例えばその人は、自分が他人より優越している心理的必要性がある。

なぜなら復讐心があるから、その復讐心を満足させるためには優越が必要である。

他人が自分より劣っていることを心理的に必要とする人がいる。

そこで劣っている者を軽蔑する。

そこで他人に「劣っている特質を付与する」
あいつは小物だ、あいつは迎合して偉くなった、あいつはくだらないやつだ。

とにかく偉い人を批判する、軽蔑する、そういう人がいる。

現実を見るのではなく、こちらの心の必要性で現実を解釈する。

自分が勝手に相手の性質を決めて、それに自分が反応しているに過ぎない。

相手が邪悪な存在であることが、自分の心理的安定のために必要なのである。

現実のその人とは関係なく、ある人を「魔法の杖を持った人」にしてしまうし、
また現実のその人とは関係なく、その人を「許しがたい人間」にしてしまう。

カルト集団というと、特別な人々と思うかもしれないが、日常の市民の生活の中にも同じ心理は現れる。

欲求不満の塊のような人がいる。

この欲求不満な人が、外化を始めるとすさまじいことになる。

相手を欲求不満のはけ口としてしまう。

そして欲求不満のはけ口が正当化される。

現実の相手と関係なく、相手を悪い人にしてしまうから、相手を攻撃しても許される。

また自分の敵意が相手に受け身の形で外化されて、相手は自分に敵意を持っていると見なされる。

そうなると自分は被害者となる。

実際には加害者なのに「私は被害者だ」と騒いでいる人は世の中には多い。

夫婦関係の不満から自分の人生の様々な不満まで織り交ぜて、関係ない人に向かってすさまじい攻撃が始まる場合もある。

「自分が相手に付与した性質に、自分が反応する」と言うカレン・ホルナイの指摘は見事である。

ある例である。実際にはその隣人の犠牲と親切のおかげで路地に自分たちの新築の家が建った。

自分たちが今の生活ができているのは隣人の犠牲の上である。

ところがその人の心理的必要性から、その隣人を悪者に仕立て上げて、すさまじい攻撃をする人までいる。

まさにカレンホルナイが言うように「歪んだ他人像」である。

それはその人が勝手に相手に付与した性質で、相手は全く持っていない性質である。
この奥さんは深刻な劣等感に悩まされていたので、隣の家よりも自分の家を上に置きたいと思った。

ところがなかなか思うようにいかない。

その結果、自分の中に敵意が生じた。

そしてその敵意を外化した。

つまり隣の奥さんが自分に敵意を持っていると感じた。

それから地獄の生活は始まった。

この奥さんは自分で地獄に降りて行きながら、地獄に落とされたと隣人を恨む。

自分で自分の首を絞めているのに首を絞められていると思って人を恨む。

※参考文献:イライラのおさめ方 加藤諦三著