「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人は、嫌われるのが怖いから犠牲を払う。

しかし結果は嫌われる。

ポーランドの哲学者タタルケヴィッチは「あなたが犠牲を払うから幸せになれない」と言っている。

私たちは嫌われたくないということで、なんと多くのものを失っていることだろうか?

猜疑心が強い人は嫌われないために日々支払っている代価の高さに私たちは気がついていない。

猜疑心が強い人は相手から嫌われることの恐怖が、自己実現の気持ちより強い。

猜疑心が強い人は嫌われるのは怖いから、自分を偽っても相手に受け入れられようとする。

猜疑心が強い人は好かれたい、嫌われるのが怖いという気持ちと、もう一つの実際にある気持ちとが両立しない。

もう一つの実際にある気持ちのなかには自己実現の願望がある。

猜疑心が強い人はそうしたものを捨てたことが日々支払っている代価である。

猜疑心が強い人は幸運にも嫌われることがなくても「嫌われなかったけれども幸せにはなれなかった」ということがよくある。

猜疑心が強い人が自分が相手を嫌いなのに、その相手から嫌われないために無理をするとどうなるのか。

猜疑心が強い人は相手に文句を言いたいけれども文句を言えない。

猜疑心が強い人はそこにいたらイライラする、食事がおいしくない、笑いたくても笑えない、泣きたくても泣けない、ただムスっとして無口になる。

猜疑心が強い人はそれでいながら、「そのテレビ消してくれ」と言えない。

猜疑心が強い人はその場の空気を壊したくない。

猜疑心が強い人はそうなったらそこは地獄。

猜疑心が強い人は食事中にテーブルの上の塩を指して、「その塩をとって」と言えない。

なぜなら猜疑心が強い人はそこにいる人と心が触れていないから。

「嫌われてもよい」、そう思って、その場を焼き尽くせ。

それが意志であり、自立である。

春夏秋冬と人は服装の整理をする。

服装の整理と同じように、人生のそれぞれの時期に、人間関係の整理をする必要がある。

別れる時期に来ているのに別れないカップルが多い。

「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人は、羽根をもぎ取られた鳥のようなものである。

それは飛べない鳥。

つまり「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人は、羽根をもぎ取られた鳥のようなものである。

それは飛べない鳥。

つまり「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人は、「いい人」を演じているが、心のある人間ではない。

猜疑心が強い人はもはや血の通った人間ではない。

猜疑心が強い人は相手を嫌いなのに離れられない。

猜疑心が強い人は依存と敵意で相手に絡む。

「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人はみんなから認めてほしい。

認めてもらえれば、自立できる。

自立できれば嫌われるのは怖くなくなる。

いまの人は、よく「嫌われるのが怖い」と言う。

しかし人は、何もしなくても嫌われる。

何もしなくても怒られる。

「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人は、小さいころから周囲の人がいつもイライラしていたのではないだろうか?

そして不機嫌な人々ではなかったか。

猜疑心が強い人の周囲の人たちは、何かあるとすぐに怒る人たちではなかったか?

そうした環境のなかで育てば、嫌われるのが怖いのは当たり前である。

小さい頃、周囲の人に怒られたら生きていかれない。

怒りっぽい人間環境のなかで育てば、嫌われるのが怖くてビクビクしているのは当然である。

小さい頃嫌われることは、たしかに大変なことであった。

しかし大人になったらそうではない。

ところが人は、やはり大人になっても小さい頃の再体験をする。

そこで嫌われたら何かたいへんなことになると錯覚をしている。

「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人は、いわば幻想のなかで生きている。

猜疑心が強い人はいつも相手が怒るのを恐れている。

だれでも嫌われたくない。

しかし自己喪失と嫌われることの選択では、嫌われることを選択する。

しかし「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人は、そこで相手に合わせて、自己喪失する。

猜疑心が強い人は終わってみたら何も残っていない人生

「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人は心が触れ合わない。

かつて『マディソン郡の橋』という恋愛小説が大ベストセラーになった。

物語は孤独な写真家ロバート・キンケイドが車で旅に出ることから始まる。

猜疑心が強い彼は仕事上の付き合いを除けば、ほとんどだれも知らないし、だれにも知られていないような男であった。

旅に出たロバートは車を運転しながら過去のことを思い出している。

「彼はメリアンのことを考えた。メリアンとは五年間いっしょに暮らしたが、彼女が彼の元を去ってもう九年になる」

猜疑心が強いロバートはメリアンとは五年間一緒に暮らしている。

そして別れたが、それはイザコザがあっての別れではない。

旅から帰ったら置き手紙がしてあって、メリアンはいなかった。

そうした別離である。

それなのに猜疑心が強いロバートはメリアンを追いかけていない。

要するに猜疑心が強い彼はメリアンとふれあって生きていなかったのだろう。

心が触れ合って生きていないとは、猜疑心が強い彼が自分を出して生きていないということである。

ありのままの自分を出して五年間一緒に生きていれば、イザコザがあって別れたのでないなら、あとを追うであろう。

メリアンを捜すだろう。

ふつうなら5年間一緒に暮らしていれば、イザコザの別れでなければ、心がむすびついているはずである。

「ふつうなら」というのは「心のある人なら」という意味である。

心のない猜疑心が強い人は学生時代には友達と付き合っているが、卒業したらその友達とつきあわなくなる。

これと孤独な写真家ロバート・キンケイドと本質的な部分で同じである。

別れたら、そのまま。

自分を出してつきあっていたら、そうはいかない。

自分を出してつきあっていたら、むかしの仲間と会いたくなる。

猜疑心が強く嫌われるのが怖くて、自分を隠してつきあっていれば、何年一緒に生活をしても、それは歴史となって積み重なっていかない。

猜疑心が強い人はたとえば「イヤだなあ」と思っても、「イヤだなあ」と言えない生活なら、あとになって懐かしくはならない。

猜疑心が強い人は何か言いたいことがあっても、嫌われるのが怖くて、自分を抑えてしまう、そんな関係なら、別れたらあとを追いかけないだろう。

心が触れ合っていれば、嫌なときには「イヤ」と言える。

だからその人が自分にとってかけがえのない人になる。

またそうであれば、一日一日が歴史となって積み重なっていく。

そして「イヤ」と言ってぶつかっても、触れ合っていればその感情が後に残らない。

触れ合って生きるとはそういうことである。

「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人の生活は『マディソン郡の橋』の主人公のような生活である。

猜疑心が強い人は終わってみたら何も残っていない人生。

猜疑心の強い人は「ありのままの自分」を出すと嫌われそうで怖い

感情鈍麻とか感情麻痺などという言葉で表現される心理状態がある。

猜疑心が強い人は熱い血がながれていない。

そういう猜疑心が強い人は、小さい頃どんなに頑張っても、その努力を、親をはじめ周囲の人から認めてもらえなかった人である。

それなのに、猜疑心が強い人はとにかく認められようと頑張り過ぎて心理的にボロボロになった。

そして猜疑心が強い人は豊かな感情を失った。

猜疑心が強い人はその後は恐怖感だけで生きてきた。

もちろん何回か恋愛をしたかもしれない。

しかし、猜疑心が強い人はそれは「人を愛する」という性質の恋愛ではない。

恋愛は劇薬である。

劇薬は生きるつらさを一瞬忘れさせてくれる。

しかし恋人が手に入ったとたん、すぐにすーっと冷めてしまう。

プレイボーイのような人の心を肉体的に表現すれば、劇薬を続けて飲んで肝臓がボロボロになっている体である。

劇薬が続いて心身ともに疲れた。

「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人のなかには、認められたくて有名大学から大企業へとエリートコースを歩いた人がいる。

しかし猜疑心が強い人はその過程で血液を抜かれた。

大企業でうつ病になるような人は、恐怖感で血が流れていない。

うつ病になりやすい執着性格者はやはり嫌われるのが怖い。

執着性格者は努力する。

そして実力以上の自分を見せようとしている。

執着性格者が実力以上の自分を見せようとするのは、ありのままの自分では人に嫌われるとか、低く評価されるのではないかと恐れているからである。

人に嫌われるのが怖いとか、低く評価されるのが恐ろしいとかいうことで頑張る猜疑心が強い人は、ものすごいストレスを抱える。

猜疑心が強い人はつねにストレスにさらされる。

猜疑心が強い人は緊張して血圧も上がる。

人に嫌われるのがどのくらい怖いかとか、低く評価されるのがどのくらい恐ろしいかとかいうことに、その人の自我の確立の程度がかかっている。

猜疑心が強い人はその恐怖と不安が大きければ大きいほど自我は未確立である。

ひと口で言えば、猜疑心が強い執着性格者は他者に負けている。

猜疑心が強い人は他者に飲み込まれている。

猜疑心が強い人は他者に圧倒されている。

よく、酒は飲んでもよいが飲まれてはいけないと言う。

なんとなくわかったような、わからないような言葉である。

その言葉を使わせてもらえれば、猜疑心が強い執着性格者は他人に飲まれているし、自分の職業にも飲まれている。

職場に飲まれている猜疑心が強い人と、職場を飲んでいる人とでは職場でのストレスは違う。

職場に飲まれている猜疑心が強い人というのは職場でいつも緊張している人である。

猜疑心が強い人は職場が脅威に満ちている人である。

猜疑心が強い人は職場の人から嫌われるのは怖い。

猜疑心が強い人は職場の人から、いい人と思ってもらわなければいけないと思っている人である。

猜疑心が強い人は他人に嫌われるのは怖い。

猜疑心が強い人はそこでものわかりのよい人を演じる。

猜疑心が強い人はいい人を演じる。

猜疑心が強い人はエーリッヒ・フロムの言う神経症的非利己主義になる。

他人に嫌われるのが怖い猜疑心が強い人は、どこかで自分に失望している。

猜疑心が強い人は嫌われるのが怖いから「ほんとうの自分」を隠す。

そして猜疑心が強い人は心の底で自己嫌悪に陥っている。

恥ずかしがり屋の猜疑心が強い人は、「本当の自分」を知ったら人は自分を嫌うだろうと思っている。

同じように「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人も、他人が「ほんとうの自分」を知ったら自分を嫌うだろうと思っている。

猜疑心が強い人は「嫌われたくない症候群」の人も、恥ずかしがり屋の人も、執着性格者も、みんな嫌われるのは怖い。

その結果、猜疑心が強い人は人とも自分ともふれあうことなく生きている。

さびしくて友達がいっぱいいる「フリ」をする

親しくもない友達を集めてカラ騒ぎをしている猜疑心が強い人がいる。

躁状態ではないが、軽躁状態の人である。

肉体的、社会的には大人になっても、心理的に大人になれないピーターパン症候群と言われる人々も軽躁状態である。

ピーターパン症候群の猜疑心が強い人はたくさん友達がいるようで、じつはほんとうに親しい人はいない。

「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人も同じである。

親しい人とは心が触れ合った友達であり、何でも言える友達であり、一緒にいても不安な緊張をしない友達であり、虚勢を張る必要のない友達であり、一緒にいて疲れない友達であり、一緒にいて居心地のよい友達である。

「私、友達がいっぱいいる」と言う猜疑心が強い人がいる。

じつは友達のいない人である。

このような猜疑心が強い人は「友達がいっぱいいる」ことを得意になっている。

それはじつは、さびしいからである。

さびしくなければ「友達がいっぱいいる」ことを得意にはならない。

ほんとうに親しい人がいれば友達は多くはいらない。

自己実現を研究したマズローによれば、自己実現している人は少数の親しい人がいるだけである。

「孤独がもたらす精神的外傷は大きい」と『ピーターパン・シンドローム』の著者ダンカイリ―は言う。

重大なことは精神的外傷の結果である。

ピーターパン症候群(シンドローム)の猜疑心が強い人は友達が少なくて自信がないからこそ、「友達が多いフリをする」

そして猜疑心が強い人はカラ騒ぎをする。

猜疑心が強い人はいろいろな友達と遊ぶ。

猜疑心が強い人がそうしてたくさんの友達と付き合っているのは、さびしいからである。

猜疑心が強い彼らは自分で自分がわからなくなっている。

ピーターパン症候群の猜疑心が強い人は友達の関心を買おうとして友達に奢る。

猜疑心が強い人が奢るのはありのままの自分に自信がないからである。

ありのままの自分に自信があれば、不必要に相手に奢ることはない。

「友達がいっぱいいる」ことを得意になっているピーターパン症候群の人や、「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人は、じつは相手に関心がない。

猜疑心が強い人はだから付き合いに疲れている。

猜疑心が強い彼らは、人間嫌いである。

猜疑心が強い人はでも孤独はイヤ。

猜疑心が強い人はそこに人がいてほしいけど、いてほしくない。

人間関係で悩んでいる人の手紙にはよく最後に、「ここまで読んでくれてありがとう」と書いてある。

猜疑心が強い人は嫌われないように気をつかっている。

猜疑心が強い人はしかし肝心の、その手紙を読んでくれる人への関心がない。

「こんな内容、相手は興味ないだろう」ということがわかっていない。

猜疑心が強い人は相手に関心がないから相手の立場に立って考えられない。

友達がたくさんいる「フリ」をするのと同じように、「私、幸せ」とあえて言う猜疑心が強い人がいる。

そういう猜疑心が強い人はたいてい幸せではない。

友達がたくさんいる「フリ」をしている猜疑心が強い人の人間関係は、セルロイドの人間との関係のようなものである。

火をつければたちまち溶けてしまう。

猜疑心が強い人は「このケーキを食べたい」のに、すすめられたものを食べている。

だから猜疑心が強い人はいつまでたっても満足しない。

猜疑心が強い人はそんな人間関係である。

猜疑心が強い彼らはいいかげんな人に振りまわされる。

嫌われるのが怖いと、あるいは逆に、好かれたいという欲があると、猜疑心が強い人はいいかげんな人の話に乗ってしまう。

相手はその場かぎりの話をしている。

猜疑心が強い人はそれなのに最後にうまくいかなくなると落ち込む。

人間関係を築くとは、話し合いができる環境をつくることである。

猜疑心が強い彼らはその時間をかけることができない。

花の咲かない雑草は強い。

大きな花を咲かせる雑草はない。

背丈の長い雑草はない。

根を張っているから。

猜疑心が強い人の人とのつきあいは「接待」と同じ感覚

愛されないで育った子どもは、だれにでも好かれたい。

猜疑心が強い人は誰にでも嫌われたくないから、八方美人になる。

「専横な母親において直面する(あるいは解釈する)愛情の欠如の結果として、子どもは早くから、誰にでも愛情を求める強迫的欲求を発動させ、それは一生残って、彼を不安定にし、他の人々に依存的にする」

猜疑心が強い彼らは依存心が強いから、劣等感にも悩まされる。

依存心と劣等感とは相関関係がある。

猜疑心が強い「嫌われたくない症候群」の症状は心が触れ合わないということである。

いま過去を思い出して、あなたは誰に会いたいか。

あの人と会ったら「懐かしいだろうなぁ」と思う人が何人いるか。

それがあなたの人生の豊かさである。

一人もいなければ、どんなにエリートコースを歩いていてもそれは貧しい人生である。

多くの人から賞賛を得たり、お祭りで大声で騒いだりしても、「どうしているかなぁ、あいたいなぁ」と思う人がいなければ、それは貧しい人生である。

あなたは虚しさからただ騒いでいただけである。

一緒に騒いでいた人と心が触れ合っていなかったのである。

短い時間を一緒に過ごしても、のちに「会いたいなぁ」と思う人がいれば、その人とは心が触れ合っていたのである。

その人といた時があなたの生きていた時である。

人は、いま自分が一緒にいる人と心が触れ合っているかどうかがわからない。

それはあとになってわかる。

「もう一度会いたい」と思えば、その人とその時に心がふれあっていたのである。

折に触れて思い出す人がいれば、その人とは心が触れ合っていたのである。

兄弟ゲンカをしていた子どもが大人になってから仲良く協力していきているなどということも多い。

それに対して小さいころケンカをしなかった兄弟は、大人になってそれぞれ結婚して別々の生活が始まれば、お互いに助け合うということもなくなる。

「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人も軽躁状態の患者と同じである。

「軽躁病状態の患者は、心から親しく見える知己を無数にもっている。

しかし、もっと綿密にみるならば、彼らはいかなる意味でも友情や親しさの意味では考えられないことがはっきりしてくる。

親しさの外見は、軽躁病状態の活発さ、多弁、機智にとむこと、および社会的攻撃性によって提供される。

実際には、軽躁病状態患者と、彼のいわゆる友人たちとの間にはコミュニケーションの交換はあまり、あるいはまったくない。

彼は比較的にステレオタイプ化した社会的遂行をやりとげつつあるが、それは他人の特性や性格をほとんど、あるいはまったく無視しており、一方、他の人は、自分をもてなし、あるいはごまかすのに任せておくのが極めて普通である」

これは「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人のつきあいと同じである。

「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人はみんなに嫌われたくないからケンカをしない。

猜疑心が強い人は表面的にはだれとも仲良くする。

しかし猜疑心が強い人はステレオタイプのつきあいで、実存的レベルでの深いコミュニケーションはない。

これが「嫌われたくない症候群」の症状である。

猜疑心が強い人は怒られるのを恐れる、嫌われるのを恐れる。

猜疑心が強い人はそこで表面的には仲が良いが、心の深いレベルのコミュニケーションはできていない。

要するに、猜疑心が強い人は付き合いは接待である。

たくさん友達がいるのに、親しい人間関係が出来ない猜疑心が強い人がいる。

それはその猜疑心が強い人の心の底に憎しみがあるからである。

その猜疑心が強い人が友達を嫌いだからである。

自分を安売りして他人に尽くす

「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人で能力がある人は、どんどんと自分を安売りしていく。

そしてこれまた軽躁状態の人と同じであるが、「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人は自分を安売りしているばかりではなく、いつのまにか自分がほんとうに安いものと思い始める。

軽躁状態患者は自分を安売りする過程で、「他の人々に、彼らの能力の欠如をも確信させる」というが、軽躁状態患者も「嫌われたくない症候群」の人々も、能力があるのに能力がないと自分が思ってしまう。

猜疑心が強い人は属している組織に貢献しているのに貢献していないと思ってしまう。

それはずるい人にとって都合のよいことである。

自分の能力を客観的に評価することは社会生活をしていくうえで、きわめて大切である。

能力があるのに能力がないと思ってしまうのは危険である。

つまり自分の周囲にずるい人ばかりを集めてしまう。

そして何かあると、その猜疑心が強い人を犠牲にして物事が解決される。

単純にいえば、お金が不足したときに、その猜疑心が強い人に払わせることで解決する。

その集団のなかで何かもめごとがあると、その猜疑心が強い人を犠牲にして解決する。

その集団で何かを買う。

お金がない。

その猜疑心が強い人が払う。

しかし、ほかの人々はその人に感謝の念がない。

ある集団である。

集団でよく飲み食いをする。

そのなかに一人だけ「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人がいる。

そしてその「嫌われたくない症候群」の猜疑心が強い人がいないときには飲み食いはない。

その集団のメンバーはその猜疑心が強い人のことを陰で何と言っているか。

「〇〇銀行が来ない」である。

〇〇銀行という〇〇のところにはその人の名前が入る。

つまりその集団の人は、その人の人格を尊敬して付き合っているのではなく、お金があるからつきあっているのである。

それでもその猜疑心が強い人は、みんなに嫌われたくないからお金を払う。

きわめて能力のある人だが、周囲の人はだれもその猜疑心が強い人を尊重していない。

世俗の世の中では「あの人に言えばお金が出てくる」となれば、トラブルに際してその人にお金を出させて物事を解決しようとする。

ビジネスパーソンであろうと、主婦であろうと、弁護士であろうと、お店の人であろうと、だれであろうと「あの人は、言えばお金を出す」となればその人にお金を払わせる。

何かトラブルがあったときに、ほんとうに筋を通して物事を解決するという人はきわめて少ない。

そしてお金を払えば、その集団の人たちは、その人が自分たちを必要としているとうぬぼれる。

大切にするどころか自分たちがいよいよいい気になる。

ここが恐ろしいところである。

犠牲を払うとその猜疑心が強い人が大事にされるかといえば、逆である。

周囲の人は、猜疑心が強い彼が自分たちを必要としていると思うことで傲慢になる。

猜疑心が強い人が自分自身を安売りするのは、さびしいからである。

そして、猜疑心が強い人はいい人と思ってもらいたいからである。

しかし質の悪い人に対しては、安売りは逆の効果をもたらす。

傲慢な人たちは彼らが自分を必要としていると思ってしまう。

安売りする人の周囲に集まっているのは、もともと傲慢な人達である。

「彼ら自身の安売りは、しばしばこれらの人々が実際に、彼ら自身の天賦の才や創造的能力の利用を麻痺させるところにまで達する」

※参考文献:だれにでも「いい顔」をしてしまう人 加藤諦三著