羞恥心をあまり感じない人は健康的利己主義

自己実現している人は、人によく思われるためにいろいろなことをやっているわけではなく、自分がやりたいこと、やるべきことをやっているだけである。

「自分は自分であればいい」と思っている

「自分の適性はこうだ」ということでやっているから、失敗しようが心の満足はそれほど違わない。

どうなろうと自己充足している。

ポテンシャルが高くて生産的だから、社会的に失敗しても幸せである。

「障害を乗り越える術というのは、道義うんぬんより、性格とか一貫性とかの問題です。

私たちは困難に打ち勝つことができるのです。

自分がどのような人間であるかに気づき、自分の天性に見合う生き方を選ぶよう心を決めさえすれば」

神経症的非利己主義が非生産的いい人であるとすれば、生産的いい人は健康的利己主義である

神経症的非利己主義とあわせて、いま健康的利己主義と書いたが、内容的にはもちろん利己主義ではない

シーベリーの著作にThe Art of Selfishnessというタイトルの本がある。

これは健康的利己主義の勧めである。

神経症的非利己主義、すなわち羞恥心が強い人の最大の問題は生きるエネルギーを失っていることである。

生きるエネルギーを失えば、最終的には他人のお荷物になるだけである。

「他人への義務は、自分ができる限り生きる歓びに満ちている存在であることによってのみ果たせるのです」

羞恥心が強い人の意識されている動機は非利己主義であるが、隠れたる真の動機は強度の利己主義である。

神経症者は意識と無意識の乖離が深刻である

生産的いい人は、表も裏も自分本位主義であり、意識と無意識の乖離がない。

自分本位主義とは健康的利己主義である。

利己主義という名前が誤解を招くので自分本位主義としたが、同じ意味である。

神経症的非利己主義は、自己疎外であり、自分本位主義は自己充足である。

自分本位主義は自己充足している人で、Positive Noが言える人である。

Positive No が言える人が生産的いい人である。

フロムは、幸せはよく悲しみや苦しみの反対だと思われるがそうではないという

肉体的、心理的に苦しむことは人間的経験の一部である。

悲しみや苦しみは避けることができないという。

シーベリーは「不幸を受け入れる」ということを言っているが、それも言葉は違うが主旨は同じことであろう。

人間として生まれてきた以上、苦しみや悲しみは避けられない。

である以上、不幸を受け入れることしか現実を生きる道はない。

それは人間という矛盾した存在を受け入れるということである。

フロムに言わせればそれは不幸ではない

フロムとシーベリーは、言葉は違うが主旨は同じである。

フロムは幸せの反対は苦しみや悲しみではなくdepression(抑うつ)であるという。

幸せはパーソナリティの問題である。

生産的か非生産的かの問題である。

非生産的な羞恥心の強いパーソナリティは幸せではない。

非生産的なよい人とは残念ながら不幸な人である。

愛する能力が人を生産的にする

自己憎悪は愛する能力を破壊するとカレン・ホルナイは言う

羞恥心が強い人は異性と恋愛関係に入っても、それは自分の心の葛藤を解決するための恋愛だから、愛する能力の発展はない。

恋愛をしても愛する能力を発展させない。

自我をより確立させない。

自我の確立とは能動性、積極性、自発性、独自性の発展である。

愛する能力によって、人と人とを分離している壁を乗り越える。

愛する能力こそポテンシャルである。

自分の潜在的能力を活かす力である。

愛と相関している意志が生産的に働く

「もし人間が人間としての潜在力の実現に努めないならば、人間はそれだけ萎縮し、病気になってしまう」

羞恥心を感じやすい人の理想の自我像は自分に課した過大な期待である。

それを実現できなくて自分に絶望したり、過大な期待に固執して神経症になる。

実現不可能な期待に苦しみ、人生を無駄に生きている羞恥心を感じやすい人は多い。

人の生産的エネルギーを阻害しているのが羞恥心を感じやすいなどの神経症である。

神経症も内には潜在的可能性がある。

開花を待っている潜在的可能性がある

しかしそれが開花されないのは、神経症者の生きる姿勢である。

体面を保つために自分の活動舞台を自分から小さなものに狭める。

羞恥心を感じやすい人は独りよがりの優越感を手に入れようとする。

エネルギーを生産的に使う人、非生産的に使う人

大切なものを奪われたら、潜在的能力の実現に努力しない。

人は自己蔑視をするとすべてのエネルギーを無駄に使う。

自己蔑視すると人は防衛的になり、羞恥心の強い人は傷つかないようにエネルギーを使うようになる。

こういう羞恥心の強い人は人との比較で苦しむ、あるいは虐待に耐えることで苦しむ。

強迫的名声追求する人も無駄な努力で苦しむ

羞恥心の強い人は無意味にエネルギーを消耗する。

だから頑張っても、頑張っても羞恥心の強い人は心の地獄から抜け出せない。

エネルギーにはいろいろな色がある。

愛するためのエネルギー、劣等感からのエネルギー、羞恥心からのエネルギー、復讐のためのエネルギー、幸せになるためのエネルギー、不幸になるためのエネルギー。

人のあら探しをするエネルギーと、前向きのエネルギーとは違う。

人のあら探しをする人もエネルギッシュである。

政治の世界で相手を倒すために使うエネルギーはものすごいと思う。

しかしそのエネルギーは、希望に向けたエネルギーとは違う。

相手を倒すために使うエネルギーは、まさに「消耗」するという言葉が当てはまるのではないか。

しかし何か目的があってそれに向かって頑張っている時にもエネルギーは使う。

疲れるが、それは「消耗」という感じの疲れではない

羞恥心などの消耗という時には何か空しさがつきまとう。

しかし希望を実現するためのエネルギーは、どんなに疲れても「消耗」という語感ではない。

確かに疲れるが、心地よい疲れである。

不安から安心するためのエネルギーと自己実現のためのエネルギーとは色が違う。

後者は人とつながっていく。

前者は人とつながらない。

不安からのエネルギーと自己栄光化のためのエネルギーは色が同じ。

両方とも人に気に入られるためのエネルギーである

羞恥心を強く感じるように自律性を犠牲にした「迎合」では他者とのかかわりがあっても自我感情が生じない。

それは依存的敵対関係にならざるを得ない。

依存している相手と敵対している。

生産的いい人の動機は、相手への愛である。

愛する能力である。

決して愛する相手と敵対していない。

羞恥心を感じやすい人のように「自分のため」が基盤にないと好意が憎しみに変わる

多動性の子を持つ女性と結婚したいという51歳のある男性の相談である。

どうするか?

自分はこの子が好きだし、この女性が好きだから、「自分のために結婚する」ということで、結婚すれば幸せになるだろう。

「相手が可哀想だから」とか非利己主義的な好意で動いている場合には、結婚して苦労している内に好意が憎しみに変わる

格好をつけたいわけだから羞恥心も現れてくるかもしれない。

このままいって十年後どうなるか?

「私はこれだけのことをしたのだから」という不満になる。

不満と満足を分ける軸は何か?

それは「自分のため」である。

羞恥心が強い人のように軟弱な基盤の上に立つと全員が不幸になる。

「いまが良ければよい」ということで行けば、すべての人が不幸になる。

生産的いい人は?

相手から「お願いします」と言われたことをする

相手が自覚して「やって下さい」と言ったときには全力でしてあげる。

こちらからやることは愛の押し売りになることが多い。

羞恥心を感じやすいナルシストがそうである。

非生産的いい人は、わざわざ苦労を背負い込んでいく。

人からいい人と思われたいからである。

行動的であるのは、自分自身から逃げ出すためである。

他人の期待に応えることが美徳なのは、他人への愛を動機として期待に応える時である

羞恥心を感じやすい人が他人の期待に応えることは行動特性である。

行動特性でものごとを判断してはいけない。

羞恥心が強い不安から他人の期待に応えるのか、愛情から他人の期待に応えるのかが性格特性である。

問題は行動特性ではない。性格特性である。

生きるのがつらい人は、世の中のすべての美徳を、自分の心の中で再検討しなければならない。

世の中のすべての美徳は性格特性で判断しなければならない。

行動特性としての美徳は時に全員を地獄に連れて行く

浪人時代、自分の将来に向けて実力をつけているのならよいが、親に気に入られるために、有名大学に入ろうと浪人をしていれば、それは非生産的エネルギーの浪費である。

そして親の喜ぶ大学に入る。

それは青春時代という貴重な時期にせっかくのエネルギーを浪費していることになる。

自分がどうしても好きなことをするために「この大学に入りたい」といって浪人しているなら、それは非生産的ではないだろう。

が、そうでなければ非生産的である。

羞恥心が強い非生産的ということは強迫的な行動である。

そうしまいと思ってもそうしないではいられない。

生産的というのは自発的な行動である

自分の意志でしている。

羞恥心が強いなど非生産的エネルギーの使い方か、生産的エネルギーの使い方か。

それは「自発的努力か、強迫的努力か」である。

活動的と生産的とは違う。

羞恥心を感じやすい彼は活動的であっても生産的ではない。

彼とは種々の非合理的な情熱に動かされている人である。

サディズム、マゾヒズム、羞恥心、羨望、嫉妬などの動機で動いている人である。

生産性は人間の特徴である可能性の実現である

すなわち自分の力の使用ということの実現である。

羞恥心が強い神経症者は自分自身の潜在的可能性を活かすエネルギーを持っていない。

気高く生きている人は生産的な人である。

自分自身の潜在的可能性を活かすエネルギーで生きている。

能力とポテンシャルは違う

能力はあるのだけれどもポテンシャルがない人がいる。

人が自分の力を生産的に用いうる能力が、彼のpotencyである。

自分のできることをしないで、できないことをしようとするのが羞恥心を感じやすいなどの神経症者である。

自分のpotencyがない人である。

羞恥心を感じやすい神経症者はポテンシャルが低い。

自分の潜在的能力を生産的に使えるか使えないかが、生きているか生きていないかの分岐点である。

羞恥心の強い神経症者と心理的健康な人の分岐点である。

支配欲

それは非生産的生き方の証拠。

羞恥心を感じやすい人は自分自身の能力を使おうとしていない。

自分のできることをしない羞恥心を感じやすい人はポテンシャルが低い。

ベラン・ウルフは次のように述べている。

大部分のノイローゼ患者はだんだん悪化する。

彼の新しいエネルギーの出口を見つけやらない限り。

旅行の最初のコースで言葉が分からないか、地図が読めないかして、あるいは道標を見間違えて迷った

道に迷ったと思い、始めのところに戻ろうとしたが戻れないで失望し混乱している。

羞恥心などの神経症が悪化するか悪化しないかは欠乏動機で動いているか、成長動機で動いているかで決まる。

成長動機で動いている時には、自分の潜在的能力を生産的に使っている。

敵意が受け身で表れて、羞恥心や恨みとなる。

すべて非生産的生き方である。

恨みや羞恥心を晴らすことにエネルギーを消費してしまう。

羞恥心を感じやすいなどポテンシャルが低い人は自我が確立していない

ポテンシャルが高い人は自我が確立している

「ポテンシャルが低い」とは自己実現していないことである。

アメリカで集団自殺したカルト集団のヘブンズ・ゲイトの教祖は音楽の才能がありながら、音楽を蔑視する。

そして音楽に集中するよりも牧師になることが価値あると思い込む。

彼にとって音楽をすることが自己実現である。

音楽をすることで彼のポテンシャルが高いと言える。

音楽をするなら彼は生産的構えの人であるが、カルト集団の活動をするから彼は非生産的構えの人になる。

ヘブンズ・ゲイトの教祖としての活動はポテンシャルが低い。

しかしカルト集団で彼は活動的である。

活動的と生産的とは違う

He is active but not productive.

自分のできることをしないで、できないことをしようとするのが羞恥心を感じやすいなどの神経症者である。

だから生きることにストレスが高い。

羞恥心が強いなどの神経症者は自分自身のpotencyがない人。

ポテンシャルが低い人である。

羞恥心を感じやすいなど非生産的活動に共通のタイプは不安に対する反応である。

彼にとって活動とは、自分の自我をより高い何かの名において行為することを意味する。

彼とは権威主義者のことである。

羞恥心など不安からの行動はnot productiveである。

つまり欠乏動機からの活動はnot productiveである

羞恥心など欠乏動機で動いている人はポテンシャルが低い。

自分の潜在的可能性を実現することよりも、羞恥心が強い人は他人に評価されることをしようとする。

パソコンを持っている。しかしパソコンを使いこなす能力はない。

使おうとも思わない。

世に言う宝の持ち腐れ。

鐘は鳴ってこそ鐘であるという格言がある。

「ポテンシャルが低い」ということは鐘があるけど、鐘は鳴っていないということである。

能力とその能力を使う力は違う。

ポテンシャルというのは自分の能力を使う能力のことである

能力は誰にでもある。

しかしポテンシャルは誰にでもあるというわけではない。

ポテンシャルとは心の積極的、能動的、生産的姿勢である。

つまりポテンシャルとは自我の確立のことである。

自我の未確立な羞恥心を感じやすい人などはポテンシャルが低い人である。

青春時代にいろいろなことに挑戦もしないし、恋愛もしない人がいる。

それで社会的に成功する人もいる。

こういう人は社会的にエリート・コースに乗っても羞恥心を感じやすいなど、ポテンシャルが低い人である。

羞恥心を感じやすい人はエネルギーを浪費する

人を批判していても何もならない

羞恥心を感じやすい人は何もトラブルは解決しない。

相手を非難しても相手のやる気をなくすだけである。

ただ非難する羞恥心を感じやすい人がエネルギーを消耗するだけである。

何も生産的なことはない。

エネルギーを何か生産的なことに使える人が生産的いい人である。

そして人はどのようなときに羞恥心を感じるのだろうか。

もちろんそれは自我価値が剥奪されて、傷つき怒っているときである。

羞恥心を感じているときは、ものの見方が限られている。

視野が狭い

羞恥心を感じやすい人はただ何かを要求しているだけの時も何も解決していないし、生きるエネルギーを生産的に使っていない。

例えば悩んでいる人の手紙は要求ばかりである。

自分は何をしたいかを書いていない。

私は穴に落ちてしまいました。

ラインから追われて落ちました。

「私がこんなに恥ずかしい、苦しいのは何が原因でしょうか?」が相談である。

だから解決が行かない。

しかし羞恥心を感じやすい人はたいていは他人のせいにしている。

「何が原因でしょうか?」と相談する羞恥心を感じやすい人は生産的構えを持っている。

「なぜ?」と考えることが、心の葛藤に直面することである

心の葛藤に直面することで人は内面の力と自由を獲得するとロロ・メイは言う。

そして心の葛藤に直面することが生産的ということであり、プロアクティブということである。

プロアクティブとは自分から動くということである。

また逆境をチャレンジと受け取るような人が、プロアクティブであり、生産的である。

逆境のないことが幸せなことではなく、逆境をチャレンジと受け取れることが幸せなことであり、逆境をチャレンジと受け取れないことが不幸である。

解決に集中することがプロアクティブであり、生産的ということである。

それが創造的ということである。

そして生産的とかプロアクティブとかいうことの反対が、防衛的ということである。

羞恥心とか合理化とか責任転嫁とか現実否認とかさまざまな防衛的なことに非生産的いい人は生きるエネルギーを使う。

羞恥心を感じやすい人のエネルギーの使い方を具体的に考えてみたい

一昔前の話である。

東京の渋谷から出ている井の頭線という線がある。

その井の頭線の永福町をいう駅に城西という予備校があった。

それよりもちょっと前には明大前という駅がある。

浪人しているAさんが言うことには「永福町で降りるのがすごくイヤだ」という。

なぜかというと、そこの駅で降りるとき、電車の中のみんなが、おれのことを「この人は浪人だ」という目で見ると言う

彼はそのことで毎日羞恥心を強く感じイヤな思いをして、エネルギーを浪費している。

しかし、井の頭線の永福町というところに、城西という予備校があるということを知っている人が、電車の中に何人いるかと考えたら、ほとんどいないだろう。

ある離婚した人がいる。

その離婚の原因を聞いてみると、次のようなことである。

結婚してしばらくしても子どもができなかったので、調べてもらって、子どもができないことが分かった。

そこで、奥さんが「犬を飼いたい」と言い出した。

すると、ご主人が反対した。

なぜ反対したかというと、犬を飼えば、周りの人たちが、あの夫婦は子どもができないので犬を飼ったと思うだろう。

そう思われるのが羞恥心を強く感じてイヤだというわけである。

奥さんのほうは、自分たちが、子どもができないという厳粛な運命を前にして、「自分たちはいかに生きるべきか」ということを考える時に、なおかつ、「他人が自分をどう見るかという羞恥心の強さ」ということで、行動のし方を決める夫を見て、すっかり夫に失望した。

そこで「離婚しよう」と言った

そうしたら、ご主人はまた反対した。

なぜかというと、離婚したら人がどう思うかという羞恥心を感じたからである。

これらの人たちは毎日人が自分をどう見るかという羞恥心で、悩んで生きるエネルギーを浪費している。

皆いい人である。

しかし皆、羞恥心を強く感じる人であり、生きるのがつらい。

自分の生きるエネルギーを生産的に使おうとすれば、悩みは解決する。

皆、現実の自分に対する関心ではなく、他人が自分をどう思っているかという羞恥心に関心が行っている。

現実の自分に関心があれば、いま、自分のできることをしようと思う

したがって、羞恥心を感じやすい人のように「何をしていいか分からない」とか「何もする気にならない」ということはない。

羞恥心から、いい人と思ってもらおうとして努力しても、たいていはそう思われていない。

せいぜい「利用しやすい人」と思われているだけである。

現実は借金だらけなのだが、スポーツカーに乗ってかっこいいと思っているような若者である。

周りは馬鹿な奴としか思っていない。

また自分は紳士的に振る舞っているつもりでも、人は紳士的と思ってくれている訳ではない。

羞恥心の強いナルシストは水に映った自分の姿にしか関心がない。

朝から橋の上で川の水に映った自分の姿に見とれている

そして何十年も水に映った自分を見とれていて、自分の老いに気が付かない。

生まれてきて自分の人生がそこにあるのに、羞恥心を感じやすい人は自分の人生を生きない。

そこに自分の洋服があるのに、羞恥心を感じやすい人は自分の洋服を着ないで、人の洋服を着る。

何よりもサイズが合わない。

着心地が悪いなどというレベルのものではない。

色も合わない。

そこに自分の靴があるのに、自分の靴をはかないで、他人の靴を履く

靴擦れができて、痛い。

そこで痛い痛いと嘆いているのが羞恥心を感じやすい人である。

それが人の人生を生きている人である。

羞恥心を感じやすい彼の関心は「現実の自分がどうか」ではない。

彼の関心は相手が自分をどう思っているかである。

つまり「現実の自分」より「相手の思っている自分」のほうが大切である。

これが自分の人生がない状態である。

自分の人生の軸がない状態である。

※参考文献:自分の人生を生きられないという病 加藤諦三著