”甘えに付け込まれるな”
この世の中、多くの女性が夫の甘えに参っている。

給料を他の女に渡してしまう。

その女には贅沢をさせる。

それでいながら奥さんとは別れない。

あげくのはてに、「オレのことを分かってくれ」などと言っている。

「オレは会社で苦労している」とか、「もっと大きな愛で俺を包んでくれ」とかいっているのである。

ここまでくると、かなり一般的になってくる。

こういう例を挙げるなら、身内の誰かに甘えているということは、身内のその人に冷酷無比であるということに他ならないということが分かるであろう。

シーベリーは自己犠牲ということに強い警告を発している。

そして、「血縁関係に付け込まれるな」と注意する。

血縁関係と言う世界では、何か頼まれると断りにくい。

断ると自分が利己主義であるような気がしてしまうからである。

しかし、頼む側の態度、心理はどうかと言えば、傍若無人、冷酷無比なのである。

私は、土居健郎とシーベリーでは、書く目的も表現も言葉遣いも全く違うが、その根底において、同じテーマを扱っているのに驚いたことがある。

もちろん、シーベリーは甘えと言う言葉を使ってはいないし、甘えを土居のように考察しているわけでもないのだが。

「甘えの構造」に次のようにある。

「・・・遠慮が働く人間関係を中間体とすると、その内側には遠慮がない身内の世界、その外側には遠慮を働かす必要のない他人の世界が位置することになろう。

面白いことは、一番内側の世界と一番外側の世界は、相隔たっているようで、それに対する個人の態度が無遠慮であるという点では相通ずることである」

その通りである。ただ、その次に「ただ同じく無遠慮であると言っても、身内に無遠慮なのは甘えの為であるが、個人に対する無遠慮なのは甘えの為であるが、個人に対する無遠慮は甘えの結果であるとは言えない」とある。

ちょっと揚げ足取りのようになるが、「個人に対する無遠慮は甘えの結果であるとは言えない」と言う表現が気になる。

なぜなら、私は無遠慮は甘えた人間の本質であると思っている。

そうした意味で個人への無遠慮も、甘えの結果であるに違いないと思う。

さらに「前者では、甘えていて隔てがないので無遠慮であるのに対し、後者では、隔てはあるが、しかしそれを意識する必要がないので無遠慮なのである。

このように甘えが濃厚でも、また全く欠如していても、同じように人を人とも思わない態度が表れることは注目すべきことである」とある。

しかし、甘えの本質は、人を人とも思わないということである。

個人に対して人を人とも思わぬ態度をとるのは、甘えが欠如しているというより、むしろ甘えがあるからではなかろうか。

甘えが濃厚では、確かに身内にあって人を人とも思わぬ態度になる。しかし、外の個人に対しても、人を人とも思わぬ態度になるのである。

それなのに、身内の者に対して人を人とも思わぬ態度をとると甘えが濃厚と見え、外の個人には甘えが欠如していると見えるのはなぜであろうか。

甘えた人間にとって、遠慮の外側にある人は利用価値が無いからである。

遠慮の内側にある人は、甘えた人間にとって利用価値がある。

この違いが、一見すると、甘えの濃厚と甘えの欠如に映るのである。

それは、甘えている人間のずるさなのである。

ずるくて、人を人とも思わぬ人間であるからこそ、身内にベタベタとし、他人に対しては厚顔無恥になる。

しかし、これは全く同じことなのである。甘えを囲んでいる環境の違いから、現れ方が違っているだけなのである。

シーベリーが「自分に負けない生き方」の中で、繰り返し説いていることは、この、人を人とも思わぬ甘えた人間は、相手が自分に尽くさないと相手を利己主義と責める。この責められ方に普通の人は弱い。

さきに、”甘え”の特徴とは冷酷無比であると述べた。

このことは、三歳の子どもの、母親への態度を見ればわかる。

母親が選択などで忙しくしていても、三歳の子どもは決して母親の立場を考えない。

気に入らなければワーワー泣く。

相手を自分の思うように動かそうとするだけである。

しかし、それは三歳の子どもだからかわいいし、許されるのである。”甘え”とは無力な幼児が持ってこそ自然なのである。

無力な幼児が甘えて初めて可愛らしいのである。

しかし、立場を100%無視する甘えた態度を大人がとったらどうなるだろうか。

赤ちゃんにはオシメが必要であるし、また甘えさせてやることも必要である。

しかし、三十歳の人間がオシメをしていたらどうだろうか。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、甘えに付け込まれないことである。

※参考文献:自分を嫌うな 加藤諦三著