同じ体験をしても人間は、解釈によって腹が立ったり気持ちが落ち着いたりする。

たとえば、車を運転しているときのことを考えてみる。

交差点で前の車が右折しようとしている。

急いでいるが仕方ないと待っている。

しかしその交差点が右折禁止だと知った瞬間、前の車に腹を立てる。

急いでいるからイライラする。

もしその人が前の車の運転者と同じように、右折禁止の標識に気がつかなければ、腹が立たない。

急いでいる時に自分の車が交差点で先に進めないという同じ体験をしても、その解釈で腹の立ち方は違う。

「前の車が不当なことをしているがゆえに、自分が迷惑をしている」と解釈することで、腹が立つ。

つまり同じ体験をしても、周囲の人の行動を不当と解釈するかしないかに、苛立ちはかかっている。

その点で神経症者はいつも腹を立てることになる。

素直な心ではない。

公平に扱われても「不公平に扱われた」と感じるからである。

アメリカの東海岸に行く。

日本と昼夜が逆である。

いわゆる時差に、もっとも苦しめられる地域の一つである。

東海岸に行った人が夜眠れなくて、自分は神経症になったのではないかと苦しむことがある。

西海岸でも同じようなことが起きる。

夜眠れないと悩むのである。

素直な心ではない。

時差で眠れなくて悩む人は、「夜は眠れるものだ」と解釈している。

「眠れるべきだ」と思っている。

体に素直ではない。

しかし同じように眠れなくても、「時差だから眠れないのがあたりまえ」と解釈している人は、眠れなくても悩まない。

体に素直である。

眠れないという体験は同じなのであるが、その解釈が違うから一方は悩み、他方は悩まない。

失敗したときでも同じである。

「長い人生で失敗することはあるさ」と考える人は失敗してもそれほど悩まない。

素直な心なのである。

たとえば欠点を指摘されたとき、素直になれるか?

ところで、そう考えると素直な心でない神経症的要求を持っている人がどれくらい苦しむかは、想像できるのではないだろうか。

「神経症的要求」とは、アメリカで活躍した女性の精神科医、カレン・ホルナイのとなえる概念である。

素直な心でない基本的不安感を持った人が持つ要求である。

非現実的で自己中心的で、努力をしないで復讐的である。

素直な心ではない。

非現実的なこと、自己中心的なことを周囲の人に要求する。

素直な心でない人は、自分は特別な人間であると思っている。

世界は自分に奉仕すべきだと思っている。

こう思っていたら、素直な心でない人は、どれくらい日常生活で腹が立つであろうか。

毎日毎日、腹が立って腹が立って、どうしようもないのではなかろうか。

そして、素直な心ではない。

素直な心でない人は、「自分は特別に注目される資格がある」と思っている。
「自分は特別に他人から考慮される資格がある」と思っている。

素直な心でない彼は現実の彼とは違う”偉大な自分”のイメージを持っている。

その”偉大な自分”にふさわしい扱いを受ける資格があると思っている。

素直な心でない人は、そのように扱われないと不公平だと思っている。

自分に素直な心でないからその考えに至る。

そうなれば素直な心でない人は、人に会えば腹が立つであろう。

素直な心でない人は、朝起きてから夜寝るまで、腹が立つに違いない。

周囲の人は皆けしからん、と思えて当然である。

自分に素直な心でないと相手に敵意が向かう。

大人になって素直な心でない彼の要求をかなえるような人は、世の中にいないからである。

大人になって神経症的要求を持つ素直な心でない人を満足させるのは、ずるい人だけ。

二人で食事中。「その食べ方、おかしいよ」と注意してくれる人が、相手を愛している人。

素直である。

しかし神経症的要求を持つ素直な心でない人は、その言葉が頭にきて、そう言ってくれる人を自分から遠ざけた。

素直な心でない。

だからその素直な心でない人を愛してくれる人が、その人の周囲にはいなくなった。

二人で食事中。「さすが。あなたはステキ、他の人とは違う」と言う人がいた。

神経症的要求を持つ素直な心でない人は、そう言ってくれる人が自分を愛してくれていると思った。

素直な心でない人は、これは触れ合っていない。

「あなたのこの服、ステキよ、あなたはいつもステキね」

そう言われて、神経症的要求を持つ素直な心でない人は、相手を好きになる。

「今日の服は、ちょっとねー。この間の服のほうがいいわねー。あのほうがあなたには似合うわよ」

という素直な意見を言われて、神経症的要求を持つ素直な心でない人は、、傷ついて相手を嫌いになる。

「ゼロか百かの人間関係」はもうたくさん!

素直な心でない情緒的未成熟者は、いったん親しくなると、その人に過大な要求をするようになる。

自分のすることに相手が「かくかくしかじか」に反応してもらいたいという願いを持つ。

素直な心でない人は、その願いも、いつしか要求に変わる。

自分のすることに、つねに相手が、こちらの期待したような反応をすることを要求する。

素直な心でない人のその要求は、たいていはかなえられない。

なぜなら、小さな子どものような要求を、大の大人はいちいち聞いているわけにはいかないから。

そこで素直でない反応をしてしまう。

また普通の大人は、相手からそのような要求をされているとは気がつかない。

素直な心なのである。

ナルシシストも、ときに過大な要求をする。

素直な心でないナルシシストは人が自分のすることに過剰に反応しないと、無視されたような気持ちになる。

ナルシシストも素直な心でない。

素直な心でないナルシシストはそれほどたいしたことではないのに、ものすごいことのように、ほめたり話題にしたりしないと面白くない。

そんなバカげた反応をしている大人は、世の中にいない。

素直な心でない。

つまり、素直な心でないナルシシストの彼の要求はかなえられない。

そこで素直な心でないナルシシストの彼は怒る。

しかしその怒りは意識されないことが多い。

素直な心でないのだ。

つまり怒りの対象は、素直な心でないナルシシストの彼が愛情や注目ややさしさを求めている相手だからである。

愛情を求めている相手に、敵意を抱くことは難しい。

また逆に、素直な心でない自分が敵意を抱いている相手から、自分が愛情を求めることも難しい。

素直な心でない人はそうしようとすれば、敵意は抑圧される。

そこで素直な心になれない。

素直な心でない人はなんとなく気持ちがしっくりいかなくなる。

大人同士の関係が、反抗期の息子と親のような関係になってしまう。

ここでも素直な心になれない。

だからこそ、心理的に成長していない素直な心でない人は、親しい人ができないのである。

素直な心でない人は親しくなると要求が大きくなって、その要求がかなえられないので敵意が生じてくる。

そして素直な心でない人はその敵意を投影するから、いつも「自分は嫌われはしないか」と不安になり、相手にしつこく愛情を確認しようとする。

素直な心でない人は要するに、相手に絡む。

歪んだ絡み方である。

素直な心でない人は相手の愛情を確認できないということが不安と怒りをもたらす。

その怒りが抑圧され、投影される。

つまり、素直な心でない人は「相手が怒りを持っている」と感じる。

素直な解釈ができない。

そして、素直な心でない人は自分が非難されているかのような錯覚に陥る。

甘えの欲求が満たされていない素直な心でない人にとってもっとも重要なことは、”甘えの欲求”を満たすことである。

「素直な心になること」は難しい?

うつ病になるような人は、小さい頃、甘えを「よくないこと」として排斥している。

しかし素直な心でない人の甘えは、心の奥にいつも満たされることを求めて待っている。

そのように甘えの欲求が満たされない素直な心でない人は、「自分の近い人が甘えの欲求を満たすように行動すること」を要求する。

素直な心でない。

殊に素直な心でない人は不安なときにはその要求が激しい。

したがって素直な心でない人は怒りも激しい。

つまり素直な心でない人は「自分が非難されている」という間違った思い込みも激しい。

それだけに素直な心でない人は愛情確認のために、相手に絡むのもしつこい。

素直でない絡み方である。

いつも相手が自分に機嫌よく接していてくれないと耐えられない。

自分に素直になれないと、相手に怒りながら、その怒りを表現することで相手を失う危険が増大する。

したがって、素直な心でない人は直接的に怒りを表現できない。

そこで、言動がとにかく素直でなくなる。

何があっても素直な心で喜べない。

素直な心で「嬉しい」と言えない。

「ありがとう」と言えない。

素直な心で「これがしたい」と言えない。

「私はいいんですけど、でも」と言う。

自分がいいなら、それ以下を言う必要はない。

素直な心でない人は恩着せがましくなる。

もったいぶる。

素直な心でない人は自分のしたことを過大に評価してもらおうとする。

あるいは自分の惨めさを強調する。

しかし、素直な心でないからたいていはどちらも逆効果である。

相手にとってはうるさいものでしかない。

「好かれよう」という気持ちが、素直な心を奪いかえって相手を傷つける!?

神経症的要求を持つ素直な心でない人は、自己中心的な人だから、相手の気持ちを考えない。

自分の言葉が、相手をどれくらい傷つけているかがわからない。

素直な心でない。

相手の気持ちを考える心の姿勢がない。

素直な心でない人は自分の利益のことしか考えていない。

そうした意味では素直な心でない人は欠乏動機でしか動いていない。

欠乏動機で動いている人には二種類の人がいる。

両方とも本当の意味では素直な心でなく自立していないが、出方は違う。

一つのタイプは攻撃的自立をしている人。

本当に自立をしているのではなく、心の底には敵意がある。

素直な心じゃなく突っ張っている人である。

こういう素直な心でない人は人を傷つける。

素直な心でない人は自分勝手な行動をする。

相手のことを考えていない。

「人の世話にはならない」という素直でない心の突っ張りをしている。

とにかく攻撃的自立をしている素直な心でない人は隠された敵意があるから、人を傷つけやすい。

もう一つのタイプは大人になって迎合的性格の人で、自立できていない。

素直な心でない。

欠乏動機で動いているので、人に気に入られようとして動きながら、結果は逆で、その言動が相手を傷つけることがよくある。

好かれようとして嫌われる。

素直な心でなく、不本意である。

その結果、素直な心でない人は相手が自分の思うようにならないので、心の底では不満になる。

素直な心でない人は不満になるから人がついてこない。

人がついてこない。

素直な心のふれあいがない。

つまり迎合する素直な心でない人の周りに質のいい人がいなくなる。

迎合する素直な心でない人は孤立する。

素直な心でない人は孤立して淋しいから、よけいに人に迎合する。

よけいに素直な心で接することができない。

そして迎合する素直な心でない人は気に入られようと無理を重ねる。

迎合する素直な心でない人は悪循環である。

攻撃的自立の人は、自分を守ろうとしているのだが、人を傷つけやすい。
迎合的性格の人も、自分を守ろうとしているのだが、人を傷つけやすい。

両者とも素直な心でない。

※参考文献:無理しない練習 「自分らしく」生きたほうが好かれる 加藤諦三著