空虚感を感じる人が気が楽になる心理

悩んでいる人はよく夜中に電話してくるという。

一応「失礼ですが」とはいう。

それなら電話しなければいいが、話しているとどうも、自分は例外らしいのである。

「お忙しいのはわかっていますが」といいながら電話してくる人もいるという。

あるいは口だけで、「お忙しいと思いますが」と断るが、「悩んでいますのでぜひ時間をつくってください」となる。

「お忙しいでしょうが」といいながら、会うことを強要してくる。

むしろ「お忙しいでしょうが」ということによって、相手に、自分はこんなに相手の立場がわかっているのだぞ、自分はこんなに礼儀正しいのだぞ、ということを誇示しているにすぎない人がいる。

それは、相手が時間をつくれないといったときの怒りの反応によってわかる。

その空虚感を感じる人の考え方は、まわりの人が自分に何かしてくれるのは当たり前なこと、自分が何かしてあげることは特別なことなのである。

空虚感を感じる人は自分だけは特別であるというのは、第三者から見ると、きわめて傲慢である。

そしてそういう空虚感を感じる人は、傲慢であるから傷つきやすい。

そして空虚感を感じる人は傷つくと、自分は傷ついた、傷ついたと騒ぐ。

しかし空虚感を感じる人は自分が相手を傷つけていることには、ひどく鈍感なのである。

空虚感を感じる人は自分は相手を傷つけてもいいが、相手は決して自分を傷つけてはならない。

神経症的要求を持っている空虚感を感じる人は、相手にとって自分がどのような位置にある存在かということがわからない。

空虚感を感じる人は自分はいつまでも相手にとって最高に重要な人であるべきなのである。

だから空虚感を感じる人は相手が忙しくても、自分の悩みの相談にはのるべきだと決めつけてしまうのである。

空虚感を感じる人は人によく思われたい一心で・・・

空虚感を感じる神経症的な考え方の特徴の一つに、自分一人では何事も納得してすますことができないということがある。

空虚感を感じる人はそんなことは人に聞かないで自分で考えて、自分で納得していればいいではないかということを、人に聞いて確かめる。

ある本を読む。

普通の人なら自分なりに解釈して、自分が生きる助けにして、自分の考えとは少しは違っていたところで、それは著者と自分の違いですます。

空虚感を感じる神経症的な考え方になると、個人的な問題で、その人が決めればいいことまで人に決めてもらおうとする。

空虚感を感じる人はいちいち人に聞いて確かめないと気がすまないのである。

この人生、あるいはこの世の中、自分が納得していればそれでいいということがたくさんある。

空虚感を感じる人はそういうものまで人に聞いて確かめようとする。

空虚感を感じる人はお互いにそこまで干渉しあわなくてもいいではないか、そこのところは各人が一人の世界で解決していけばいいではないかということまでしつこく、どうなっているのだと質問する。

人にはお互いに関係のない部分というのがある。

空虚感を感じる神経症的な考え方になるとそこまで立ち入ってくる。

自立した人間は、ほっといてくれといいたくなる。

他人が自分のことをどう思っているかいつも気にしている空虚感を感じる人は、こころのどこかで自分は他人によく思われなければいけないと感じているのではなかろうか。

空虚感を感じる人は他人によく思われたいということから進んで、他人によく思われなければいけない、あるいは他人によく思われるべきであると思っているのではなかろうか。

空虚感を感じる人はこの「勘違い」に気づけるか?

心理学者のカレン・ホルナイが神経症的要求のなかでしばしば使う表現を借りれば、自分にはその資格があるということである。

空虚感を感じる人はとにかく自分は特別だという感覚である。

空虚感を感じる人に「あなたは自分のことを特別だと思っている」と注意すると、決してそのようなことはないと反論する。

本を読んで著者に相談に来る空虚感を感じる人はがいる。

その質問に関しては、すでにその空虚感を感じる人が読んだ本に書いてある。

しかし、空虚感を感じる人はそう答えると怒る。

つまり本はそれを読む他の人のものであって、特別に自分に対するものではない。

だから、空虚感を感じる人はそれが自分に適用されることが許せないのである。

空虚感を感じる人は自分だけに対する特別な、しかも安易にできる答えでなければならない。

その人の求めているものは他人には適用できない、ものすごく安易な方法なのである。

空虚感を感じる人が「人生で失敗しないための確実な方法」

その人が空虚感を感じる神経症的かどうかの一つの基準として考えられるのは、もっとも効果的かつ簡単な方法を求めているかどうか、ということである。

もっとわかりやすくいえば、「魔法の杖」を求めているかどうかである。

誰もがこころのどこかで「自分だけは特別」と思っている

シーベリーが、神経症的な思考は人に不可能なことをしなければ、という気持ちにさせると書いていた。

そしてこのような悩みを相談する空虚感を感じる人もまた、自分にそのような方法を教えないのは相手が悪いという気持ちに追い込もうとする。

空虚感を感じる人はたとえば学校の先生に相談したが教えてくれなかったと激しくその先生を責める。

いきなり、主体的に生きる強い人間になるにはどうしたらよいか教えて下さいといわれれば、学校の先生も面食らうだけであろう。

そしてそのような「魔法の杖」を求める空虚感を感じる人に共通しているのは、自分を理解させるための労力を省く。

空虚感を感じる人はいきなり質問する。

空虚感を感じる人は自分について説明をしないという事である。

空虚感を感じる人は自分が説明しなくても相手が自分を理解すべきであるという考え方である。

したがって、空虚感を感じる人はいきなりそのような質問をする。

そして空虚感を感じる人は自分の正当化と、相手の責任追及である。

そのとき空虚感を感じる人は相手の立場を強調する。

空虚感を感じる人はつまり相手は高校の先生だ、先生である以上それくらいのことに答えるのは当然である、となる。

あるいは相手は上司である、それくらいのことができて当たり前である。

悩んでいる空虚感を感じる人は自分のことを棚に上げて相手の責任を追及する。

これが共通性である。

神経症的な願望は誰でもが持っている。

普通、誰でも苦労するのはいやであろう。

困難に際して、何か安易な方法があればそれに越したことはない。

皆そう願う。

しかし普通の人は、そのようなものがないということを受け入れているから、それは単に願望にとどまる。

普通の人はそれを要求しない。

しかし空虚感を感じる神経症的な考え方になると、それが願望ではなく要求になる。

だから空虚感を感じる人はいつも怒るのである。

誰でも困ったときに、力のある人が友人であってくれたらと願う。

そうしたらその人に頼めば解決してくれると思う。

しかし普通は、自分と相手との親しさがわかっているから、それが願望にとどまって要求にならない。

「理想の自分」を演じる空虚感を感じる人

空虚感を感じる神経症的になると、「人によく思われたい」という願望が、「よく思われなければならない」と変化している。

カレン・ホルナイの言葉を使えば”wish”が”claim”に変化している。

つまり自意識過剰の空虚感を感じる人は「よく思われたい」という願望ではなくて、「よく思われるべきだ」という神経症的な要求をしているのではなかろうか。

神経症的な考えの空虚感を感じる人は、「他人に対して優越したい」という願望が「優越しなければならない」「優越するべきである」「優越する資格がある」となってくる。

これらは対人恐怖症の人の特徴でもある。

つまり対人恐怖症の人は、神経症的要求を持っているということである。

ところで、空虚感を感じる人はなぜ願望が要求に変わるのであろうか。

それは、空虚感を感じる人は他人に優越しなければ、自分の心の底にある自己蔑視に向き合わなければならないからである。

空虚感を感じる彼らは他人を前に完全な自分を演じることで、自分の心の底にある自己無価値感を味わわなくて済むのである。

空虚感を感じる人はそれによって、自分は無価値な人間であるという感情に直面することを避けようとしているからである。

空虚感を感じる人が自分の心の葛藤を解決するためには、とにかく優越することなのである。

心の葛藤を解決するためには優越しなければならないとなれば、空虚感を感じる彼らは強迫的にも優越しようとする。

空虚感を感じる人は優越しなければならない、つまり”I want”ではなく”I must in order to avoid some danger.”になる。

自発的と強迫的の違いについて、カレン・ホルナイはこのように書いている。

この場合、”danger(危険)”とは、自分の心の底にある実際の感情に気がつくということではなかろうか。

神経症的になるような空虚感を感じる人には、心の底にどうしても認めたくない感情がある。

空虚感を感じる人はそれを認めるくらいなら死んだほうがましだという感情である。

空虚感を感じる人はたとえば親に対する敵意とか、自分が劣等だという感じ方とか、いろいろその人によって違うが、とにかく死んでも認めたくない感情がある。

空虚感を感じる人は実際にはその感情が強いが、認めたくないということである。

人が神経症的要求に固執するのは、カレンホルナイがいうように、それによって自分の心の葛藤を解決しようとしているからである。

空虚感を感じる人はなぜ「自分」を隠すのか?

空虚感を感じる対人恐怖症者はおそらく、人によく思われることが、あるいは人に優越することが、自分の心の葛藤を解決する唯一の道と信じ込んでいるのであろう。

「人によく思われなければならない」と感じている空虚感を感じる人は、それによって自分の価値を感じようとするからである。

空虚感を感じる彼らは無価値感と孤立感に苦しんでいるのである。

空虚感を感じる劣等感の構成要素は実際の自分に対する蔑視と孤立感である。

空虚感を感じる人は人を前にして理想の自分を演じることで、その二つを一挙に解決できると信じている。

対人恐怖症とは、対人関係における神経症ということである。

そして神経症は強迫的という特徴を持つ。

つまり、空虚感を感じる対人恐怖症者は「人によく思われたい」、あるいは「人に優越したい」ということにおいて、強迫的ということである。

空虚感を感じる彼らは栄光へと駆り立てられている。

空虚感を感じる彼らにとってもっとも重要なことが、心の葛藤を解決することであれば、実際の自分は無視される。

空虚感を感じる人は実際の自分では心の葛藤を解決できないからである。

空虚感を感じる人は心の葛藤を解決しようとすれば、実際の自分は障害になる。

空虚感を感じる人はそこで実際の自分を憎み始める。

空虚感を感じる人は自分の心の葛藤を解決するためには、自分はもっと能力がなければならない、もっと美しくなければならない、もっと体力がなければならない等々、次々に自分への要求が出てくる。

空虚感を感じる人はそれが自分への非現実的な要求といわれるものである。

空虚感を感じる人は自我像を美化しすぎていませんか?

ある大学生の話である。

就職活動をして、第三者から見ると適当な企業から内定を得た。

しかし空虚感を感じる彼はそこに就職しなかった。

空虚感を感じる彼はあんな程度の低いところには行けないといって断った。

そして空虚感を感じる彼は、司法試験か外交官試験を受けるといった。

しかし空虚感を感じる彼は受験勉強はせず、毎日ぶらぶらしているだけで留年を重ねていた。

心理的に健康な人から見ると、なんでそのように非現実的なほど高い期待を自分に課すのかと不思議に思う。

なんでそんなに非現実的なほど高い期待をかけて自分を苦しめるのか、不思議である。

だから周囲の人は、空虚感を感じる彼のような人を見て、もっと自分への要求水準を下げるように忠告する。

しかし空虚感を感じる彼らは、自分への要求水準を下げられない。

それは空虚感を感じる彼らが、その非現実的なほど高い期待によって、自分の心の葛藤を解決しようとしているからである。

理想的な自我像が心の葛藤を解決する唯一の手段と空虚感を感じる彼らが信じている限り、自分への非現実的な期待を下げることはできない。

逆に彼らの心の葛藤が解決されれば、人にいわれなくても自分への期待は現実的なものに下げられる。

というより、自然と下がってくる。

ある空虚感を感じている女子大生の例である。

空虚感を感じる彼女は卒業したが就職もしないし、結婚もしない、勉強もしない。

空虚感を感じる彼女は自分に合った仕事がないという。

空虚感を感じる彼女はそのうちに留学して学者になると言い出した。

空虚感を感じる彼女は経済的に恵まれていたので、外国にある語学学校に行くことになった。

しかし空虚感を感じる彼女は大学への正規の入学ではない。

空虚感を感じる彼女はしばらくして帰国した。

空虚感を感じる彼女は状況は前と変わっていない。

空虚感を感じる彼女は今度は大学院に行くと言い出した。

ところが空虚感を感じる彼女は勉強もしないし、大学院で何を学びたいかもはっきりしないので不合格になった。

そこでまた空虚感を感じる彼女は外国に行ってぶらぶらすることになる。

心理的葛藤の深刻な空虚感を感じる彼らは、当然不安なのである。

空虚感を感じる人がその不安から自分を守る手段が、理想的自我像の現実化である。

空虚感を感じる彼らは理想的自我像を実現することで安心しようとしている。

だからこそ空虚感を感じる人は自己実現にエネルギーが向かないで、理想的自我像を実現することにエネルギーが使われるのである。

空虚感を感じる人は実際に自分ができること、実際の自分に適したこと、それらのことをしようとしないで、自分には無理なことばかりにこだわり、消耗する。

空虚感を感じる彼らに、非現実的なほど高い期待を下げろということは、心の底にある自分の感情を認めろということなのである。

空虚感を感じる人はだからこそ周囲の人が期待をさげなさいといっても、そう簡単に下げるわけにはいかない。

空虚感を感じる人は非現実的な期待を現実的に下げると、実際に自分の心の底にある感情に耐えられなくなる。

空虚感を感じる人は現実から目を背けても、失望からは逃れられない

空虚感を感じる彼らは、非現実的なほど高い要求を自分に課すことで、どんな感情を味わうことを避けようとしているのか。

まず、空虚感を感じる彼らははじめから非現実的なほど高い望みがあったわけではない。

非現実的なほど高い望みは、原因ではなく、結果である。

だからこそ何度もいうように、空虚感を感じる人へ自分への期待を下げなさいといっても、彼らは下げないのである。

空虚感を感じる人は心の葛藤という原因が解決されてないのに、結果だけ変えようとしても無理である。

自分にできることを懸命にしていれば、自ずから未来は開けてくるのに、神経症的な空虚感を感じる人は自分にできないことばかりしようとする。

シーベリーは、「自分に適さないもの、自分にできないことをしようとする緊張をかなぐり捨ててしまえば、以前の最高だったときよりもっとうまくできます」といっている。

神経症的な空虚感を感じる人は、自分にできることをするのにエネルギーを使わない。

空虚感を感じる人は自分を理想的に見せるためにエネルギーを使い、消耗する。

人前で自分が全能でないことを恐れる空虚感を感じる人は、実は自分の心の底にある実際の感情を恐れているのである。

空虚感を感じる人は「自分を守る」ことは悪いことではない

自分の利益、自分の感情、自分の個性、自分の誇り、自分の魅力、それらを守るために戦わない者は軽んじられる。

そして神経症などになっていく。

自分を守るために戦うことに罪の意識をもたされてしまった空虚感を感じる人は、他人になめられ、利用されるだけである。

自分を守るために戦うことは、決して悪いことではない。

誰かがあなたとの関係であなたから不当に利益を得ようとしたからこそ、空虚感を感じるあなたに戦うことのうしろめたさを感じさせたのである。

空虚感を感じるあなたをそのように奴隷にしておくことで、いったい誰が不当な利益を得たのか。

そのことをあなたはしっかりと見きわめなければならない。

空虚感を感じるあなたは個性を踏みにじられ、利益を踏みにじられた。

そして空虚感を感じる人は心のなかから戦う姿勢さえ取りはらわれ、その奴隷と化した。

空虚感を感じるあなたが一人の男となること、あなたが一人の女になることを最も恐れたのは誰だ。

空虚感を感じるあなたが奴隷であることで最も利益を得ているのは誰だ。

空虚感を感じる人は自分の周囲、自分の過去を腹をすえて見つめてみることである。

空虚感を感じるあなたは自分を守るために戦うことに罪の意識をもつ。

しかしなぜ他人は自分を守るために戦っていいのだ。

それよりもなぜ他人はあなたの利益を害してもいいのだ。

なぜ罪の意識もなくあなたの利益を害することができるのだ。

その暴君と戦うのに、なぜあなたは罪の意識をもつのだ。

もし罪の意識をもつとすれば、利益を害されても従順なままでいるあなたではなくて、あなたの利益を害する相手であるはずではないか。

空虚感を感じるあなたが罪の意識をもつというのはまったくおかしい。

逆である。

この世の中には、被害者でありながら罪の意識に苦しむ者もいれば、加害者でありながら不満になる者もいる。

自分の利益を害されながら、申し訳ないと感じている空虚感を感じる人もいれば、他人から不当な利益を得ていながら不満な人もいる。

そしてたいていこの両者が結びついている。

一方はより相手に尽くせなかったことに罪の意識をもち、他方はより相手から利益を得られなかったことに不満をもつ。

こんな組み合わせは、この世の中に決して珍しいことではない。

自己否定他者肯定のタイプの人間と、自己肯定他者否定のタイプの人間の組み合わせからさまざまな悲劇が生じる。

自罰型の人間と、他罰型の人間の組み合わせである。

何でも他人が悪いと思い、責任を他人に転嫁する人と、何でも自分が悪いと思い、自分を責める人である。

何でも自分が悪いと感じ、絶えず自分を責めている空虚感を感じる人は、今すぐに全身で怒りを表現しなければ、やがてあなたは神経症になる。

そして神経症になると、今度は自分より弱い立場の者を痛めつけて自分を救おうとする。

そのとき、偽りの罪ではなく、本当の罪をおかす。

そのとき被害者から本当に加害者になる。

怒りを表現することに罪の意識をもつ空虚感を感じる人は、やがて本当の罪をおかすことになる。

他人から不当に扱われ、もてあそばれ、なめられ、乱用され、利用され、いいなりになって、決して自分の正当な利益や自分の個性を守るために戦わない空虚感を感じる人は、どこかで被害者から加害者に変わる。

空虚感を感じる人は自分自身を許せる人が、他人から許される人

自分を守るために戦うことは罪ではなく、罪をおかさない唯一の道なのである。

それなのに従順に慣れてしまった空虚感を感じるあなたは、自分の利益を守るために他人と戦うことに罪の意識をもつ。

空虚感を感じるあなたは罪の意識をもっているのではなく、もたされているのである。

それは利己主義者にとってそれが都合がいいからである。

空虚感を感じる人は自分を守るために戦うことに罪の意識をもつこと自体に、怒らなければならないのである。

そしてこの戦いを徹底的に戦い抜かなければ、あなたは人を愛することのできる人間にはなれない。

いいなりになる従順な空虚感を感じるあなたは、暴君と服従依存の関係を結んでいる奴隷なのである。

そんな空虚感を感じるあなたがどうして人を愛することなどできようか。

空虚感を感じるあなたのことをなめている人、空虚感を感じるあなたのことを不当に搾取している人、空虚感を感じるあなたのことをいいように利用している人、それらの人を敵と決めて戦うことこそ、他人にとって役に立つ人間になる道なのである。

その戦いをしなければ、空虚感を感じ、神経症になり、他人の足をひっぱり、他人の成功をねたみ、心の底で他人の不幸に心安らぎ、弱者をいじめながら生きていく人間になってしまうのである。

あなたの本質は非利己的な聖人君子などではない。

ただ弱いだけである。

その弱さを直視できず、聖人君子ぶることに逃げているだけである。

空虚感を感じる人は自分を守るために戦わないことこそ、罪なのである。

※参考文献:「不安」の手放し方 加藤諦三著
※参考文献:自分を許す心理学 加藤諦三著

 

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