自分に自信がない人が自信をつけるための心理

自分に自信がない人の感情について、”空虚と必要”ということがある。

自分に自信がない人の性格として、いつもでてくるものの一つが仕事熱心である。

自分に自信がない人はしかし、実はこの仕事熱心は、本当に仕事が好きで仕事熱心なのではないと思っている。

自分に自信がない人はつまり、自分の内的空虚の防衛として、仕事熱心なのである。

自分に自信がない人は仕事に熱中することで自分の内的空虚感から眼をそらそうとする。

自分に自信がない人はそれが彼らの仕事熱心であろう。

自分に自信がない人はしたがって熱心といっても、その仕事に情熱があるわけではない。

自分に自信がない人は何か不安にかられるようにして熱心なのである。

自分に自信がない人は仕事中毒などというのはそうである。

仕事そのものが好きで仕事をしている人は、同時に余暇も楽しむ。

自分に自信がない人は仕事熱心ではあるが、仕事以外に趣味がない。

自分に自信がない人はそれは、趣味は、内面の空虚感から自分の眼をそむけさせてくれないからである。

自分に自信がない人はしたがって趣味さえもが、それをする時は、しなければならないものとなる。

趣味などというのは、必要があってやるわけではない。

しかし自分に自信がない彼らにとっては、必要なものとならなければ何もできないのである。

自分に自信がない人はそこには趣味をもったほうがいいから趣味をもつ、という姿勢がある。

自分に自信がない人はそうなれば趣味もまた、自分の内面の空虚感からの避難場所になる。

自分に自信がない人の対人態度の特徴として、他者との関係を円満にしようとする過度の配慮ということが言われる。

自分に自信がない人は八方美人で誰にもいい顔をする。

自分に自信がない人はそれは他人に嫌われるのが恐いからであろうが、それだけでは説明がつかない。

自分に自信がない人は問題は、なぜ他人に嫌われるのがそんなに恐いのか、ということである。

普通の人だって他人に嫌われるのが嬉しいわけではない。

誰だっていやである。

つまり、自信がない人にとって、他人に嫌われたくないということのプライオリティーがなぜ普通の人にくらべてそんなに高いのか、ということである。

普通の人は、自分を偽ってまで他人に好かれようとはしない。

自分に自信がない人はそれは、おそらく彼らの心の底にある孤立感からではなかろうか。

自分に自信がない人は他人との関係を円満にしておかないと、自分の内面の孤立感を意識するところにおいこまれてしまう。

自分に自信がない人は自分を傷つけて八方美人になるのは、自分の内面の孤立感から眼をそむけるためであろう。

他人と心のふれあいを感じた人は、八方美人になったりはしないであろう。

八方美人になる必要がないからである。

自信がない彼らは他人との関係を円満にしようとする過度の努力によって、自分の中の孤立感を自分に隠そうとしているのである。

”逆立ち”して人生を生きてきた自分に自信がない人たちの共通点

孤立感と空虚感は一つのものの表と裏であろう。

そして、自分に自信がない彼らは孤立感と空虚感にかられて何かに熱中しようとする。

孤立感や空虚感は焦慮感を生むであろう。

自分に自信がない人は何かをしていないと自分がなくなってしまうような焦慮感にかられて仕事にはげみ、対人関係に消耗する。

もし自分に自信がない人が努力しても努力しても心の安定を得られないとすれば、自分はこの努力によって自分の中の何を隠蔽しようとしているのか、ということを反省する必要があろう。

自分に自信がない人はその反省ぬきに努力を続けても、焦慮感は強まりこそすれ、なくなることはない。

自分に自信がない人は、自分の立っている足場がくずれ落ちるような不安を隠しながら、仕事と対人関係でいい顔をし続けているのであろう。

私たちの前にある選択は、自分の内面の空虚感や孤立感からにげるのか、あるいはそれに立ち向かっていくのか、という選択である。

そして逃げた自分に自信がない人はさまざまな心理的病におちいっていくしかないのである。

自分に自信がない人は、この選択をたいていまちがえる。

まちがってはならない自分に自信がない人が、まちがってしまうのである。

心のふれあいをもった者にとっては、八方美人になることによって得られる満足は、その犠牲より少ない。

自分に自信がない人は八方美人になることによって、心の満足は得られない。

自分に自信がない人はだとすれば、あえてそんなことをする必要はない。

自分に自信がない人はしかし、自分の孤立感を自分に隠そうとしている人は、八方美人になることによってそれを隠すことに成功する。

自分に自信がない人はつまり得られるものがある。

自分に自信がない人はだから選択を間違える。

しかし自分に自信がない人は孤立感は残る。

自分に自信がない人の性格というと、何かその人の本来の性格のように見えるが、違う。

自分に自信がない人は仕事の勤勉さ、過度の義務感と責任感、八方美人、それらはその人が自分の内面の空虚感や不安感からにげるための手段として使っているだけである。

自分に自信がない人はそのように振舞うことによって、自分の内面の孤立感から眼をそむけていられる、ということにすぎない。

その人が他人との心のふれあいをもち、生きている喜びを経験したなら、まったく新しい性格になるのではなかろうか。

自分に自信がない人はそれは、不安から眼をそむけるための手段としての振る舞いではなく、本来のその人の性格になる。

空虚感や孤立感に対する反応としての自信がない人は、空虚感や孤立感がなくなることによって当然消滅する。

しかし残念ならが、せっかく生まれてきたのに本来の自分の性格で生きることなく人生を終える人もいる。

そして、本来の自分を発見することなく生きている自信がない人は、規範意識が過剰である。

自分に自信がない人は「何かをしたい」という欲求が稀薄で、「何かをしなければ」という規範意識が強い。

このような自分に自信がない人は、規範がさきにきてしまう。

しかし、もしその自分に自信がない人が本来の自分を発見していくことができれば、自然と「どうすべきか」ということはわかってくるのである。

自分の本性、自分の深層の願望に気がついてくるにしたがって、おのずからどうすべきかということはわかってくる。

自分に自信がない人は欲求と規範とが逆立ちしているのが内面の空虚な人なのであろう。

欲求と規範、事実と当為、それらはある視点からすると対立しているが、自分に何も隠していない人がどう生きたらよいのか、と考える時はそれほど対立したものではない。

欲求の中に規範があり、規範の中に欲求がある。

どう生きるべきかの選択で、わからないという自分に自信がない人は、それまで逆立ちして生きてきた人なのである。

自分に自信がない人は、”心の闇”を知れば、これからの道が見えてくる

マズローが、心理療法として「事実性を通じて当為性を探究するように導く」と言っているが、まさにその通りである。

自分に自信がない人は、「何をすべき」という規範意識が過剰なわりには優柔不断である。

自分に自信がない人はそれは逆立ちしているからであろう。

自分に関する事実を発見することを通じて、はじめて自分はどうすべきかがわかる。

自分に自信がない人は本来の自分の願望を抑圧したうえで、いかに生きるべきかということを探究するから、わからなくなるのである。

自分の本性を発見することは、同時に自分はどうすべきかという当為の発見でもある。

その人らしく生きている人は、そんなにどう生きるべきかと悩むことはない。

私自身、どう生きるべきかについて悩みに悩んだ時期がある。

今から考えると、やはり逆立ちしていた。

どう生きるべきか、ということの探究が先行していたから、結局、迷うだけ迷いながらどう生きたらよいのかわからなかったのである。

ありのままの自分を探究しようとしていれば、その結果として、どう生きるべきかがわかったのであろうと思う。

私自身、人間はどう生きるべきか悩んだのは、ありのままの自分がわからず、自分の内面が空虚であったからであろう。

自分の内面の空虚さから逃げようとして、どんなにいかに生きるべきかを探究しても、それはすべて徒労にすぎない。

ところが自分についての事実の発見につとめれば、どう生きるかという価値はおのずと発見できる。

自分の発見とはどういうことであろうか。

たとえばこの場合で言えば、自分の内面の空虚さから逃げるのではなく、それに立ち向かうことである。

自分に自信がない人はいかに生きるべきか、どういう生き方が意味あるのか、と当為や価値でいつまでも迷うのは内面の空虚さゆえである。

自分に自信がない人は自分の内面の空虚さを認めたら、では一体どうして自分はこんなにも空虚になってしまったのか、ということをつきつめていくのである。

自分に自信がない人は小さい頃、自分の環境はどうであったか。

自分に自信がない人は両親の不和があったかどうか。

自分に自信がない人は親はいつまでも自分を子どものままにとどめようとしたかどうか。

自分に自信がない人は親の指示にそむくことはけっして許されなかったかどうか。

自分に自信がない人は親はいつも不機嫌であったかどうか。

自分に自信がない人は親はいつも世の中の悪口を言っていたかどうか。

自分に自信がない人はそうした環境の中で、自分はいつのまにか世の中への不信をつのらせていたかどうか。

自分に自信がない人は親が敷いてくれたレールの上を歩むのを当然と思っていたかどうか。

自分に自信があるか否かは、経済的に恵まれているかどうかとは関係ない。

親の情緒が成熟しているかどうかにかかっている。

未成熟な親は子どもを自分の思い通りに抑え込み、その子を素直な子と錯覚して安心する。

自分に自信がない人は自分は未成熟な親の意のままに、いつまでも素直な子として、未成熟な子どもにとどまっていたということはなかろうか。

自分に自信がない人はそのようにして自分の心の空虚の原因を探究していこうとすることで、本来の自分をつかめるのではないか。

それが同時に、いかに生きるべきかの発見にもなる。

自分に自信がない人は心の空虚から逃げる手段として、いかに生きるべきかを考えるなら、いよいよ底深い虚無感にとらわれていく。

ありのままの、本来の自分を見つけていこうとする過程で、現実の自己と理想の自己とは一致してくる。

自分に自信がない人はところが逆立ちした理想の探究は、いよいよ”かくあるべき”高く理想化された自己と現実の自己との隔たりを大きくする。

自分に自信がない人は心の空虚から眼をそらしていると、理想の自己像はいよいよ理想化され、現実の自己との隔たりは大きくなる。

自分に自信がない人はつまりいよいよ自分のことで不満や焦慮感にかられることになる。

自己の存在を確認するということは、理想の自己と現実の自己が同様のものになっていくということである。

自分の内面の空虚に立ち向かっていくならば、現実の自分を受容できるようになる。

現実の自分の受容こそが自分の存在確認にほかならない。

ところが自分に自信がない人は心の空虚から逃げ続ければ、自己否定は強まるばかりである。

そして自分に自信がない人はたえずこんなことをしてはいられないという焦慮感にさいなまれることになる。

自分に自信のない人が「きちんとする」のは、内面の危険信号を隠すため?

自分に自信がない人の性格である規範意識の肥大化などというのも、防衛的性格であろう。

自分に自信がない人は内面の不安や虚無感を意識しないでいるために、どうしても過剰に規範意識をもつ必要があるというだけのことである。

自分に自信がない人は人々への愛や信頼からでてくる規範意識ではなく、人々への敵意や不信からでてくる規範意識である。

したがって自分に自信がない人は、他人から見るとその規範意識は何とも身勝手な当為であってついていけないのである。

自分に自信がない人は人間への不信や憎しみを源としてでてくる規範意識であるから、すべて人間性はけがらわしい、となってしまう。

自分に自信がない人はその結果として、エネルギーを喪失してしまう。

自分に自信がない人は不平不満を言い、泣き言を言い、それだけの人生になってしまう。

自分に自信のない人の性格として、几帳面ということもたえず言われる。

強迫神経症者なども非常に行儀よくてきちんとしている。

何事においても規則正しい。

では、なぜこの人々は秩序に束縛されるのか。

一口に言えば、自分に自信がない人は秩序正しくあることによって、自分の内面の深層にある乱雑な衝動から身を守っているのである。

自分に自信がない彼らは自分の内面の深層にある衝動を恐れている。

なぜなら、自分に自信がない人はそれらがとても自分のコントロールのおよぶところではないと思っているからである。

しかも、自分に自信がない人はそれらの奥深い衝動を罪深いものと感じている。

自分に自信がない人が几帳面になること、規則正しくあること、行儀正しい事、要するに秩序にしたがうこと、それらは自分の内面の危険に対する防衛なのである。

自分に自信がない彼らは秩序に束縛されるというよりも、秩序にしたがうことで自分の内面の危険から自分を守っているのである。

そうした意味で、自信がない彼らは几帳面にならざるを得ない。

自分に自信がない彼らの秩序喪失に関する小心な過敏さは、彼らの内面が統合されていないことをあらわしている。

自分に自信がない人はその内面の不統合が、表面にあらわれることを恐れているのである。

自分に自信がない彼らは、外界のわずかな変化も恐れる。

自分に自信がない人は現状維持を望む。

自分に自信がない人は自分の人生についても、軌道からわずかでもそれることを恐れる。

そして、自分に自信がない人はわずかに軌道からはずれただけで、取り返しがつかないと感じてしまう。

自分に自信がない人は受験の不合格で、自分の一生は決まったとさえ感じる。

自分に自信がない人は普通の人から見れば何でもないことを、取り返しのつかないことと感じるのである。

自分に自信がない人は失恋しただけのことで自分は傷ものであると卑下し、お嫁に行けないとまで考える。

自分に自信がない人は履歴に傷が付く、などというのも同じ発想である。

自分に自信がない人は小さな事件を取り返しのつかない秩序の喪失と考える。

自分に自信がない彼らは自己の内面の混沌を恐れて、必死で自己を統制している。

自分の内面の衝動、情緒、それらを彼らが受け入れることができれば、自分を統制することにエネルギーを使う必要がない。

たえず感情が緊張して感情疲労のはげしい自分に自信がない人は、防衛的な人なのである。

自分に自信がない人は防衛のためにエネルギーが消耗されてしまうのである。

しかしなぜそこまで自分の深層にあるものを恐れなければならないのだろうか。

それは自分に自信がない人は小さい頃、自分にとって重要な人が、ありのままの自分を拒否したからであろう。

たとえば、親が子どもに対して自分を押し付けようとしたとしよう。

子どもがその押し付けを当然のことのように考えてしまっていれば、自分の深層の自我、情緒を恐れるようになるであろう。

親が子どもを自分に似せようとすれば、子どもは自分を素直にあらわすことはできない。

自分に自信がない人は、一度、自分は親から何をどう押し付けられたのか、反省してみることである。

自信がない人がこう考えれば、あなたは変わる!

料理には持ち味と付け味とがある。

タケノコにはタケノコのうまさと味があり、トマトにはトマトのうまさがある。

そのタケノコのうまさ、トマトのうまさを引き出して料理するのが料理の名人であろう。

何でも塩や砂糖で濃く味付けられたのでは持ち味は消えてしまう。

フキノトウの苦味を好きな人もいる。

砂糖をドサッと入れて料理されたのでは、その持ち味はなくなる。

子どもの教育でも同じことである。

親から付け味された子どもは、自分の持ち味を恐れるようになる。

付け味をして子どもを料理した親は、子どもを愛していると錯覚している。

その親の確信は子どもに通じ、子どもは愛されていると錯覚する。

そして自分を愛してくれる親の期待に反する自分の持ち味に、子どもは危険を感じるのである。

愛するとは、タケノコをタケノコとして愛するということである。

ある料理人の名人がいる。

彼はトラックいっぱいのゴボウの山から一本のゴボウをぬきとると言われるくらい、材料にも注意する。

彼は次のように言った。
「ゴボウならゴボウをじっと見ていると、向こうからこうしてくれという声が聞こえてくる」使う材料の声を聞いて料理をするのだと。

自分を無心にしてあるものに立ち向かうと、相手の声が聞こえてくる。

それを手っ取り早く甘いか辛いかの味付けをすると、その材料の持ち味が死んでしまう。

彼は、アク抜きをするより苦味をうま味に転化したほうがいい、と言っておられる。

自分に自信がないとわかった人は、自分はどんなふうに付け味されてしまったのかを反省してみることが必要であろう。

自分に自信がない自分はどんなふうにアク抜きされてしまったのか、自分の持ち味はどんな味だったのか、その点を考えることである。

仕事熱心から始まった自分に自信のない人は、防衛的性格であるということがわかった。

防衛的性格とは何も自分に自信のない人だけではない。

すぐに他人の悪口を言うのも、その人の本来の性格というより、劣等感から自分を守ろうとしているだけであろう。

だとすれば、それも防衛的なものにすぎない。

自分に自信がない人も劣等感がなくなれば、その人の性格は変わるであろう。

その時の性格こそ、その人の個性である。

この世の中には、防衛的性格で生きている自分に自信がない人と、本来の自分の性格で生きている人とがいる。

そして、防衛的性格で生きている人には、本来の自分の性格で生きている人にとって世界はどう映っているか、ということが想像できないのである。

一口に言えば、自分の本来の性格で生きている人にとって世界は事実と価値が統合されやすい、ということである。

たとえば、防衛的性格で生きている人にとって、それは許し難いことではない。

完全主義というのは、不安をもとにしてできていると言われるように、防衛的性格の自分に自信がない人間のもつ主義である。

ある人は、初対面の人と上手にやるのが不得意かもしれない。

ある人は病気がちかもしれない。

しかし、本来の性格で生きているような人は、自分の友人のそのような弱点を受け入れることができる。

そのような弱点ゆえに友人を責めることなどけっしてない。

そして何よりも、そのような弱点ゆえに自分の友人を尊敬しなくなる、などということはない。

その弱点ゆえに、友人を嫌いになるなどということはないのだ。

自分に自信がない人は防衛的であるかぎり、道は開けない

他人の限界に怒るのは、それが自分に不利になると考える自分に自信がない利己主義者だけである。

子どもの限界に怒る親というのは、その子どもの評判によって自分の評価をあげようとしている自分に自信がない親である。

本来の自分の性格で生きているような親は、けっして子どもの限界に腹を立てない。

子どもの限界に怒る親は、子どもに心理的に依存している親である。

このような親をもった自分に自信がない子どもは防衛的性格となり、自分に弱点があると他人に受け入れてもらえないと錯覚するのである。

このような親をもった自分に自信がない子どもは、愛情というものをまったく理解できない。

愛情とは自分の弱点を安じてあらわせるという関係である。

自分の弱点をはっきりとわかりながらも不安にならないで付き合える、ということであろう。

自分に自信がない人が防衛的性格から本来の性格に脱皮していくために何より必要なことは、自分の対人認識のまちがいを是正していくことである。

自分に自信のない人が本来の自分を発見していくのに必要不可欠なことは、他人を両親の人格のステレオタイプ的コピーとみなさないことである。

むしろ両親のような人格の人は、この世の中には少ないのである。

あなたの両親が、もしあなたに完全であることを期待していたとしたら、自分に自信がないあなたは他人もまた自分に完全を期待していると錯覚する。

そして、自分に自信がない人は完全でなければ両親があなたをうけいれなかったように、他人も受け入れないと錯覚する。

しかし、この世の中で自分に自信がないあなたに完全を期待しているのは、あなたの両親くらいである。

防衛的性格の自分に自信がない人は皆、同じような人間である。

自分に自信がない人は個性がない、いつも恐れている、とにかく人間としてのちがいがない。

小さい頃から防衛的性格の人間にかこまれて生きてきてしまうと、人それぞれの人間としてのちがいがわからない。

自分に自信がない人は一人一人の人間としてのちがいを感じ取る能力がない。

しかし本来の性格で生きている人には他者は一人一人違うのである。

よく人間の”たち”ということを聞く。

あいつは”たち”が悪い、という時の”たち”である。

就職の面接で会社は何を見るのかとある人事の人に聞いたら、「人間の”たち”ですね」と言った。

”たち”が悪いというのは、その自分に自信がない人が防衛的性格であるということである。

防衛的性格の自分に自信がない人は対人関係でつねに不安である。

自分に自信がない人は自分を守ることばかりに気を取られているから相手が見えない。

つまり、自分に自信がない人は対人的感受性が欠如している。

自分に自信がない人は他人に自分の欠点を気づかれまいとすることにエネルギーを使ってしまうため、相手がどんな人間か見えないのである。

他人は、自分の弱点を知っても自分に対する敬意を失わないと知り、かつそう感じることができるようになってはじめて、不安は減少し、対人関係における感受性は高まる。

そこで人間は一人一人こんなにもちがうのかということがわかり、自然と自分の友人として適当な人が誰であるかもわかってくる。

抑圧や防衛がなくなることによって、人間は創造的になる。

だから、本来の性格で生きている人は一人一人創造的なのである。

自分に自信がない人が防衛的性格で生きながらえていると、生きることの意味がわからなくなり、人間いかに生きるべきかと悩む。

そして自分に自信がない人は「価値ある生き方は創造的な生き方である」などと口で言ってみても、悩みの解決にはならない。

防衛的である限り、自分に自信がない人は決して創造的ではないのだ。

※参考文献:『自信』加藤諦三著

 

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