自分を失って生きづらくなる

臆病者はみんなから嫌われないように努力している。

その無理な努力では、臆病者はさびしいということは決して避けられていない。

臆病者は意識のうえで避けられていると思っているが、本当は避けられない。

みんなに嫌われないようにしていても、臆病者は心の底ではさびしいと感じている。

臆病者は嫌いな人といても楽しくはないし、仲間といるという感覚もない。

臆病者は嫌いな人といっしょにいれば、実は無理な努力をしているから安らぎはない。

臆病者は心もふれていない。

「いっしょにいればさびしくないから」という「メリットと思っていることは、実はデメリットである」ということの意味は大きい。

つまりデメリットは自分の本当の感情を失っていくということである。

臆病者は一人でいるのがさびしいから無理をして人間関係を維持していても、どんどん自分がなくなっていく。

このデメリットは計り知れないほど大きい。

長期的に見れば、自分を失っていくというデメリットをメリットと勘違いしているのだと、「嫌われたくない症候群」の臆病者はハッキリと認識しないといけない。

臆病者はこれを肝に銘じていないから、年月を重ねるにしたがってどんどんと生きづらくなっていくのである。

臆病者はたとえば憂鬱になるとか、イライラするとか、体調を崩すとかいろいろと症状が出てくる。

「生きることに行き詰ったときには逆が正しい」とは、アメリカの心理学者フィットテイカーの言葉である。

もちろんフィットテイカーは「生きることに行き詰った」と言っているのではなくデッド・エンドという言葉を使っていた。

「生きることに行き詰まった人」が、やさしい人と思っている人はじつは冷たい人であり、誠実な人と思っていた人は不誠実な人であり、質の悪い人と思っていた人は質のよい人である。

それと同じで、生きることに行き詰まったときには、それまでメリットと思っていたことは、じつはデメリットなのである。

もし臆病者のあなたが質のよい人と思っている人が、ほんとうに質のよい人であり、メリットがほんとうにメリットなら、生きることがつらくてどうにもならなくなるということはない。

臆病者が生きることに疲れてしまうのはどこかでこの勘違いがある。

臆病者がだいたい生きることが行き詰まる場合は一気に行き詰まることは少ない。

臆病者はだんだんと生きづらくなっていく。

臆病者はしだいに消耗していく。

臆病者はだんだんと生きるのが嫌になっていく。

臆病者は気がついたときには無気力になっている。

臆病者は気がついたらデッド・エンドに来ている。

それは臆病者がこのデメリットをメリットと思ってしまうようなことを日々繰り返しているからである。

臆病者はだんだんと「なんだかわからないけれども、いろいろなことがうまくいかなくなっていく」と感じる。

臆病者は短い期間で考えて都合のよいことは、長期で考えると望ましくないことが多い。

対立を恐れる臆病者は自立していない人

「流れる」と「動く」とは違う。

嫌われるのが怖くて自立できない臆病者は、「流されている」のに「動いている」と錯覚するときがある。

自立していない臆病者は、他人と対立したときに対処する道具を持っていない。

臆病者は対立を恐れているから、自分がいまどこへ流れていっているかを知らない。

水が流れている。

勢いに飲まれれば、どこへ流されるか分からない。

自立していない臆病者は、目先のことしか考えない。

臆病者は対決できない。

臆病者はトラブルが起きたときに、対決するということは解決するということなのに、その対決を恐れている。

自立していない臆病者にとって、対立とか、対決とかはものすごいエネルギーを消耗する。

臆病者は対立の場面や対決の場面では必死になって不安な緊張をして、エネルギーを消耗し尽くす。

臆病者は話し合ったあとはへとへとになっている。

臆病者は心身共に消耗し尽している。

臆病者は下痢をする。

臆病者は嘔吐する。

臆病者は何かもの悲しくて落ち込んでいる。

臆病者はときには対決する前から息苦しくなっている。

それは臆病者が小さいころから対決を恐れて生きてきているからである。

うつ病になるような人は、小さい頃家族にとって何か悪いことが起きるとすべて「おまえが悪い」と責められて育ってきたことが多い。

兄弟の失敗までも、その子の責任にされる。

家族にとってその臆病者の子がいることは都合がよい。

こうして育てられた臆病者の子どもは、大人になっても失敗やトラブルを恐れる。

育ってきた人間環境を考えれば、いつもビクビクしているのはわかる。

うつ病になるような人が争いや対立などを極端に恐れるのは当然である。

その恐怖感は恵まれた人間環境で育った人にはなかなか理解できない。

対決を恐れないで生きていれば、ある日ふと「強くなったなあ」と感じることがある。

人はいきなり強くなるということはない。

いきなり嫌われるのが怖くなくなるということはない。

しかしつらくても戦っていれば、しだいに嫌われるのが怖くなくなる日が来る。

「あれほど嫌われるのが怖かったのに」と驚く日が必ず来る。

それを信じて戦うことである。

臆病者は嫌われるのが怖くて、相手に気に入られようと努力しても、対立することがなんとなく不安だという気持ちが消えるわけではない。

それがフロムの言う「服従」の最大の問題点である。

つまり服従によって臆病者は不安はなくならない。

相手に服従することで人間関係を維持しようとする臆病者はいつか破滅する。

支配・服従の関係にあるものは基本的に不安である。

臆病者はそんなに相手に服従していても見捨てられる不安から免れるわけではない。

臆病者の相手に対する怯えた態度は心の底の見捨てられる不安が現れたものである。

迎合した臆病者はいつも怯えている。

相手が上司であれ、親であれ、友人であれ、配偶者であれ、恋人であれ同じことである。

臆病者は自分が心理的に依存する者に人は怯える。

対立が怖い臆病者は相手の意見に反対でも反対と言えない。

臆病者は反対して嫌われたり、見捨てられることが怖いからである。

相手の態度が不愉快でも臆病者は「やめてくれ」とは言えない。

臆病者はそう言って嫌われたり、見捨てられることが怖いからである。

しかし臆病者は折れていても自分の不愉快さが消えてなくなるわけではない。

臆病者はそれが不機嫌である。

社会的には立派な紳士で、家でいつも不機嫌な臆病者は多い。

「嫌われたくない症候群」の臆病者は、表面的に見ると社会性があるように見える。

しかしその正体は決して社会性がある人ではない。

臆病者の彼らは相手に嫌われることが怖いから、不本意ながらも相手の言いなり動いてしまうだけである。

臆病者が「したくないこと」をしてしまうのも、そうしないと相手から嫌われることが怖いからである。

そして臆病者はずるずると相手の言いなりになっていってしまう。

臆病者は言いなりになりつつも心の底では不愉快でたまらない。

臆病者はなんとなく気が乗らないままずるずると相手に振りまわされてしまうのも、相手から嫌われることが怖いからである。

臆病者は対立することが怖いからである。

自分が自分を信頼していれば、対立を恐れたり、相手から嫌われることを恐れて気のすすまないまま相手の言いなりになってしまうということはない。

だからこそ自分を信頼している人どうしのあいだには、真の親密さが生まれる。

臆病者は「小さな不満」が大きくふくらむ

一人でいることは孤独ではない。

孤独な臆病者は、「その場がよければいい」と感じている人である。

そして何よりも臆病者は「好かれたい」が先に来る。

自立している人は違う。

情緒的に成熟した人は一人でいても安心できる。

情緒的に成熟していない臆病者は、一人でいると安心できない。

しかし同時に臆病者は人と一緒にいても居心地が悪い。

小さい頃信頼できる人がいて、その人と一緒にいて安心して眠れる。

そうした安心のときを経て、人は情緒的に成熟した人になれる。

情緒的に成熟してはじめて、今度は一人で安心できるようになる。

情緒的に成熟していない臆病者は、一人でいても居心地が悪いし、人と一緒にいても居心地が悪い。

一人でいると「さびしい」というが、一人であっても自立している人は自立している。

「嫌われたくない症候群」の臆病者はなぜ嫌われるのを恐れて無理をするのか?

それは相手が自分を認めていないからである。

そして、その相手が認めないということが「嫌われたくない症候群」の臆病者にとっては重大なことなのである。

臆病者の彼らはほんとうに自立していないのに自立しているフリをする。

臆病者は偽りの自己で自立していると本人も思っていることがある。

しかし、臆病者はやはりさびしいから人に絡む。

本当に自立している人はさびしくても人に絡まない。

世間を気にする臆病者は自立していない。

人は心の葛藤から不安になり、その不安が自立を妨げる。

親しいからケンカをしないときと、親しくないからケンカをしないときとある。

ケンカすることがないというのは、ときには友達ではないということである。

人は神様でないから、慣れ親しめば不満は出る。

トラブルは起きる。

そのトラブルを解決することで、いままでよりもいっそう親しくなる。

トラブルはコミュニケーションで「あなたの真実を見せて下さい」と叫んでいるのと同じである。

ケンカはある出来事の解釈の違いから起きる。

おそらく両方が正しい。

外国人との結婚を考えればわかる。

文化がちがうから、トラブルになってもどちらが悪いというわけではない。

正しいことと正しいこととの矛盾である。

正面からぶつかったときには両方に言い分はある。

トラブルの解決において大切なのは頭の理解ではなく、感情の納得である。

頭の理解は危機が去るとふたたび腹が立つ。

臆病者は「臭いものには蓋」では親しくなれない。

嫌われるのが怖い臆病者は、よく見て見ぬフリをする。

でも臆病者は知っている。

臆病者のそういうつきあいは長続きしない。

たとえば学生時代にそのように無理な努力をして友達として付き合っていても、それでは卒業と同時にその友情は終わりになる。

卒業してから会わない。

「一番淋しいのは離婚を決意してその後、同じ屋根の下で生活することである」とある本に書いてあったが、そのとおりである。

なぜこうなるのか。

それは時間の経過とともに自分の小さな不満がどんどん大きく膨らんでくるからである。

小さな不満のたびに「おもしろくない」「こうしてくれ」という会話が言えていれば、離婚には発展しない。

ふれることができない関係、遠慮の関係はこうした小さな感情、細やかな感情に目がいかない。

臆病者の不幸な人と不幸な人の関係においてはお互いが同情的になる。

そして臆病者はお互いに感情の表現をしない。

言いづらいことを言うくらいなら、不本意ながらも自分自身が犠牲になることを選ぶという臆病者の妻や夫がいる。

臆病者の妻は内心で怒りながらも、いつも夫の怒りを恐れている。

もちろん逆もある。

臆病者は内心では怒っているのに、実際に相手の前に出ると心ならずも「はい、はい」と言ってしまう。

臆病者の妻は夫と表面上うまくやっていくために夫の言う事に従順になる。

世の中には何でもいいから「はい、はい」と言っていればいいという臆病者の妻もいる。

「はい、はい」と言っている方が簡単で、いざこざは少ない。

しかしこのような関係が長く続くと、お互いに心が通じ合わなくなる。

表面うまくいっているようであるが、夫婦関係そのものに意味がなくなる。

お互いに一緒にいても楽しくなくなる。

友人どうしであろうと夫婦であろうと親子であろうと、言いたいことが言えて初めてその関係が意味を持つ。

それは本質的には仕事の関係でも同じである。

お互いに言いたいことが言えないで続いている関係では、仕事でもそれほど長いことうまくはいかない。

またその仕事が終われば、それでその関係はおしまいである。

信頼しているからケンカするのだということが「嫌われたくない症候群」の臆病者には理解できない。

臆病者は虐待されても「孤立と追放」を恐れる

臆病者は嫌われるのがなぜそんなに怖いのか?

それは人が「孤立と追放」をおそれているからである。

フロムは人がもっとも恐れるのは「孤立と追放」であると言うが、そのとおりだろう。

一人でいることが怖ければ、臆病者の子どもは嫌いな人とでも遊ぶ。

大人でも、孤独が嫌なら臆病者は嫌いな人のパーティでも出かける。

人は「孤立と追放」が恐ろしいから、とにかく嫌われたくない。

嫌われることは「孤立と追放」につながる可能性があるから。

しかし臆病者は嫌われたくないから「実際の自分」を偽っていると、しだいに自分が自分を嫌いになる。

臆病者は仲間も嫌いになる。

臆病者は「実際の自分」を偽っていると、最後には自分も仲間も嫌いになる。

「嫌いなら別れればいいだろう」と思う人もいるだろうが、臆病者は嫌いでもくっついているほうを選ぶことが多い。

臆病者の小さな子どもでも一人で遊ぶよりも嫌いな子と一緒に遊ぶほうを選ぶ。

臆病者は最後にはお互いにボロボロになる。

さきに書いたように、フロムは人がもっとも恐れるのは「孤立と追放」だと言う。

人間が正気であるためには、人とかかわりあいを持たなければならない、それは性や生命への欲望にもまして強いものであるとフロムは言う。

集団は個人にとっては本質的な重要性を持っている。

虐待される子どもには虐待する親しかいないから、虐待されても親にしがみついている。

「孤立と追放」よりもまだ虐待されるほうがよい。

多くの場合、情緒的に子どもを虐待する親には、虐待される子どもしかいないから、虐待しながらも子どもにしがみついている。

こういう臆病者の親は職場などに親しい友達はいない。

虐待などの危機階層ではなく平穏な階層でも「孤立と追放」を恐れるから、臆病者はみな同じことをする。

臆病者は職場でも同調型となり、孤立するリスクを避ける。

しかし、すべての人が同じように「孤立と追放」を恐れるわけではない。

「孤立と追放」をもっとも恐れるのは、愛情飢餓感の強い臆病者である。

愛情欲求が満たされていれば、それほど「孤立と追放」は恐ろしくはない。

臆病者は愛情飢餓感から「孤立と追放」を恐れて、自分を見失うほど人に迎合する。

臆病者は自分がないから「孤立と追放」が怖い。

臆病者は悪循環していく。

臆病者は一人では生きられないから「孤立と追放」を恐れる。

臆病者は一人では生きられないから嫌われるのは怖い。

臆病者は「孤立と追放」の恐怖と嫌われるのは怖い気持ちが悪循環していく。

自分の力に頼って生きていかれれば、嫌われるのは怖くない。

少なくとも自分を見失うほどまでに、嫌われることを恐れない。

敵意に満ちた人間環境

臆病者が嫌われるのが怖いのは、すでに述べたごとく「孤立と追放」を恐れているからである。

そしてさらにもう一つある。

「嫌われたくない症候群」の臆病者にとっては周囲の世界が敵なのである。

「嫌われたくない症候群」の臆病者にとって周囲の世界は敵意に満ちている。

敵意に満ちた世界に身を置けば、誰だって周囲の世界が怖いのは当たり前である。

では、なぜそうなってしまうのか?

自分がない臆病者は、人から好かれることで自分という存在を感じる。

自分で自分の価値を認めることができない臆病者は、人に好かれることで自分の価値を感じる。

臆病者はそこで嫌われたくないから「実際の自分」を偽る。

そして臆病者は「こうしたら人に気に入られるのではないか」ということについて誤解がある。

臆病者は人に気に入られるために、いま持つべき感情があると思っている。

そのために、臆病者はそれと矛盾する感情を抑圧する。

臆病者は相手の好意が欲しいから、好きでないものを「好き」と言う。

臆病者は嬉しくないことを「わぁ、嬉しい」と言う。

臆病者は相手に気に入られたいから、「したいこと」を「したくない」と言う。

臆病者はそして「したいこと」なのに「しない」と言う。

臆病者はそうして無理をしているあいだに日々怒りが心の底に堆積していく。

臆病者の本人はそれに気がつかないが、それは敵意となり憎しみとなっていく。

そして臆病者はお互いに憎しみで絡み合う。

孤独を恐れて実際の感情を偽ることの恐ろしさである。

臆病者の彼らはその敵意を外化する。

つまり臆病者は自分の心の中に敵意があるのに、周囲の人が自分に敵意があると感じる。

自分の心の中にあるものを周囲の人のなかに見ることを外化という。

周囲の人が自分に敵意があると思ったら、臆病者は嫌われるのは怖い。

「嫌われたくない症候群」の臆病者は、自分の小さいころをふりかえってみてほしい。

やさしい人間環境のなかで成長しただろうか?

おそらく違うはずである。

たとえば自分は「嫌われたくない症候群」であると思ったら、小さい頃、家の人や仲間によくからかわれなかっただろうか?

からかいや冷やかしは敵意である。

「嫌われたくない症候群」の臆病者は、そうした隠された敵意に満ちた人間環境のなかで成長したのである。

相手を冷かしておいてよく、「冗談、冗談」と言う人がいる。

そういう人は敵意を持っている。

正面から敵意を示す人のほうがよほどいい。

冷かしておいて、敵意を否定する。

それはずるい人である。

「嫌われたくない症候群」の臆病者は小さいころから知らず知らずのうちに、敵意に満ちた人間環境のなかで、心に深い傷を負っているのである。

臆病者は自分の気持ちがわからなくなる

マクギニスというカウンセラーの本に「汝自身を人に示せ、そうすれば汝自身を知るだろう」と書かれていた。

そう言われても人はなかなか自分を人に示せるものではない。

臆病者は人に嫌われるのが怖いから、ほんとうの自分を示すことが怖い。

われわれが人に会うとき仮面をつけるもっとも深刻な理由は、拒否されることを恐れるからであるとマクギニスは言っている。

彼の言葉を待つまでもなく、われわれはみなそれを知っている。

嫌われることや、拒否されることを恐れて自分を隠していると、たしかにほんとうの自分がどんな自分であるか自分にもわからなくなる。

嫌われることや拒否されることを恐れて、相手の意向に従順であるときには、臆病者は相手に対して自分がどんな感情を持っているか本人にもわからなくなっている。

そして臆病者は嫌われるのが怖くて、相手に合わせて従順な日々を送るなかで毎日少しずつ相手に対して敵意が蓄積されていく。

ふつうは相手を好きだから拒否されることを恐れる。

相手を好きだから嫌われることを恐れる。

しかし「嫌われたくない症候群」の臆病者は、そうではない。

嫌われることを恐れているからといって相手を好きだとはかぎらない。

好意を持っているならその人といるときほんとうの自分とふれあい、気が楽に過ごせるはずである。

拒否されることや嫌われることを恐れている臆病者は、他人と一緒にいても居心地が悪い。

なんとなくその人といると疲れるというのは、やはり自分が気がついていない何かが臆病者な自分の心の中にあるか、あるいは相手が何か心に問題を抱えているからである。

臆病者は他人への敵意が自分に向けられる

臆病者はその人が好きなつもりなのだけれども、どこかその人の前で居心地が悪い。

臆病者はその人と関係を持つことになんとなく居心地の悪さを感じる。

臆病者はその人と一緒にいると気楽にできない。

臆病者は好きなつもりだけれどもその人が怖い。

臆病者は好きなつもりだけれども、その人と視線を合わせるのが難しい。

臆病者は心のどこかでその人を避けている。

臆病者はその人の前でぎこちなさを感じる。

臆病者はその人に話しかけられるのが嬉しいのだけれども、心のどこかで話しかけられるのを避けている。

臆病者はその人に自分をさらけ出しても安心だという感じがしない。

私たちは、他人から自分を隠しおおせても、それを続ければ最後には真の自己との接触を失う。

それゆえに、生きることの喜びも同時に失うのである。

そして嫌われることの恐怖がなくなると、この敵意が表面に現われる。

従順な部下と上司が、やがてうまくいかなくなるというのもこのためだろう。

従順な部下は自分の心の底にある真の感情に気がついていないのである。

従順に上司に仕えているとき、まさか自分はこの上司に敵意など持っているということは想像できない。

しかし過度の従順は敵意の反動形成ということもある。

私たちはさまざまな感情を自分が感じることを禁じている。

そして自分が実際に感じている感情を意識することを拒否することで、自分が自分を嫌いになる。

しかし逆に私たちは禁じられた感情を体験することで、自分が自分を好きになることができる。

自分が感じている敵意を自分に禁じることで、その敵意は相手ではなく自分に向けられる。

それがいじめの恐ろしさである。

いじめられる臆病者な人間は何も悪いことをしていないのに、罪悪感を持ってしまう。

いじめられた臆病者は、相手に向けるべき敵意を自分に向けてしまうからである。

ある子が障害のためにいじめられた。

クラスの男の子たちに避けられ、バカにされ、校庭では石を投げられ、ひどいときにはバットで殴られ三日間も入院した。

当然、敵意を持ってよい。

しかし臆病者の彼女は、自分はこの世に生きる資格がないのではないかと感じた。

臆病者は自分は存在してはいけない人間であると自分に罪悪感を持った。

臆病者は相手に敵意を持たなければ、自分に攻撃性が向いてしまう。

臆病者はそれが何より生きることを恐ろしくしてしまう。

臆病者はそれは生きることの意味を奪う。

臆病者はそれは生きることを辛いものにしてしまう。

臆病者はそれはその人を不安にする。

それゆえにこそまたその臆病者は、だれか自分の周りの人にすがりつかなければならなくなる。

臆病者はさらにそのすがりつく人への気持ちを隠さなければならなくなる。

臆病者はこれが悪循環となり、人は生気を失っていく。

臆病者は嫌われるのが怖くて、自分を偽ってその人に気に入られようとすれば、ほとんど必ずといっていいほど、その人への憎しみを持つようになる。

臆病者は少しずつ気がつかないうちに、心の底にものすごい敵意が蓄積されることになる。

カレン・ホルナイが言うように、臆病者の神経症者は自分に頼って生きていくことが出来ない。

臆病者の神経症者はわけもなく他人から好かれることを求める。

逆に臆病者は他人が自分を嫌っているのではないか、他人に愛してもらえないのではないか、他人に受け入れてもらえないのではないかと恐れている。

臆病者はそれは一つには自分の心の底に自分が認めていない敵意があるからである。

臆病者は他人が嫌いだから、わけもなく他人から嫌われることを恐れているのである。

また神経症的な臆病者は自分の欠点を非難するだけでなく、自分自身を非難するというのも同じ理由による。

臆病者の彼らはたえず他人に好印象を与えないと、人に見下されるのではないかと恐れる。

人に見下されることを恐れている臆病者は、その人自身が心のどこかで人を見下してやろうと思っているからである。

臆病者は自分のなかにある「人を見下そうという感情」が抑圧される。

そして臆病者はその抑圧された感情が他人に投影される。

自分を他人によく見せようとすること以外に人生の目標がないような臆病者は、おそらく心の底に禁じられた敵意が渦巻いているにちがいない。

臆病者は敵意を抑圧するから不安になり、さらに自信を失う。

臆病者は自信を失うから、嫌われるのがよけい怖くなる。

臆病者は他人に好かれないと不安になる。

そして臆病者は他人に好かれようとして、自分の心の中の敵意を抑圧する。

このような悪循環のなかで、臆病者は生きることがどうもうまくいかなくなる。

満たされていない基本的欲求

「嫌われたくない症候群」の臆病者は、人が嫌い。

「嫌われたくない症候群」の臆病者は、相手に「ノー」と言えない。

臆病者は嫌いな人にも、いい顔をしている。

臆病者はだからいよいよ人が好きでなくなる。

臆病者は最後には自分も仲間も嫌いになる。

臆病者はとにかく人が嫌いだし、人が怖い。

臆病者は嫌われるのは怖いから何でも相手の言うことを聞いてしまう。

臆病者はだから、いよいよ人が怖くなるし、いよいよ嫌いになる。

悪循環である。

「嫌われたくない症候群」の心理的特徴は基本的欲求が満たされていないということである。

カレン・ホルナイは、神経症者は他人の注意を求めて、嫌われることを恐れると言う。

しかしその人と一緒にいることを楽しめない。

神経症者は人に好かれることが異常なほど重要になってしまい、好かれることに自分の存在価値がかかってしまっている。

マズローは動機を欠乏動機と成長動機に分けた。

マズローによると欠乏動機は、それが満たされないと健康を害するもの。

その欲求は基本的なもので、人が健康のために満たさなければならない、主体以外の人間によって外部から満たされなければならない。

欠乏動機の臆病者は、人から嫌われたくない。

欠乏動機とは簡単にいえば基本的欲求が満たされていない臆病者の動機である。

「嫌われたくない症候群」の臆病者は、明るいフリや朗らかなフリをするが、本当に楽しいとか愉快だとか感じることはない。

したがって「嫌われたくない症候群」の臆病者は、まず自分はさびしいのだということを意識すること、そして次に自分は周囲の人に敵意があり、周囲の人が嫌いなのだということを意識することである。

そして「フリ」をやめる。

※参考文献:だれにでも「いい顔」をしてしまう人 加藤諦三著