演技性パーソナリティは、注目されることへの欲求が強く、周囲の関心を惹こうとして、ときには常識的な行動から逸脱してしまうのを特徴とする。

たとえば、過度にべたべたした態度とか、性的な魅力を過度に強調した振る舞いとか、突飛で目を奪う行動とか、病気の症状を装うこととか、自分を特別に見せる空想的な虚言や、悲劇のヒロインに思わせる作り話などがみられることもある。

出会ったばかりなのに、馴れ馴れしく近づいてきて、実際以上に親密そうに振る舞うというのも、一つの特徴とされる。

相手の体をさりげなく触ったり、相手が自分の体に触れるようにもっていったりすることも、しばしばみられる。

ペースにはまると、いつの間にか、以前から知り合いだったように、懐に入られているということも起きる。

こうした特徴からも、距離が近づきすぎやすいタイプの典型だと言える。

度が過ぎている場合には、支障になることもあるが、ほどよく演技性の傾向をもつことは、むしろ魅力になるし、実際、一緒にいて楽しいと感じさせる長所である。

相手が消極的なタイプであろうと、自分からアプローチして関係を作り、チャンスを広げていくことができる。

今日のように自己主張や自己表現が求められる時代にあっては、演技性の傾向は、高く評価される美質である。

社会で活躍するためには、演技性の傾向をほどよく持つことは、むしろ成功の条件だともいえるし、プライベートな関係においても、愛されることに大いに役立つのである。

ただ、病的な演技性は、信頼関係を壊し、自己の尊厳を貶めてまで、注目や関心を求めてしまうところがある。

自分の性的なトラウマを打ち明けたり、かつての恋人にどんなふうに愛されたかといったことを赤裸々に話すことで、相手にショックを与えるとともに、間接的な挑発をしてくることもある。

それは意図的というよりも、このタイプの人の一つの行動パターンとして無意識に行われていることが多い。

またこのタイプの人は外見にばかり重きを置いて、中身に欠け、空疎になりやすい。

性的な魅力で迫ってきたり、気を持たせて誘惑したりするが、本気で愛しているわけではなく、相手がその気になると、気まぐれに拒否したりする。

ペースにはまると、心をかき乱されたり、その魅力に幻惑されたりすることになるが、相手を客観的にみる人には、その魔術が通用せず、大袈裟で、少し非常識で、芝居がかった自己アピールの強い人と受け止められ、冷ややかな反応しか返ってこないこともある。

そういうときは種を見破られた手品師のようなもので、赤恥をかかされたように感じ、怒りを露わにして立ち去っていく。

ただ、このタイプの人のそうした振る舞いに対して、あまり冷ややかに突き放した態度で応じることは、怒りや恨みを買い、ときには、あることないことを言いふらされるという形で逆襲を受けることにもなる。

このタイプの人は騒ぎ立てる名人だとも言え、敵に回すと少々厄介なことが多い。

このタイプの人が自分から接近してきた場合でも、言い方を一つ間違えると、セクハラ行為を受けたという言いがかりをつけられるということも起こり得る。

いつの間にか、こちらが大変な悪党にされてしまいかねない。

そうしたことを防ぐためにも、誘惑や接近に応じない場合も、プライドを傷つけないように配慮するとともに、常にそうしたリスクが存在することを念頭に置きながら、慎重に言動・行動をとる必要がある。

私生児から大統領夫人に這い上がったエビータ

その生涯が映画にもなった伝説の女性エビータ(アルゼンチンの元大統領フアン・ペロンの夫人エバ・ペロンの愛称)は、アルゼンチンの片田舎に、愛人の子、つまり私生児として生まれた。

当時の因習的なアルゼンチンでは、私生児としていきていくことは、つらい経験であった。

周りの子どもたちも差別して、エビータきょうだいとは一緒に遊ぼうとしなかったのである。

父親が亡くなったとき、葬儀に私生児の子どもたちが駆けつけても、屋敷の中にもいれてもらえなかったという。

金ずるを失った母親が、四人の子どもたちを養うためには、生活の面倒を見てくれる新たな愛人を見つけるしかなかった。

そうした養育環境の中で、エビータは、男の関心を惹くことで、生活の糧を手に入れるという術を自然に身に付けていった。

ただ、子どもの頃のエビータは内気な性的で、特別な美貌にも才能にも恵まれているようには見えなかったという。

ところが、十三歳のとき、一つの転機が訪れる。

学芸会で「学生たちよ、立ち上がれ」という劇に出演し、演劇に目覚めるとともに、この町から脱出して女優になり、成功することを夢見るようになったのだ。

女優になるためには首都ブエノスアイレスに出なければならないが、汽車賃さえ持たない田舎娘に手の届くことではなかった。

だが、エビータは、不可能を可能に変えるマジックを使う。

魔法の杖は、男を思い通りにすることであった。

ブエノスアイレスから地方に講演に来ていたタンゴ歌手の楽屋に、友達の計らいで忍び込むと、彼を待ち受け、たちまちその心を虜にしてしまったのである。

翌日には、エビータは、タンゴ歌手とともに、ブエノスアイレスに向かっていた。

成功の階段を上れるか、奈落に落ちていくかはわからないが、目的を成し遂げるために、エビータは躊躇なく行動することを選んだ。

ブエノスアイレスにたどり着き、男の世話でどうにか暮らし始めるが、それで満足するエビータではなかった。

すぐに別の俳優とねんごろになると、その男の紹介で、女優の仕事にもありつく。

こうして夢を一つずつ実現していったのである。

こうした成功体験が、男を動かせば何でも手に入れることができるという確信を、エビーターにいだかせたに違いない。

あるいはその確信は、男の気を惹き、思い通りに操ることでしか、自分には何も成し遂げられないのだという、母親から受け継いだ処世述によるものでもあっただろう。

人生で得する演技性の能力

十のパーソナリティ・タイプのうち、社会適応とも幸福と感じていることとも、もっとも強く、かつ統計学的に有意な相関を示したのは、演技性の傾向は、好感度や楽観性、人は自分に優しくしてくれると信じていることとも、有意な相関を示した。

また、感覚探求が強い一方で、感覚過敏や感覚回避が弱く、新しい刺激を恐れることなく求め、楽しむ傾向がはっきりと認められる。

その一方で、言語性IQや動作性IQとは負の相関を示し、知的能力は抜きんでているというよりも、むしろ平均を下回る傾向がみられる。

利発さにおいても、実務能力においても、さほど優秀というわけではないのだが、人に好かれ、人をうまく動かしていく能力によって、自分の力をはるかに超えることも成し遂げ、幸福をつかんでしまうのである。

演技性の能力こそ、まさに恐るべしである。

エビータの成功は、単なる幸運によるものではなく、彼女が単に頭が良いとか、美人であるといったことを超えた、別の卓越した能力によるものだったのである。

欲望と欠乏が生む悪の華

演技性の特性は、女性の専売特許という訳ではない。

性差は認められず、男性においても、演技性の特性をもつ人は同じくらいいる。

演技性の能力を活用し、指導者として、営業や教育のプロフェッショナルとして成功を手に入れる人もいれば、演技性の才能を悪用し、異性を騙したり、詐欺を働いたり、嘘で固めたような人生を歩んでしまう人もいる。

同じ能力も使い方次第であり、どういかされるかにかかっているが、自己アピールが重視される現代社会では、男性もまた演技性の能力を求められるようになっていると言える。

演技性の傾向は、遺伝的な体質も半分くらいあるが、半分くらいは環境要因によるとされる。

相手を惹きつける演技性の能力は、完全に満たされた環境からは、なかなか生まれない。

演技性を育むのにもってこいの境遇は、性の匂いのする華やかさと愛情の欠乏が入り交っているような生活で、演技性の能力とは、そのバランスの悪さが咲かせる「悪の華」なのかもしれない。

ルソーと虚言癖

演技性の能力をいかんなく発揮して、浮浪児同然の身の上から偉大な思想家、著述家として成功をつかんだジャン=ジャック・ルソーの場合も、その境遇は根本的な欠落を抱えたものであった。

ルソーの母親はルソーを産み落とすと、すぐに亡くなった。

スイスの時計職人だった父親は、母親の命と引き替えに遺された息子を溺愛した。

だが、母親の愛情をすべて補えるわけではなく、幼い頃からルソーには、愛着障害の子どもに特有のさまざまな問題が現れるようになった。

ひどいいたずらや盗み、そして嘘である。

後には、露出症やマゾヒズムといった性的倒錯も加わったが、盗癖と虚言癖も、ルソーが成長した後まで続くことになる。

ルソーの異常な一面について、二百数十年も前に亡くなった人物であるにもかかわらず、つぶさに知ることができるのは、彼自身が書き残した驚くべき懺悔の書、『告白録』にすべてあかされているからである。

この『告白録』は、大変面白く、これほど人生の不可思議な真実が詰まった本も少ないだろう。

その前半は、ことに魅力的で、徒弟奉公も投げ出して、父親からも見放され、とうとう一文無しの浮浪児になってしまったというのに、驚くべき才能を発揮して、貴族の夫人の館に住むことを許され、立派な教育もうけさせてもらい、学者として一人前として一人前になっていくという人生の逆転劇に息をのむような興奮を味わったからである。

とても立派とは言えない、恥ずかしい失敗に満ちた人生でも、たくましく生き延びていけるということ、そして、名をなし、偉大な業績を成し遂げられるということに、大きな希望を感じたものである。

では、ルソーはどのようにして、貴婦人の愛顧を手に入れ、その支援を引き出すことができたのか。

ルソーがもっとも世話になった貴婦人は、ヴァラン夫人といい、初めてであったとき、少年ルソーは十六歳、ヴァラン夫人は28歳であった。

誰からの紹介もなく、突然やってきた薄汚れた流浪の少年が、貴婦人と面談できたというだけでも、難しい関門をクリアしなければならなかったし、そこには幸運な偶然も味方になってくれたのであろうが、ヴァラン夫人が訪れてきた少年ルソーの姿を窓越しに見て、そのまま追い返す気にはなれず、会ってみようという気になった何かがあったのだ。

ルソーのまだ幼い顔立ちや、どこか憐れを催す風貌や物腰も、重要な作用を及ぼしたであろう。

それは、母親を持たずに育ち、周囲の同情にすがるしか生き延びる術がない境遇の子どもだけが手に入れられる何かだったのかもしれない。

ここで決定的な作用をしたのが、ヴァラン夫人もまた、幼い時に母親をなくしていたということであり、

また、夫人とは名ばかりで、現実には夫に捨てられ、若い身空で、寂しく暮らしていたということもあずかっただろう。

会ってしまったが最後、ルソーが語る身の上話に心を動かしたヴァラン夫人は、追い返すことなど到底できなくなり、自分がこの子を助けるしかないと思うようになったのである。

その後、紆余曲折はあったが、ヴァラン夫人の愛情と後援を手に入れたことでルソーは、知識人として身を立てるために必要なすべてを身に付け、その後の人生を開くことになるのである。

高等教育など一切受けていないルソーが、論文を書いてフランスで最優秀賞を受賞できたのも、著述家としてよりも先に、オペラの作曲家として世に出ることができたのも、愛人でもあり、母親代わりでもあったヴァラン夫人の助力があったからこそ、なしえたことなのである。

もちろんルソーに才能があったから、それも可能になったのだが、それ以前に、後援者の愛顧を手に入れる能力に恵まれていなければ、彼は彼の兄同様、家出したまま、貧困と犯罪が渦巻く社会の闇に消えていただろう。

愛されるという確信

演技性や自己愛性の人にみられる積極的な愛着行動に基盤を与えているのは、強い愛着期待、つまり愛されるという確信に近い期待である。

ルソーが見知らぬ夫人の館を訪ね、身の上話を語ったのも、自分が受け入れられ、愛してもらえるに違いないという期待と思い込みがあったからできたことだと言える。

エビータの場合も、歌手の楽屋に侵入するという挙に出たのは、楽観的な期待があったからに違いない。

愛されるという確信がなければ、堂々と相手にアプローチするということは難しい。

受け入れてもらうことを当然のことのようにみなしているから、思いっきり飛び込んでいくことも、馴れ馴れしく近づいていくこともできるのである。

自信のなさや内気さが魅力になることもあるが、そもそもアプローチそのものがなされなければ、相手の目にとまることもない。

相手が関心を向けるきっかけを作るためには、何らかの接近行動が必要である。

それを意図的に、明確な期待をもって行うことで、相手が期待通りに反応したとき、はじめて自分の望みを叶えることができるのである。

つまり、このタイプの人にとって、相手に接近をするということは、オーディションを受けるようなものである。

オーディションを受けなければ、何も始まらないが、オーディションに合格し、相手の気持ちを手に入れる経験を積む中で、自分なら相手の心を動かし、思うようにできるという自信を育んでいく。

そして、愛されるという自信が、また積極的に意中の人に接近し、相手を陥落させ、味方につけるという行動を、より確信に満ちたものにする。

つまり、演技性パーソナリティが育まれていくためには、自分は望む人の気持ちを手に入れられるという成功体験をすることが前提になる。

実際、演技性の人では、必ずそういった体験が見出される。

幼い頃に、母親には愛されなかった女性が、異性の父親からはとても愛され、しかもその愛され方が、一人の女性に対するような愛され方で、父親の愛情を受けることが、本人の自信を支えていたという背景は典型的なものである。

また、家庭ではまったく顧みられず、地味で内気な存在だったのが、生活の必要から水商売のバイトをするようになると、急に男達からちやほやされ、自分の女性としての魅力によって、初めて自分の価値を認められるという経験をした人も、異性からどれくらい注目され、愛されるかという点に、自分の価値を置くようになる。

それは、愛されるという自信であると同時に、その点にしか自分の価値を見いだせないということでもある。

演技性の魔力から身を守るには

人は誰しも愛されたいという願望をもっている。

しかし、現実には、好意を持ってくれる人がいても、それをはっきり口にして、相手から接近してくれることは滅多にないことである。

ところがある日、魅力的な存在から、突然関心を示され、「好き」とか「タイプだ」と告白されたら、そんなのは口先だけの言葉だと一方では思いつつも、悪い気はせず、いつしかその気になって、こちらも好意をもってしまうということになる。

ハニートラップは、その危険をうすうすわかっていても、なかなか逃れられない魔力をもつ。

性的な魅力以上に好意の告白や身体的な接近や接触が生む揺さぶりは、理性を素通りして本能に直接ヴァイブレーションを与えてくる。

そこで、防壁となり得るのは、ほとんど唯一、このタイプの特性を認識するということである。

そうすれば、その動きが、定石通りのプレーに過ぎないということが手に取るようにわかって、上手にあしらうこともできるのだ。

※参考文献:対人距離がわからない―どうしてあの人はうまくいくのか― 岡田尊司著