生きるのが辛い

私たちは誰でも自分に価値があると思いたい

だから、価値ある自分になろうと努力するし、自分の価値が不当に貶められることには抵抗する。

それが私たちの成長をもたらし、社会的貢献につながる。

しかし、価値ある自分という思いが挫かれる体験に出会うことがある。

それによって、自分は無価値だという思いを抱いてしまう人がいる。

このように自分には価値がないという感覚や思いを無価値感という。

自分が無価値であるという思いは耐え難い。

そのために、自分に価値があるという実感を得ることに過度に執着するようになる。

すると、自分自身であることよりも、自分に価値があることを他者に証明しようとすることへと心が向いてしまう。

そのために、人よりがんばり屋で、人よりいい人で、人より優れていなければならない、という思いに束縛されてしまい、生きることが苦しくなる。

無価値感は、その人の生き方そのものに深くかかわっている。

そのために、心の持ち方をちょっと変えれば克服できるというものではない。

また、外面としての自分を飾り立てることで抜け出すことは」できない。

自分を自分として成長させること、それにより、自分の内にある力を実感すること。

こうした体験を積み重ねることで、無価値感は自ずと乗り越えられていくのである。

がんばっているのにつらいことが多い。

誠実であるがゆえに生きるのが苦しい。

そんなふうに感じている人の心の底には無価値感が横たわっている。

無価値感ゆえに「価値ある自分にならなければ」という思いが、つらい努力に駆り立てているのである。

責任感の強いがんばり屋の生きづらさ

生きづらさを感じているKさんは、頼まれた仕事は引き受け、きちんとこなす。

周囲から信頼されており、面倒な仕事が回ってくる

人間的にも能力的にも信頼されているという満足感はあるが、責任を負いすぎていると思っている。

でも、他にやる人がいないか、できそうな人がいないなら、結局自分がやるしかない、と思って引き受けている。

仕事で一緒に組むことの多い後輩のTさんは、正反対である。

「要領人間」というレッテルがあるとすれば、彼女はまさにその人である。

Tさんの仕事のうちのいくつかは、いつの間にか他の人の仕事になっている。

自分の方へ引き込むのがうまく、割り当てるのがうまい。

その巧みさの最大の犠牲者は、むろん生きづらさを感じているKさんである。

二人を見ていると、会社の同僚ではなく、姉が妹の面倒を見ているかのようである。

生きづらさを感じているKさんも、正直、腹が立つことがある。

しかし、後輩であるTさんのそうした巧みさを許し、育ててきたのも自分だ、という自覚がある。

Tさんが新入社員として入ってきたときから、面倒な仕事はTさんに回さず、Kさんが一手に引き受けてきた。

その延長線上の関係なのである。

二人の関係の在り方は、生きづらさを感じているKさんのプライベートな生活の敷き写しである

長女であるKさんは、感情的に未熟なところがある母親と同居し、長いこと面倒を見てきた。

でも母親のお気に入りは、幼い頃から妹の方である。

妹は甘え方がうまいのに対し、生きづらさを感じているKさんは甘えることができない。

学校時代からたとえば「後片付け手伝える人は残って下さい」と係の人が呼び掛けると、係以外の人はさっさと帰っていくのに、自分は残って手伝う側になる。

責任感が強いというか、自由に振る舞えないというか。

会社で信頼されていること、それゆえに大事な仕事を任されること。

これは自信にもなり、満足感にもなる。

そして実際いつもやり遂げるので、充実感もある。

でも、やっぱり無理しているし、信頼されることによって自己価値を得ようとしているのだとも思う。

というのは、誰かが他の人に仕事を頼むと、「私でなくてよかった」という思いと同時に、自分が低く見積もられたかのように感じてしまうからである。

自分という存在自体に価値があるという実感があれば、人一倍がんばり屋の自分という特別な存在になる必要などないのだ。

人と比べてしまう生きづらさ

無価値感という生きづらさが強いと、いろんな場面で他の人と自分とを比べてしまう

なぜなら、優劣が自分の存在価値に直結するからである。

むろん、誰でも自分と比べてしまうことはあるし、自分より優れた人をうらやむ気持ちも生じる。

それでも、自己価値感のしっかりした人は、相手を称え、自分もがんばろうと建設的な方向へと意識を向ける。

しかし、無価値感の強い生きづらさを感じている人は、自分が劣ることに過度にこだわり、自分を否定する方向に心が動いてしまう。

比べる対象は周囲の人に限らない。

生きづらさを感じている人は有名なスポーツ選手や芸能人、アイドルなど、特別に優れた人たちとも無意識のうちに張り合ってしまう。

このために、生きづらさを感じている人はテレビを見ていても、彼らの素晴らしさや美しさを素直に楽しめない。

自分に対する否定的な態度は、自分の写真や作品にも広がっていく。

無価値感にとらわれた子どもは、自分が写った写真を見るのを好まなかったり、学校でかいた作文や絵、工作物を目につかないところに隠してしまうことがある。

こうした生きづらさを感じている人は、自分の内面に敏感で、いつでも比べてしまう自分を嫌悪する気持ちが強い。

生きづらさを感じている人は同級生の結婚通知に祝福よりも嫉妬する自分に戸惑い、自己嫌悪する。

劣ること、負けることは大きな痛手になるので、勝敗を争うゲームや競争を避ける

このために、生きづらさを感じている人は比べたり、競ったりするのは心の中だけにとどまる。

ところが、なかには実際に他者と張り合う行動が顕著になる生きづらさを感じている人がいる。

これはとりわけ男性においてみられる。

A氏は、精力的で、何の話にでも割り込んでくる。

彼が話すことにはいつも自慢が潜んでおり、知識をひけらかすときはとりわけ得意げである。

自分の誤りや負けを決して認めようとしない。

他の人が称賛されたり、業績を上げることを心穏やかに見ていることができず、皮肉ったり、けなしたりしてしまう。

こうした人は、一見、自信によって動かされているかのようであるが、無価値感ゆえに自分を優位な立場に置かないと心理的安定を保てないのが真実の姿である。

「自分」がない生きづらさ

私たちは成長過程で、多かれ少なかれ本来の自分を抑えて周囲に適応し、周囲の気にいられるように自分を形成する。

期待された役割を生きる自己である

期待された役割を生きる自己とは、自分の感情や自分の願望よりも、相手の感情や期待、要望に応えることを優先する姿である。

無価値感の強い生きづらさを感じている人ほど期待された役割を生きる自己もまた強固に形成される。

学生たちに自分が心を顧みて考えたことを書いたものがある。

ある学生は次のように書いた。

「他の人は中身がぎっしり詰まっているのに、私はスカスカ。

他の人は、実感を伴って話しているし、自分の考えを持っている。

それぞれ好きな世界があるし、私の知らないことを知っている。

それに比べて私は、とくに好きなことも、得意なこともない。

みんなに話せるような話題もない。

私が何か言っても、言葉が自分と結びついていない感じで、借り物の言葉のような気がする。

友達としゃべっているときは、”この人はなんと言ってもらいたいのだろう”とか”どのような反応をすればいいんだろう”と思いながら聞いていて、自分が無くなっている。

カウンセリングを受けていて、その先生に”あるがままのあなたでいいんですよ”と、よく言われるけど、あるがままの私というものがわからないんです。」

他者に対する強迫的な気遣いで確たる自分を作れなかった生きづらさを感じている人は、自分を貶めることで周囲に受け入れられようとすることがある。

自分の失敗や劣っていることで笑いを取ろうとするとか、自分の内面を過度にさらけ出すなどである

しかし、生きづらさを感じている人はそれが場違いであったり、唐突すぎたりして浮いてしまい、自己欺瞞や屈辱感に傷つく。

こうしたことが、無能感や無価値感を強める悪循環になっている。

また、無価値感が強いと、寄せられた好意を過大に評価し、大きな負債と感じてしまう。

そのために、クドクドと相手が恐縮するほど礼を言う。

ところが、相手はたいしたことはしていないのにと、その姿に卑屈さを感じることになる。

無価値感が強いという学生はこう書いている。

「何気ない他の人の行動で、自分が悪いからだという考えになってしまいます。

たとえば、一緒にいる友達の機嫌が悪かったら、自分が悪いこと、気分を害することをしてしまったからだと、勝手に考え、気持ちが沈んでしまいます。」

こうした生きづらさを感じている人は、自分の感情や欲求よりも相手を優先するので、他者に支配されるとか、利用されがちである。

そのために、人間関係において恨みや蹂躙されている感じ、屈辱感などを抱えていることが多い。

傷つきやすい心の生きづらさ

心に無価値感を抱えている生きづらさを感じている人ほど傷つきやすい。

なぜなら、傷つくということの本質は、自分に価値があるという感覚が侵されることだからである。

ある女子学生は書いている。

「私が苦手だなと思ってきた友達のほとんどが自信のない子だ。

すぐに傷ついたり、被害妄想が強かったりするので、付き合うときいろいろと気を遣う。」

傷つくということでいえば、無価値感自体が心の傷(トラウマ)といえる

過剰なほど心が揺さぶられてしまうのは、この心の傷が刺激されてしまうためである。

たとえば、生きづらさを感じている人は上司から注意を受けると、幼い頃親から叱責され、拒否された感情が無意識のうちに喚起され、マイナスの感情が増幅される。

あるいは、以前の仕事での失敗がトラウマになっていると、そのときの感情と結びついてしまい、必要以上に混乱してしまう。

とりわけ、生きづらさを感じている人は人から「ルーズな人」とか「無責任な人」などと、人格的な指摘をされると深く傷つく。

なぜなら、こうした指摘は思い当たるところが必ずあるし、それを否定する客観的な基準も存在しないからである。

引っ込み思案という生きづらさ

保育園や幼稚園を訪問すると、子どもたちがワーと寄って来て、人懐っこく話しかけてくる。

ところが、興味があるのに離れたところから見ているだけの子がいる。

自分が受け入れてもらえるという確信がないために、みんなと同じ行動をとれないのである

このように、幼い時期から自己価値感の高低によって行動に違いがみられる。

無価値感を自己顕示的行動で補償しようとする人もいるが、多くの場合、無価値感が強いと引っ込み思案や消極的になる。

それは、傷つきそうな場面を避けようとするためでもあるが、そればかりでなく、無価値感の直接の産物であることも少なくない。

たとえば、自分の考えの正しさ、自分の意見の重み、そうしたことに自信がもてないために会議で発言しない。

自分が手を出すことでグループのメンバーに迷惑をかけることを怖れて、グループ活動に参加できない。

無価値感ゆえの消極性は、男性よりも女性において明確に表れる。

生きづらさを感じている人は自分が相手に歓迎されるほどの価値があるということを信じきれないために、「私が好意を示すのは、相手にとって迷惑なのではないか」と思って身を引いてしまう。

「自分が入ると、グループの雰囲気を壊してしまうのでは」と考えて、誘いを断わってしまう。

外界に配慮して引っ込み思案でいると、自分のことだけで精一杯になる

というのは、いわゆる「考えすぎるタイプ」になり、自分に起こる出来事すべてが難儀だと感じられるからである。

外出するとき、どのような服装にするべきか、靴は?

傘を持っていくべきか、お昼はどうするかなどいろいろと考えてしまいきが重くなる。

生きづらさを感じている人は自己価値を信じきれないと、目立たないように、他の人の邪魔にならないように、責任を負うような事態にならないように、という姿勢が身に付く。

これによって、いっそう無価値感を強める事態に遭遇する。

「小学生の女の子がバッグの端を電車のドアに挟まれたとき、周りの人はとっさにドアを押さえようとしたり、その子を安心させてあげる言葉をかけていたのに、自分は近くにいたにもかかわらず、ただ見ていることしかできなかった。」

「アルバイト先でお客さんが皿を割ってしまったとき、私はあわてて割れたお皿を手で拾ってケガをしてしまった。

そんなとき、他のアルバイトの人は、落ち着いてお客さんに声をかけ、ほうきとちりとりで皿を片付けていた。

結局、私はケガのため、その後の仕事も簡単なことしかできず惨めだった。」

どこか体調が悪いという生きづらさ

無価値感は体調不良を引き寄せていることがある

もともと幼い子どもにとって、心配や不安は、お腹が痛いことや頭が痛いこととほとんど同義である。

プールが嫌いな子は、プールの日になると腹痛や頭痛、発熱を訴える。

試験がストレスな子は、当日の朝になると嘔吐する。

大人ではそれほど直接的ではないが、同様なメカニズムは働いている。

無価値感が強いということは、心身に常時ストレスを抱えているようなものである。

生きづらさを感じている人はそのうえ、いっそう心身の負担を背負い込む行動を選択する。

無価値感からの消極性は、気分転換行動を抑制しがちである。

このために自律神経系、免疫系、ホルモン系などの正常なバランスが崩れ、いろいろな不調が生じ、疾患にかかる可能性も高くなる。

子どもにとって、体調不良が親の愛情を得る手段になっていることがある。

共働きの家庭では、子どもは病気になると保育所にいかなくていいし、母親が会社を休んで看病してくれる。

学生は、体調不良であれば、がんばらなくてもいいし、叱られることもない。

体調不良がつらさから身を守る手段になっている大人もいる。