”憎しみのとりこになっては人生が台無し”

自分はだまされていた、利用されていた、おだてられて操作されていた、そんなことがわかった時、能動的な人と受け身の人では反応が違ってくる。

もちろん、どちらも相手を憎らしいと思うし、くやしいと思う。
しかし憎らしさに取りつかれてしまうのは、受け身の人である。

能動的な人は憎らしい、くやしいという気持ちになるよりも、あの人達との付き合いはもう”嫌”だという気持ちになる。

能動的積極的な人は、相手の正体がわかった時、その人と無関係になろうとする。
自分が恋していた男はこんな男だったのか、自分が尊敬していた親はこんな人間だったのか、自分が信じていた友人はこんな人間だったのか、そうわかった時、とにかく無関係になろうとする。

自分はだまされていた・・・そうわかった時が、天国と地獄の分かれ道なのである。

ある花街の女性の話である。

彼女はじぶんの旦那の言うことを信じていた。
彼はいつも彼女にいっていた。
ステテコになって気楽にしていられるのはお前の前だけだ、と。

彼女は、彼が自分と一緒にいる時が一番自由な気持ちでいられることを喜んでいた。
夏になってステテコ姿で家の中をウロウロするのを見るたびに、彼女は誇らしくさえなった。
彼にはここが一番気楽なんだと思うと、彼をもっと大切にしようとした。

「お前の前だけ・・・」この言葉を支えに、彼女は生きてきたのである。

そして夏のある日、彼と外で会う約束をした。
彼は約束の時間に遅れた。
なかなか来ないので、ふと彼の家へ行ってみる気になった。

彼の家の窓にはスダレがかかっていた。
彼女はついついスダレを通して家の中をのぞいてしまった。
するとそこに、自分のところにいる時と同じステテコ姿の彼がいたのである。

彼女は一瞬、血がさっと引くのを感じた。
死のうと思った。
そして、彼を殺そうと思った。
この種の話はいくらでもあろう。

自分が体を売って作ったお金で、彼に貢いだ。

彼が事業に失敗し、何もかもなくなってしまったといったからだ。
十年間、自分の青春を彼に捧げた。
しかし、ある時、彼は事業に失敗するどころか、大変な隠し財産をもっていることがわかった。

自分の人生で最も楽しい大切な十年間を犠牲にして彼に貢いだと思うと、彼女は憎しみのとりこになった。

同じことが子供にも言える。
自分の親が、自分の人生をおもちゃにしていることがわかった時、子供は憎しみにとらわれる。

だが、考えてみれば、恋人や親の言うことを信じてしまったのは、彼らに対して依存心があったからである。
そして、その人間への依存心をこくふくできないでいるから、憎しみにとらわれて、一生を復讐に費やしてしまうのだ。

それこそ、残りの人生まで、そんなくだらない人間にメチャメチャにされてしまうのである。

その人が温かそうな声を出していたのを、温かいと信じていたのは、自分に依存心があったからである。

自分に自律性が備わっていればその温かい”ふり”をしたそぶりや声の調子に、冷酷なものを感じて”ゾッ”としたはずである。

問題は、自分が成長して”ゾッ”とした時である。
今まで自分が払ってきた犠牲を思うと、気持ちはどうしても復讐にかたむいていく。

初めて会った人間に”ゾッ”とする冷たさを感じたら、それ以降はその人を避けるようになる。
しかし、今まで自分の人生のすべてをささげてきた人間と、そう簡単に別れられるものではない。

しかし、それでもやはり、ここは天国と地獄の分かれ道なのである。

そして、能動性が身についていればいるほど、こらえきれない悔しさからの復讐ではなく、相手とは無関係の道を選ぶのではなかろうか。

なぜなら、能動的であればあるほど、相手の汚さに耐えられないからである。

※参考文献:自分を嫌うな 加藤諦三著