情報過負荷と回避型愛着スタイル

最近、ニュージーランドの研究者が、興味深い研究結果を報告した。

約四千人を対象に、テレビやコンピューターなどの画面を見る時間と、親や親友に対する愛着の強さとの関係を調べたところ、画面を見る時間が長い人ほど、親や友人に対する愛着が薄いという結果が得られたのである。

この結果は、情報化に伴うライフスタイルの変容もまた、人々の愛着スタイルの変容に一役買っている可能性を示している。

親の養育うんぬんという以外にも、愛着を脅かす要因に、われわれは取り巻かれているのかもしれないのだ。

人類は、これまでに経験したことがないほどの情報化社会に暮らしている。

一年に生み出される情報の量は、10兆テラバイトを軽く超えている。

この数字は、これまでに書かれたすべての本の情報量の一千万倍以上に相当する情報が、毎年生みだされ、流布されていることを意味する。

バイトとは情報量の基本単位で、1000バイトが一キロバイト、1000キロバイトが1メガバイト、1000メガバイトが一ギガバイト、1000ギガバイトが一テラバイトになる。

つまり、一テラバイトは一兆バイトに相当するわけで、10兆テラバイトとは、その10兆倍。

まさに天文学的な数字というしかない情報量である。

ところが、人間の脳が処理可能な情報は、どんなに頑張っても一秒間に126バイトが限度だという。

このトップスピードで一睡もせず情報処理を行ったとしても、人が一年に処理できる情報量は、4ギガバイトに届かない。

ちなみに、オーソドックスな新書一冊の文字情報の量は、およそ200キロバイトだから、4ギガバイトは、この本の二万冊分に相当する。

現実的に一年でこれだけの冊数を読むのは不可能である。

しかし、これが映像となると、話が違ってくる。

たとえば二時間の映画の場合、その情報量はおよそ2メガバイトに達する。

四ギガバイトは、その二千本分に相当する。

一年でこれだけの本数を見ようとすると、一日六本見なければならないわけで、一日の半分を映画鑑賞に割くことになってしまう。

ただ一年に二万冊を読むよりは現実的で、睡眠時間を確保することもできる。

それでも、他の多くのことを犠牲にする必要があるから、かなり苦痛な生活に違いない。

それは、人間の脳の処理能力の限界を試すレベルということになるだろう。

しかし今日では、一日の半分以上を、画面を見て過ごしている人は、稀ならず存在している。

その人たちは、脳の限界処理量を脅かす暮らしを続けていることになる。

人がマインドコントロールを受けやすいのは、情報が過剰に与えられている状態か、極度に不足している状態ということが、研究によって明らかにされている。

適度な情報負荷の状態におかれてはじめて、人間の脳は主体性を維持し、バランスの良い判断やスムーズな情報処理を行なうことができる。

つまり、思考の”スペース”が必要ということである。

たとえば、本や雑誌や資料など雑多なものであふれかえり、ノートを広げる余地もない机と、必要な資料だけがおかれ、たっぷりとスペースがある机を想像してほしい。

じっくりと考えて判断するために、どちらの環境が適しているかは言うまでもない。

現在われわれは、ノートを広げる余地もない机の状態におかれがちだ。

情報がありすぎるために、肝心な情報がみえづらくなっているのである。

これでは、たまたま目に入った情報で判断を行なう状態に陥りやすい。

気付かないうちに、適正な情報処理のためのスペースを失い、周りからのプロパガンダに誘導されたり、偶発的な刺激に左右されやすくなっているのだ。

その危険について、もっとも憂慮すべきは、愛着への影響だろう。

情報過負荷と情報依存が、人々から他者とふれあうための時間、なかんずくパートナーや子どもとふれあうための時間を奪い、その質を低下させているかもしれないのだ。

愛着というものが、子育てを守るために進化した仕組みであると考えると、愛着の変容は、われわれの対人関係や社会生活を変質させるだけでなく、夫婦関係や子育てを困難にするという形で、われわれの生存自体を脅かしていることも危惧される。

愛着が不安定な人ほどメディア依存に―回避型愛着スタイル

いくつかの研究によれば、親から虐待を受けていたり、親との関係が不安定な人ほど、インターネット依存になりやすいということである。

また、インターネット依存の人は、親の養育態度が情緒的な温もりに欠け、母親の関わり方が過干渉であったり拒絶的であったり懲罰的であったりする傾向も認められるという。

これらの事実は、愛着が稀薄な人ほど、インターネットなどの情報通信媒体に避難場所を求めようとして、そこに依存しやすいという構図を示している。

こういう人こそ、他者とふれあう時間や、脳に思考のスペースが必要なのだが、現実はその逆なのである。

読書であれば、取り込む情報量は比較的少なくて済むのだが、映像を伴った情報媒体に避難場所を求めると、情報負荷が大きく、脳は余力を失ってしまいやすい。

これでは、心や頭を休めたり気持ちを整理するどころか、重い疲労感や無気力、うつ状態を悪化させてしまう。

そして、その期間が長引けば長引くほど、再び立ち上がることは困難になる。

その結果、ますますネットの世界に閉じこもり、現実の人間関係から遠ざかってしまう。

こうした悪循環が、ひきこもりが遷延する一因ともなっているのである。

最初は些細なつまずきにすぎず、一週間かひと月のんびり休養すれば、再び動き出せていたはずの人が、回復が数年単位で長引き、下手をすると十年二十年に及ぶひきこもり状態になってしまうのも、回避を固定してしまう装置が今の社会に満ちているという状況が与っている。

今や時間が過ぎるのを忘れさせてくれる情報通信媒体が、部屋の中に、掌の上に存在するようになった。

夢中になっているうちに、浦島太郎と同様、あっという間に十年、二十年という時間が経ってしまう。

気がついて、元の世界に戻ろうとしても、隔たりが大きすぎて容易なことではない。

麻薬依存や覚醒剤依存と同じ回避型愛着スタイル

インターネット依存については、さらに深刻な影響も示唆されている。

2012年、中国科学院武漢物理・数学研究所のレイハオ教授らは、ネット依存症の若者の脳をDTI(拡散テンソルイメージング)という最新の手法で調べた結果、眼窩前頭野、前部帯状回、脳梁などの大脳白質で、神経線維の走行の乱れの増加や密度の低下が認められたと報告した。

こうした状態は、麻薬や覚醒剤中毒に特徴的なものであり、これらと同様の変化が脳内に起きている可能性があるとした。

なかでも前部帯状回は、共感性にも関わっているとされ、暴力的なゲームを長時間する人では、特に共感的な情動の中枢とされる吻側前部帯状回の働きが低下しているという報告もある。

これらの研究は、重度の情報媒体依存が、神経の発達自体に影響し、その構造自体を変質させてしまう危険を示すものである。

また、機能的MRIによる他の研究でも、同様のことが指摘されている。

たとえば、インターネット依存の男性は、眼窩前頭野と呼ばれる領域の厚みが低下していることが指摘されている。

眼窩前頭野は、報酬系と呼ばれる意欲や抑制に関わる領域で、そこの厚みが低下していることは、無気力な傾向や衝動にブレーキがかかりにくい傾向と関係している。

このようにインターネット依存が、麻薬や覚醒剤依存と同じく脳に悪影響を及ぼすことについて警鐘がならされている。

長時間画面を見続け、脳の同じ回路ばかりを使い続ける環境は、物理的なダメージに劣らない影響を、脳に及ぼし得るということである。

もちろん、インターネット依存については、こうした直接的な影響以外に、間接的な影響も無視できない。

現実の存在と接し、温もりある時間を過ごす機会が減り、機械的で非共感的な操作に脳を使う時間ばかりが増えることは、回避的な傾向を強めてしまうことにもつながるだろう。

子育て変容

情報化はある意味、近代化という社会変動の最終段階で起きている変化だと言えるだろう。

工業化や都市化、核家族化といった、この数十年間の一連の動きは、子育ての在り方を大きく変えてきた。

その動きの中で、子どもに独占的に与えられていた母親の関心は、子どもにばかり注がれるというわけにはいかなくなっている。

電化製品の普及により家事労働の負担が大幅に減り、母親が子どもと一緒に過ごせる時間は増えたはずだが、その一方で、母親はそれ以上に忙しくなった。

仕事や趣味に時間を使うことが、独身の時と同じように可能になったからである。

それは、ある意味「解放」とも呼べる出来事だっただろう。

だが、母親の家事労働の負担が減ったにもかかわらず、こどもとの関わりの質が劣化するという事態が起きているのである。

母親は、家事だけでなく子育てからも解放されようとしてきたが、そのあおりを食ったのは、子どもである。

乳飲み子の間も、母親とは別の人のもとで過ごす時間が長くなったのだ。

これは、今では当たり前のことのように思われているが、他の哺乳類では考えられないことである。

乳離れするまでの間、母親は子どもを体に密着させているか、そうでないときでも、手元におき、目を離そうとしない。

それは、愛着システムによって生存が支えられている哺乳類の本能である。

その本能に背くことは、子どもにも、母親にも無理を強いることになる。

母親の関心や世話を子どもから奪うのは、仕事や趣味だけではない。

現代の母親は、わが子の顔をみつめ、反応に応えるよりも、テレビやケータイ、パソコンの画面をチェックしたり、視聴することに注意を奪われがちだ。

これでは、わが子がどんな反応をしていても、何も応答のしようがない。

母親は自分の都合のいい時間に子どもにかまおうとするかもしれないが、それは、本来の応答性ではない。

母親の気まぐれに子どもが合わせられているだけで、そこで起きていることは、結局ネグレクトと同じである。

しかも、核家族化、小家族化し、父親は不在がちという状況である。

母親以外に子どもに反応を返せる存在はなく、子どもは、ネグレクトされやすい状況におかれている。

母親が自分の用事をしている間、子どもの相手をさせようと、ビデオやテレビに頼ることも一般的だ。

ビデオやテレビは、一方的に映像や音声を垂れ流すだけで、子どもの気持ちや意思や反応は、完全に”無視”される。

そうした環境が、共感的な応答に満ちた環境とは正反対なものであることは間違いない。

まったく意識されていないが、これもまたネグレクトである。

近代化と危機に瀕する愛着システム―回避型愛着スタイル

愛着は本来子育てのために進化し、守られてきた仕組みである。

愛着が稀薄なものに変容し、回避型愛着スタイルが広がるとき、もっともダメージを受けるのは、夫婦関係の維持や子育てである。

稀薄な愛着しかもたない回避型愛着スタイルの適応戦略は、果たして将来にわたって維持可能なものだろうか。

愛着の働きの一つは、母親が幼い子どもから離れないようにすることである。

母親は子どもを手放すことに本能的な不安を覚え、子どもも母親から離されることに抵抗する。

それが自然な仕組みであり、この数十年の例外的な時期を除けば、幼い子どもは母親と完全に密着して育ってきたのである。

未開の部族などの調査でも、同様のことが確認された。

また、かつて乳児期は、現代人よりもかなり長い傾向があり、もともと人類は、三、四歳ごろまで母乳を与えるのが一般的だったのではないかとされる。

ところが、巨大な社会と文明を築き上げ、専門分化し効率化のもとに生活する現代人は、乳児期を、ほとんど必要悪のようにみなすようになった。

そしてそれが、母親と子供をさっさと引き離すことにつながった。

こうした傾向が、近代資本主義の発祥の地たるプロテスタントの西洋諸国で強いことは興味深い。

これらの国々では、効率的に栄養や環境を管理すれば、べたべたと母子が一緒に過ごす必要はないという考え方が趨勢となったのである。

なかでも、子どもを甘やかさず、早くから自立させようとする傾向が特に強いとされるのが北ドイツである。

この地域では、回避型愛着を示す子どもの割合が、他の欧米の地域と比べても、2倍以上と非常に高いことが報告されている。

新生児室、ベビーベッド、保育所が回避型愛着スタイルへ?

子育てを効率化する上で、今では当たり前になっているものが、新生児室であり、ベビーベッドであり、託児所や保育所である。

生まれたばかりの赤ん坊は、なぜか母親から引き離され、新生児室というところに集められて過ごす。

頭や体を押し潰されそうになり、息も絶え絶えの中、まさに命がけの苦労をして、ようやくこの世に生まれてきたと思うと、頼るべき母親と離ればなれになり、騒々しい泣き声であふれる、無味乾燥な部屋におかれるのである。

これは、愛着形成という点でも、赤ん坊にかかるストレスという点でも、かなり疑問のある処置だと思われる。

新生児室に移す理由は、出産したばかりの母親が安静に過ごせるということとともに、新生児の状態を観察、管理しやすいということにある。

そうした管理のもと、母親に会うのは授乳の時間だけで、母乳の出が悪いとなると、看護師が機械的にミルクを追加して飲ませる。

そうして新生児期の一週間ほどを過ごす。

泣き叫んでも、応えてもらえない時間を味わうことから、人生を始めるのである。

それは、回避型愛着スタイルへの第一歩だとも言える。

しかし、これは自然状態の新生児や母親にはありえないことだ。

自然状態では、母親は絶えず子どもをそばにおき、よそ者を近づけようとはしない。

ましてや、他人にわが子を触らせることなど、考えられないことである。

近代的な産科学は、効率的な管理という大義のもと、愛着や子どもにかけるストレスという点で、思いもかけない影響を及ぼしている可能性がある。

ほんの二、三時間、母親から離されるだけで、子どもの脳にその痕跡が認められるという事実からすると、現在一般的に行われている産科的処置は、子どもが生存していく上で欠かすことのできない何かを脅かすほどの重大な危険を孕んでいるように思える。

病院で出産するのが一般的となり、新生児室で育った子どもが多数を占めるようになったのは、おそらく1960年代半ばからではないかと思われる。

同じころから、アメリカ流の子育てが広まるとともに、添い寝ということが否定され、ベビーベッドに寝かせるという習慣が普及した。

母親から離れても泣きもせず、世話がかからないことが、ベビーベッドの優れた効果だと考えられた。

早く自立する効果があると賞揚されたのである。

しかし、少なくとも、日本の現状をみる限り、ことに自立という点に関しては、覚束ない状態と言わざるを得ない。

自立しているようにみえても、それは本当の自立ではなく、単に回避型愛着スタイルを身につけるのに一役買っただけなのかもしれない。

親密な対人関係を築きにくくしたり、パートナーとの安定した関係を確立するのを困難にすることで、本当の意味での自立を妨げてしまっているとさえ言える。

自立は、人に対してよそよそしくなったり、甘えなくなれば達成できるというものではないのである。

1970年代には女性の職場進出が急速に進み、仕事をもつ母親は子どもを預けて働くようになったが、これも子どもの愛着に大きな影響を与えていることは否めない。

特に、ゼロ歳のときに預けられると悪影響があらわれやすいことが、いくつかの研究によって裏付けられている。

早くから母親から離れて過ごすことが当たり前になった子どもたちは、知らずしらず回避的な愛着スタイルを身につけやすい。

呼べども応えてもらえない境遇におかれるのであるから、それは自然な反応であろう。

回避型愛着スタイルに特徴的な行動上のリスクも高まるとされる。

また不安の強い子どもは、早くから適応不良の兆候を示し、よく泣くとか、攻撃的になるとか、身体的な症状を起こすなど、何かと母親を手こずらせるといった形でSOSを出すが、まったく問題ないようにみえる子どもでも、実はその影響を免れていないのである。

このように近代的な資本主義とともに発展した、早期の母子分離を優先した養育スタイルは、愛着を軽視したものであり、愛着を不安定にし、特に回避的な愛着を促進するものと考えられる。

不幸な連鎖が回避型愛着スタイルの問題を加速する

愛着のシステムは、後天的な体験に負うところが大きい。

つまり、親世代の愛着が不安定だと、その親に育てられた子どもは、愛着がさらに不安定になりやすい。

そして、孫世代になると、さらに問題が加速するということになってしまう。

回避型愛着スタイルの場合にも、そのことは言える。

忙しい母親にあまりかまわれることなく育った子どもは、回避型愛着スタイルになることで、その状況に適応する。

その子どもが親になると、子育てよりも仕事や趣味に楽しみを見出すので、いっそう子育てに無関心となりやすい。

そして、回避型の親に育てられた子どもは、さらに回避的な傾向を強めていくのである。

現代社会において、境界性パーソナリティ障害(見捨てられ不安が強く、自傷行為などを繰り返す情緒不安定なタイプのパーソナリティ障害)のような不安定な愛着の持ち主が増える現象と、回避型愛着スタイルの人が増える現象が並行して起きているのには必然性がある。

愛情という養分の乏しい環境で生き抜くには、求めることを一切やめるのがもっとも理にかなった適応戦略である。

境界性パーソナリティ障害の人の苦しみにあらわれているように、求めようとすればするほど、もっと傷ついてしまうことになるからである。

回避型愛着スタイルは、個人的な問題にとどまらず、社会全体が抱えている問題だと言える。

その中で生きる人々が、プレーリーハタネズミ型から、サンガクハタネズミ型に変化しつつあるということである。

その変化が避けがたいものだとしたら、その状況のもと、回避型愛着スタイルに適したパートナーシップや子育てが模索されているとも言える。

※参考文献:回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち 岡田尊司著