“目に見えない努力を認めない人々”

天国に生まれるものと地獄に生まれるものとがいるのに、人々は天国に生まれるものを賞賛し、地獄に生まれて頑張っている人を認めない。

地獄に生まれて頑張っている人ほど、人からの理解を必要としているのに、逆に人から理解されない。

地獄に生まれて頑張っている人ほど、自分の気持ちを理解してもらいたいのに、周囲の人は、そういう人の努力を認めない。

周囲の人は、地獄に生まれて頑張っている人の辛さを認めない。
辛さを認めてくれれば、少しは地獄の辛さが和らぐのに、その辛さを認めないで、逆に「弱い」という評価をする。

そして丸太小屋に生まれた人の努力は賞賛するに値しないのに、その努力を認め、賞賛する。

母なるものを持った母親の子どもが大人になれば、努力するのは当たり前である。
エネルギッシュであるのは自然なことである。

しかし、人々はこちらを誉める。
こちらのタイプを賞賛する。

愛されて育っていない人は、泳ぎ方を親から教わらないで海に投げ出されたようなものである。
愛されて育った人は、泳ぎ方を親から教わっている。

それでも、人は、泳ぎを教わった者が泳いでいると「偉い!」とその努力を認める。

しかし、泳ぎを教わらないままに海に投げ出された者が必死で泳いでいても、
「何であなたはそんなに泳ぎが下手なのよ」と努力を認めない。

心理的なことを経済的なことに置き換えて話してみよう。

愛されて育っていない人は、借金を背負って生まれてきているのである。

そこで必死になって働いて借金を返している。
しかし、返しきれなかったり、返し終わっても小さな家も建てられない。

愛されて育った人は、親から土地付きの家を建ててもらっている。

それなのに、人々はどう言うか。必死で借金を返している人の働きを、「苦労が多い」と認めない。
そして、「あなたは家も建てられないの?」と蔑む。

親から家を建ててもらっている人が、働いて建て増しをする。
すると、「すごいわねー」と言う。

人々は必死の努力は認めないが、努力の名に値しない努力は認める。
目に見えるからである。

じつは、母なるものを持った母親の子どもとしてうまれるか、母なるものを持たない母親の子どもとして生まれるかは、巨額の借金を抱えて生まれるか、巨万の富を持って生まれるか以上に違うのである。

対人恐怖症、社交不安障害の人は巨額の借金を背負って生まれて来たようなものである。

※参考文献:自分の受け入れ方 加藤諦三著