角を矯められた牛のようになってしまった人間はどうなるであろうか。

親が受け入れてくれなかった悪い自分を、自分もまた受け容れなかった結果として、表面的に見れば、勉強熱心な学生から、仕事熱心なビジネスマンに、社会的には成長し、悪いことはしない、きまじめな、コチコチの人間として企業の中で働いている。

「痩せ馬の道いそぎ」ということわざがある。

木ばかり焦って効果が上がらないことを言う。

立派な人である彼はそのように働きながらも、心の底から交流できる友人というものをもっているであろうか?

表面的な友人は何人もいるかもしれない。

しかし、表層的な浅い接触ではなしに、心の底から接触する友人は持っていないのではなかろうか。

彼が死んだら、いつまでも彼はそうした友人の脳裏に残るであろうか。

彼は友人の脳裏に深く刻み込まれることはないであろう。

夜更けて、水割りのグラスを傾けながら、友人は彼のことを「あいつはいい奴だったよ」とひみじみいうだろうか。

八方美人で誰にでもいい顔をして、形式的には関わっても、「あいつは、本当にいい奴だよ」としみじみといってくれるゆうじんをもっていないとすれば、彼の生き方はどこか間違っている。

みんなは、義務感が強く、ずぼらにはなれない彼を、”立派な人”というかもしれないが、「どこか冷たい人だなあ」と心の底で感じていることはないであろうか。

周囲の人は、立派な人だというわりには、彼を心から尊敬していないのではないか

仕事に対する責任感は強い、残業しても仕事はかたずけようとする。時には家にまで持って帰ろうとする。

しかし部下にしてみたら、何か”かなわない”という感じがある。

それは優柔不断のくせに責任感だけ強いからではなかろうか。

立派な人である彼には仕事でも家庭でも”いい加減”なところはない。

しかし、誰も「あいつに会いたいなあ」とおもわないではなかろうか。

仕事量が多くても手を抜くことができない、疲労がたまっても仕事から離れられない、そんな彼を周囲は信用するかもしれない。

しかし、人間的に心から信頼されたことがあるだろうか。

心から信頼されないのは、仕事熱心も実は周囲から信用されるためであって、仕事そのものを楽しんではいないからであろう。

仕事は好きでやっているのではなく、義務でキチキチにやっている。

だから趣味どころではない。

そんな彼に、とことんついてくる同僚や部下がいるだろうか。

案外、家庭では奥さんも情緒の交流ができずに寂しがっているのかもしれない。

立派な彼と親友になろうとした人もいたかもしれない。

しかしその人たちは、どうしても形式的な付き合い以上のことができない空しさを感じて、立派な彼から離れていってしまったのであろう。

彼は、立派だけれども魅力がないのである。

立派なことを主張するわりには行動力に欠けている。

立派なことをいうが、それを行動に移す前に、グズグズと、実行できない理由や、悲観的な予想を言う。

立派なのである。でもペシミズムなのだ。

立派なだけではどうにもならないではないか、やらなければ。

やったらできるかもしれない。

しかし、彼は”できない”という結果を出して、行動しない。

その結果の出し方が、あまりにも物事を一般化しすぎてとらえている。

その結論の出し方はこうだ―前にできなかったから。

公的なことから私的なことまで、すべてそうなのである。

魅力的な女性を誘う時も、誘う前から”誘ってもこない”という結果を出している。

ゲームは終わっていない。

なのにゲームは終わったようにいう。

チャンスはまだある。

なのに、もうチャンスはないように彼はいうのである。

未来はわからない。今まで不運だったからといって、どうしてこれからも不運であると断言できるのか。

それなのに、彼は未来を常に不運な過去の延長として考える。

そんな考え方はもうやめることである。

希望が彼を捨てたのではなく、彼の方が希望を捨てたのだ。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、立派なことを言う前にまずはどろくさく、行動してみましょう。

※参考文献:自分を嫌うな 加藤諦三著