分が完全であるならば、みんなに愛されるという間違った思い込みのとりこにもなっていく。

ある心を壊したニ十五歳の気にしすぎる女性公務員が書いたという年賀状である。

この女性は、その年に次のような年賀状を友人に出している。

元旦の誓いである。

「書道―毎日筆をもつ、丁寧に書く。

英語―二級の学力を取り戻す。

読書―辞書、全集、理論的な本を読む。

常に文章にあらわす。

考え深く、慎み深い人間になること。

人から愛され、信頼される人間になること。

ふらふら、ぼやぼや、くよくよ、ぺこぺこ、ぐちぐちしないこと。

よい目標をもち、よい仕事をし、よい結婚相手を見つけること。

ユーモアのある生活を。

一度得たものは失わない」

友人も彼女を完全主義者だったという

それはこの年賀状を見ればわかることである。

気にしすぎる彼女は満ち足りた幼年時代を送っていない。

両親の偽りの愛に気にしすぎる彼女は窒息しそうになっていたのではないだろうか。

そして気にしすぎる彼女は両親を憎めず、自分を憎んでしまったのである。

自分で自分を憎んでしまった気にしすぎる人が、自分はどうであれば憎まれずに愛されると思うであろうか。

自分が完全でなければならないと気にしすぎる人は思うのは当然であろう。

気にしすぎる人は「完全」でなくていい。役に立たなくてもいい

自分を憎んでいない者は、自分は完全でなくても愛されると感じることができる。

自分は自分を犠牲にして尽くさなくても、愛されると感じることができる。

しかし自分で自分を憎んでしまった気にしすぎる人は、自分は自分を犠牲にして相手に尽くさなければ相手から愛されないと感じてしまう。

気にしすぎる人はそれはよく考えてみれば、当たり前のことなのである。

自分で自分を憎んでいるのだから、気にしすぎる人は普通にしていれば憎まれると思うのがあたり前であろう。

相手に対して役に立つときにのみ、気にしすぎる人は自分は必要とされるという悲しい感じ方にとらわれる。

故郷喪失者なのである

そのような気にしすぎる人には共同体がないのである。

気にしすぎる人は役に立つときにのみ必要とされる。

それは共同体の論理ではない。

機能集団の論理である。

自分で自分を憎んだ日、気にしすぎる人はそれは共同体を失った日なのである。

それこそが疎外である

気にしすぎる人の自己疎外とは自分を憎むことなのである。

そんな他人に気に入られるかどうかということに気をつかわなくてもいいのが、共同体ではないだろうか。

しかし自分で自分を憎んでいる以上、気にしすぎる人は自分が相手に受け入れられるためには、今相手は自分のことをどう思っているのか、気をつかいすぎるくらい気をつかわねばならない。

憎しみを抑圧した気にしすぎる人は、他人から憎まれることをいつも恐れなければならない。

抑圧されたものは投影されるとは、スイスの心理学者、カール・グスタフ・ユングのいうところであるが、ユングならずとも、それは想像できる。

自分の心の中の憎しみから気にしすぎる人は目をそむけた。

他者に向かっていくべき攻撃性を自分に向けてしまった

さらにその抑圧された憎しみは、他者に投影されていく。

自分のなかにある憎しみを気にしすぎる人は他者のなかに見る。

気にしすぎる人は他人は自分を憎んでいるのではないかと恐れる。

だからこそ他人に迎合していこうとするし、気にしすぎる人は他人の要求に従順になるし、他人のいいなりになるし、他人に対して自分の価値を割り引いて相対していく。

こんな人に気にしすぎる人はどうして自己主張などできようか。

英語にdocileという言葉がある。

従順なとか卸しやすいということである。

従順なおとなしさである

こちらから従っていこうという性質である。

自分で自分を憎んだ気にしすぎる人は心の葛藤から逃れるためにdocileになる。

気にしすぎる人はそうなることで相手に気に入られようとする。

その反対の言葉はhostileであろう。

これは、敵意のあるという意味である。

自分で自分を憎んでしまった気にしすぎる人は、表面的にはdocileなのだけれど、心の底の底はhostileなのである。

心の底で敵意を感じながらも、気にしすぎる人はそれを感じることは自分と親との関係に危険だと思うがゆえに、その敵意を抑圧する。

自分が生きていくために、気にしすぎる人は心理的に親を必要としているからである。

気にしすぎる人へ疲れない生き方

疲れやすい人のなかには、自分の心のなかにある憎しみとの戦いに消耗している人も多いのではないだろうか。

気にしすぎる人は外にエネルギーが向くのではなく、ただじっとしていても、心の中の戦いで消耗してしまうのである。

その疲れやすさをおして真面目に几帳面に一生懸命働いているのが、心を壊すような気にしすぎる人なのではなかろうか。

一人で悩みを背負い込んで、一人で自分の心のなかでそれを大きくして、どうしようもなくなってしまう気にしすぎる人が心を壊すのである。

「ふざけんな、馬鹿野郎」と職場や家庭でどなっていられる人は、心を壊したりしないだろう。

アメリカの児童問題のカウンセラーであるフランシス・G・ウィックス夫人は、『子ども時代の内的世界』で次のように述べている。

「しばしば意識的態度が極端に真面目な大人のなかに、自分では気づかない憎悪と恨みが秘められているときがある」。

気にしすぎる人は「自分に対する最悪の批評家」になるな

「恥ずかしがりやの人は自分に対する最悪の批評家である」とジンバルドーはいっているが、これこそ自分で自分を憎んでいる証拠であろう

恥ずかしがり屋の気にしすぎる人は自分を憎み、憎しみをもって自分を批評する。

気にしすぎる人は憎しみをもって自分を反省する。

憎しみをもって気にしすぎる人は自分を点検する。

攻撃性を外へ向けることのできなかった気にしすぎる人は、さまざまな不幸を抱え込んでしまう。

何よりも気にしすぎる人は心の不安がそれである。

この不安から自らを守るために、気にしすぎる人はいろいろなことをするのである。

他人に従順になったり、強迫的に地位やお金を求めたり、お酒におぼれたり、気にしすぎる人は心の底では憧れていることをいろいろと理由づけて、くだらない、くだらないというのも、みんな心の不安から自分を守るためである。

その根本的な原因が気にしすぎる人は攻撃性を外に向けることに失敗したということである。

自責ということも気にしすぎる人は同じである。

カレン・ホルナイがいうように、自分を憎んでいるから自分を責めるのである

ちょっと考えれば、これはよくわかる。

気にしすぎる人はある人を憎めば、なんとかしてその人を責めようとする。

ほんのちょっとした欠点でも、気にしすぎる人はその人を責める。

これと同じである。

自分を憎んでしまったから、気にしすぎる人は自分の弱点で自分を責めるのである。

もし自分の弱点で自分を責めるのをやめようと思えば、まず自分を憎むことをやめることである。

自分を憎むことをやめようと思えば、憎むに値する人を憎むことである。

「欠点のない人は、まずいない」

物事がうまくいかないと、自分の欠点と結び付けて解釈するという

気にしすぎる人はこれは自分を憎んでいるからであろう。

何かうまくいかないことを気にしすぎる人は自分の欠点と結び付けて解釈すると聞くと、べつに大したことでないように思うかもしれない。

しかし大変多くの気にしすぎる人が、このようなことをしているのである。

何か誘って断られると、相手は自分を好きではないのだろう、自分には魅力が無いから、というような解釈をする気にしすぎる人はもいる。

交渉がうまくいかないと、ずぐに自分は神経質だからと解釈する気にしすぎる人もいる。

たとえその人が本当に神経質であったとしても、その気にしすぎる人の神経質さとはまったく関係のないことまで、自分は神経質だからと解釈してしまう。

そして気にしすぎる人はそう決め込んでしまう。

すぐに間違ったレッテルをはるのも、気にしすぎる人はこのためである。

神経質だから失敗したのではないのに、「神経質だから」と気にしすぎる自分を責めてしまうのは、やはり心の底で自分を憎んでいるからである。

失敗などは誰だってする。

神経質であろうが神経質でなかろうが、失敗ぐらいはする

ただ失敗しても、普通の人はやたらに自分を責めたりしないし、失敗にこだわらない。

自分を憎んでしまった気にしすぎる人は、普通の人でもする失敗を、自分の弱点と結び付けて解釈し、自分を責める。

そして次々に気にしすぎる人は自分の欠点を発見していく。

気にしすぎる人はまさに他人を憎んでいる時に、その人に対してやるのと同じことを、自分に対してするのである。

そして極端で気にしすぎる人は絶対的な解釈をする。

これはアメリカの心理学者、アーロン・ベックがうつ病者の特徴としてあげているところであるが、みな自分を憎んでしまった者がしていることである。

「不安」を受け入れる勇気が、あなたを一回り成長させる。

自分が憎んでいる人と結婚したら不幸である

自分が嫌いな人と結婚したら不幸である。

しかしそれ以上に、自分を憎んでしまった気にしすぎる人は不幸なのではないだろうか。

配偶者以上に自分とはいつも一緒にいなければならないのである。

夫が何か失敗したときすぐに「あなたは神経質だから」と妻から責められたら気にしすぎる夫はたまらない。

しかし自分を憎んでしまった気にしすぎる人は、それ以上に耐え難いことに耐えているのである。

そんな不幸な気にしすぎる夫だって、妻の見ていないところでした失敗については、「あなたは神経質だから」と責められることはない。

しかし自分を憎んだ気にしすぎる人は、どこで失敗してもその失敗を自分は見ているのである。

自分は神経質だからと決め込む

口うるさい女と結婚する男は不幸だというが、自分を憎んでしまった気にしすぎる人はもっと不幸なのである。

敵と戦うべきときには戦うことが、最も充実した生き方なのである

気にしすぎる人は戦うに値する敵と戦わなければ、自分を敵にまわしてしまう。

そして自分で自分を敵にしてしまうと、気にしすぎる人は外の敵と戦う以上に消耗するのである。

何もしなくても気にしすぎる人は疲れてしまう。

心理学者のカレン・ホルナイは不安から逃れようとすると、物事が億劫になるといっている

気にしすぎる人はまず敵意を抑圧する。

そこで気にしすぎる人は不安になる。

次に不安から気にしすぎる自分を守るためにいろいろなことをする。

ある人は酒にはしり、ある人は不安から他人に干渉しすぎることになり、ある人は不安でないふりをする。

ある気にしすぎる人は不安から逃げ出そうとする。

自分が不安になるような場所を気にしすぎる人はさけるのである。

また心の底では重要と感じていても、気にしすぎる人はそのような場所を「くだらない」といって避ける。

逃げていると、物事が億劫になると、カレン・ホルナイはいっている

まさにそのとおりである。

いろいろなことを「くだらない」といって避けている気にしすぎる人は、たいていが何をするのも億劫になる。

気にしすぎる人は自分が傷つくことを避けるために、「そんなことはくだらない」といっているだけなのである。

心の底では気にしすぎる人は「くだらない」どころか憧れている。

つまりそれらのことを気にしすぎる人は「くだらない」というまでには、いろいろな心の葛藤がある。

それで疲れてしまっているのであろう。

だからこそ気にしすぎる人は物事が億劫になる。

自分の心の不安に直面していくほうが、まだ疲れない

自分の心は不安であると認める人のほうが、まだ疲れない。

自分の心のなかの敵意から逃げて、気にしすぎる人は次にそれによって生じた不安から逃げていれば、最後には何をするのも億劫ということになってしまう。

気にしすぎる人は自分の感情を隠すな

できれば最初は敵意の抑圧をやめることが最もよい。

心の不安な人、何をするのも億劫な気にしすぎる人は、一度誰が自分の敵で、誰が自分の味方かはっきりさせることである。

気にしすぎる人は誰にでもいい顔をしても、心の底ではそのうちの誰かを憎んでいるかもしれない。

誰にでもいい顔をして、気にしすぎる人は、はい、はいといっているうちに、心のなかは腐蝕され、何もかもが面倒に思えてくる。

情緒的に成熟した大人なら、誰にでもいい顔ができるかもしれない。

情緒的に成熟した人なら、自分の利益を害されても平気でいられるかもしれない。

しかしそうでない気にしすぎる人は、自分の利益を害されれば怒りを感じるのが自然である。

その怒りを気にしすぎる人は抑圧して聖人君子のような顔をするから、何もかもが億劫になってしまうのである。

本当の愛を充分に与えられて育った人であるならば、自己中心性を脱し、愛他的になれ、利己的な気持ちをもつこともなくなっているであろう。

しかし、押し付けがましい偽りの愛に窒息しそうになって育ったり、真実の愛が極端に不足して育った気にしすぎる人は、三十歳になっても四十歳になっても、自己中心的で利己的なものである。

自然に育っている小さな子どもを観察していればよくわかる

驚くほど自己中心的で利己的である。

他人の立場などまったくかまわない。

自分の欲求をまるだしにして、他人がどうであろうとかまわない。

そんな子どもが恵まれた環境で育って愛他的になっていくのである。

恵まれた環境とは兄弟ゲンカが許されたり、親がいつも機嫌よかったりという環境である。

小さな子どもは相手の立場などまったく無視して自分の欲求を実現しようとする

そうであれば当然、子ども同士は衝突する。

そしてその衝突の繰り返しの中で、子どもは社会性を身につけていくのである。

しかし、たとえば一切の兄弟ゲンカを禁じたり、いつも親の不機嫌に怯えていたりすれば、社会性は身につかない。

気にしすぎる人は自己中心性は抑圧されるだけで解消しない。

恐怖から気に入られようと社会的適応を示すが、それは気にしすぎのまったくの見せかけである。

子ども同士のケンカは禁じられることで、憎しみ、敵意が自分に向けられる

自分の利益を守るために気にしすぎる人は戦う姿勢がなくなる。

というより、自分の利益を守るために気にしすぎる人は戦うことに罪悪感をもつようになる。

自分の利益を守るために戦うことに罪の意識を持つ気にしすぎる人は、小さい頃から従順を美徳として身につけてしまった。

気にしすぎる人は自分の心の不安から逃れるために、従順であることを学習してしまったのである。

しかしどんなに従順であったからといって、気にしすぎる人は心の不安が解消されるわけではない。

いつも不安に気にしすぎる人は脅かされている。

罪の意識で戦えなくなっている気にしすぎる人は、その心の束縛を振り切らない限り、いつになっても心の不安はなくならない。

※参考文献:自分を許す心理学 加藤諦三著