自信喪失した人が自信を取り戻す心理

わがままで自己中心的な自信喪失した人ほど、他人の正当な自己主張をわがままと非難しがちである。

自分のわがままを自己主張と言う人は、他人の自己主張をわがままと言う。

自己主張は自立心からでるものであり、わがままは依存心からでるものである。

したがって、「君はわがまますぎる」と言ってあなたの正当な自己主張を責めようとする人は、そう責めながらもあなたにからみついている。

しかし、「君はわがまますぎる」と非難する人が自己主張のある人であったなら、あなたに必要以上にからみついていないで、去っていくなり、距離をおいて付き合おうとする。

あなたにからみついて、一つ一つの言動に干渉してくる人間は、依存心の強い人であって、自己主張のできない自信喪失した人である。

そして自分のわがままがとおらなければ怒るくせに、他人の自己主張には、「わがままだねぇ、あきれたねぇ」などと言う。

自信喪失したあなたを責めながらも、あなたにからみついている人は、あなたに幼児的な一体感を求めている”甘えた人”である。

幼児的な一体感を求めているから、自信喪失したあなたの言動の一つ一つに無関心でいられない。

自信喪失したあなたの言動の一つ一つが自分の望むとおりでなければ気持ちがおさまらない。

自信喪失したあなたの言動に無関心でいられないのは、自分の立場というものをもっていないからである。

幼児的一体感を求めるということは、自分の立場がない、ということであろう。

自分の立場がない自信喪失した人は他人の言動の一つ一つが自分の気持ちに影響をもつ。

そうした自信喪失した人は口うるさい。

自分が幼児的一体感をもつ人の箸の上げ下ろしまで黙って見ていられない。

そんな甘えた自信喪失した人に限って、人々は互いに助け合うべきであるとか、人々は互いに他人を傷つけてはいけないとか、あるいは人々は他人に対して自分の行動を納得いくように説明しなければならない、人々は他人に対して責任ある行動をとらねばならない、他人はけっして過ちをおかしてはならない、人々の調和をみだしてはならない、といろいろな倫理をもちだす。

自信喪失した人は限りなく相手に受け入れられたい―「甘え」のカラクリ

たとえば、自信喪失した親である。

子どもにむかってまで自己主張をできないから、自分にとって好ましくないことをした時、「どうしてそんなことをするんだ」という言い方しかできないのである。

あとは渋い顔をして不満を表明するだけである。

「そんなことをするのは、お父さんは嫌いです」とか、「お母さんは嫌いです」と言えないのである。

自分に自信がないから、「自分が嫌いだからやめてくれ」と言えず、一般的な善悪の基準に照らして禁止しようとするのである。

自信喪失した親は子どもにむかってはっきりと自己主張できなければ、子どもにむかって自分の要求をとおすためには、操作するしかない。

自己主張できない自信喪失した親に育てられた子どもは、自己主張ができない。

子どもにむかって、「お父さんはおまえに役人になってもらいたい」ということを彼はけっして言わない。

言わない代わりに、子どもがそれを望むように操作していく。

「なんと言ったって、やっぱり役人が一番尊敬されるよ」

「やっている仕事のスケールが民間の人間とちがうからね」

「いったんなっちゃえば死ぬまで保証されている」

「幸い〇〇は頭がいいから・・・」

この種のことを言いながら、子どもを操作していく。

操作されると、子どもは真の自分を発見できなくなる。

親がはっきりと自分に対して親の望みを告げるのならば、子どもはそれに対して自分を主張できる。

しかし操作された子どもは、自分は役人になるべきであると思わされる。

もっと言えば、自分は役人になりたいと望むべきである、となってしまう。

しかし気がつかなければならないことは、それらの”べき”を主張する人が、自分が相手に限りなく受け入れられることを望んでいるということである。

自分が限りなく受け入れられるために相手に要求しているのが、これらの”べき”という規範、倫理であることを忘れてはならない。

幼児的一体感とは、そういうことである。

自分が相手に限りなく受け入れられ、しかもその受け入れられた世界において自分が中心であること、これが本当の相手の欲求、要求なのである。

しかし、”私たちは他人を傷つけてはならない”という”べき”が正当であったとしても、甘えた人間のように、いちいち自分で自分を傷つける人間に対して、私たちは責任を負いようがないのである。

これらの”べき”がいかに正しくても、幼児的一体感を求めている人との間に適用されるものではない。

その年齢相応の情緒的成熟をとげた人の間の”べき”である。

忘れてはならないことは、傷つきやすい自信喪失した人ほど他人を傷つけることには無関心であるということである。

自分がささいなことで傷ついて大騒ぎをする自信喪失した人は、逆に他人を深く傷つけながらも、自分が傷つけたということすら気付かない。

他人を平気で傷つける自信喪失した人ほど、自分が自分を傷つけながらも大騒ぎをするのだ、ということは肝に銘じておくべきことである。

つまり自信喪失した人は自己愛的な人間であるから、他人を傷つけてもわからないのである。

このように、甘えた自信喪失した人の言ってくることすべてにイエスと言っていたら、自分が自分を憎むようになってしまう。

自信喪失した人というのは、このように甘えた人、つまり幼児的一体感を求める人と深くかかわりすぎ、その人からの先にあげたような非難を恐れて、イエスと言いすぎたのである。

自信喪失した人は自信をもつために大切な自己主張をせず、自己否定をし続けてきたのである。

自信喪失した人はよい子、立派な人と思われるために、たえず気を遣い、自分を殺して生き続けてきた。

しかしその結果はどうであったか。

その結果こそ、自信喪失なのである。

自信喪失した人は”自分の本当の感じ方”よりも”相手の満足”がそんなに大切?

このように、他人に非難されることを恐れて自分を殺し続けると、どうなるか。

自信喪失から気力喪失となり、やがては仕事が億劫になり、気分が沈みがちとなり、何もかもがいやになる。

自信喪失した人は身体を動かすのも億劫だ、という”うつ状態”になる前に、自分を大切にすることである。

他人を立てすぎて自信を喪失したのである。

自信喪失した人は朝の起床が億劫になり、仕事も人に会うのも、何もかもがわずらわしくなる前に、自分を立てることである。

しかし自信喪失した人はここで相手を一方的に責めることはまちがっている。

そのような関係が続いてきたのは、あなた自身も、そのような関係を必要としたからなのである。

自信喪失したあなたに幼児的な一体感を求めた人に対して、あなたのほうもそれを受け入れるだけの準備があったということである。

つまり、お互いに自信喪失し依存しあっていたのである。

自信喪失したあなたのほうも相手に依存しているからこそ、その関係があなたにとって不快になっても、その関係を断ち切れないでいたのである。

自信喪失した人は、相手の中に幼児的依存心を認めると同時に、自分の中にもそのような幼児的依存心があることを認めなければならない。

自信喪失した人は自分の中に幼児的依存心があるからこそ、相手の期待を先取りして、それを実現しようと努力したのではなかろうか。

自信喪失した人は他人が自分に何を望んでいるかを先取りして、その実現に努力したのは、自分に幼児的依存心があったからである。

自信喪失した人は、次のような人と付き合うことは避けなければならない。

自分が何かを決断する時、自分の本当の気持ちを隠さなければならないような人と付き合うことは避けなければならない。

今までのことを考えたら、このことはわかるのではなかろうか。

自信喪失した人は何かをする時、たえず他人からの非難を恐れて、自分の本当の動機を隠していたのではなかろうか。

自信喪失した人は自分の本当の感じ方を偽っていると、自分にさえ自分の本当の感じ方がわからなくなる。

自分の本当の感じ方を自分や他人に偽ることは自信喪失をまねく。

自信喪失した人は自分の本当の感じ方を偽って述べている人は、いつも自分の行動を内心で恥じている。

自信喪失した人はどうして自分の本当の感じ方をのべられないのだろうか。

それは単に自信喪失した人が私たちに本当の感じ方を述べる勇気がないというだけではない。

その勇気を奪っているのは、他人との関係なのである。

幼児的一体感を求めてくる人は、私たちに眼に見えない圧力をかけてくる。

自信喪失した人は自分は完全な人間でなければならない、自分は他人の期待を裏切ってはならない、自分は他人の望むことをしなければならない、などなど。

自信喪失した人はその眼に見えない圧力に負けて、ノーと言いたい時にイエスと言い、自分の本当の感じ方を述べる機会を失い、自分で自分を憎むようになる。

また、自信喪失した人は自分があることをする時、その眼に見えない圧力に負けて、一般的な”べき”を述べて自分の本当の感じ方を偽る。

自分がそれをやったのは自分自身のためではなく、彼のためである、と自分の本当の感じ方を偽って述べる。

そして自信を喪失する。

しかしこの圧力を感じるのも、自信喪失した自分が相手に依存しているからである。

自分が相手の幼児的一体感を受け入れるような人間でなければ、このような眼に見えない圧力を感じることはない。

自信喪失した人は自分にとって不快な関係を整理できないのは、自分にも原因があるということをみとめなければならない。

そして、とにかく自信喪失した自分が本当の感じ方を述べても、受け入れてくれるような人と付き合うようにしなければならない。

見捨てられる恐怖から、他人にとりいった自信喪失した男

自信喪失した自分の本当の感じ方を偽って述べても、けっして本当の自分は立派になるわけではない。

自信喪失した人たちにとって大切なのは、本当の自分が立派になることであって、本当の自分の感じ方を偽って立派なことを述べることではない。

自信喪失した人は本当の自分の感じ方がそれほど立派でないのに、立派な感じ方をしているように偽るからこそ不快になるのである。

そして、本当の自分を立派にしようという望みやエネルギーは、本当の自分の感じ方を自分も認め、それを述べることができるところから生まれる。

自信喪失した人は本当の自分の感じ方を偽って述べている以上、自分は萎縮していくだけである。

本当の自分の感じ方を述べることが自己主張でもあるし、他人との本当のコミュニケーションを可能にもする。

だから、自信喪失した人が本当の自分の感じ方を述べられないような雰囲気をつくってしまう関係は恐ろしいのである。

そのような雰囲気の中で育って自信をもつなどということはあり得ない。

この種の雰囲気はある種の家庭や、ある種の宗教団体などにある。

したがって、それらの集団に属している人は、自信喪失としての狂信しかもてないのである。

堅苦しく束縛されるような雰囲気を相手から感じとってしまうのは、相手が口では何を言おうと、根本においては限りなく受容されることを求めているからである。

自信喪失した人は相手が密着した一体化を心の底で求めている時、どんなに口で”自由”を言っても束縛を感じるものである。

自信喪失した人はどんなに立派なことを言っていても、そんな雰囲気の場所に近づいてはならない。

自信喪失した人は相手の言うことが立派であればあるほど、相手の要求にノーと言えなくなる。

自信喪失した人は相手の言う通りにならない自分をわるく感じてしまう。

しかしはっきりさせるべき問題は、相手の言っている内容ではない。

相手の心情である。

雰囲気が自分に不快であるならば、論理的な根拠がなくてもノーと言ってよいのである。

自信喪失した人は「理由は言えないけど、私はいやだ」ということが正しい時もあることを、忘れてはならない。

自分の本当の感じ方を述べることを禁止することは、コミュニケーションを禁止するのと同じである。

だからこそ、自己主張のない自信喪失した人は他人とコミュニケーションをなかなかもてないのである。

コミュニケーションは、自己主張のある人同士の間ではじめて可能になる。

そして、このコミュニケーションが人々に自信を与えるのである。

自己不在であれ他者不在であれ、自信喪失した人は両方ともコミュニケーションができない。

逆に言えば、他人とコミュニケーションできる人は、自信喪失から解放されている人である。

自己主張というのが、いかに大切であるかはこの点からもわかる。

つまり、自己主張とは、自己主張する人を自分の周りに呼び、自分を操作しようとする人を自分から遠ざける。

ある社長の息子である。

親の財産と会社をついだが、結局それらのものをすべてなくしてしまった。

理由は簡単である。

彼には自己主張がなかった。彼は自信喪失した。

したがって自信喪失した彼を操作して、甘い汁を吸おうというずるい人ばかりを周囲にひきつけてしまった。

周囲の人は、自信喪失した彼を、他人にとって望ましいことをしなければならないという”べき”で包囲した。

自信喪失した彼は周囲の人の”好意”と”尊敬”を維持するために、周囲から望まれることをした。

自信喪失した彼は周囲の期待にこたえ、”尊敬”されることで、自分の内面の空白から眼をそむけていたのである。

しかも彼は、周囲からその時に得ている”尊敬”が、本当の尊敬ではないということに気付かなかったのである。

操作するための”尊敬”であったにもかかわらず、自信喪失した彼は自分が尊敬されていると勘違いした。

見捨てられることにおびえていたから相手の本心が見ぬけない。

自信喪失した彼は自分が社長であるためには、周囲から望まれることを、つねにする必要があると錯覚していた。

この”べき”に奉仕しすぎて、本当の自分は空無と化していたのである。

やがて会社はかたむき、財産はなくなった。

その時、彼は愕然とした。

今まで”この世に二人といない社長”というほど自分を”尊敬”していた周囲の人々は、口汚く自分をののしりだしたのである。

しかも、ののしることまでが操作で、周囲の人々は最後の血の一滴までしぼりとろうとした。

その社長は何と自分の家族を養うのに精いっぱいだったところへもってきて、住んでいた家まで売られてしまったのである。

社長にむかって会社の中で、「出ていけ」とまで周囲はののしった。

それまでは、「社長は人がよすぎるところがある。少し隠し財産でもつくっといたほうがいいんじゃないんですか」とまで言っていた人が、やはり「出ていけ」と言って、住んでいる家屋敷を売りとばす手続きをとりだしたという。

見捨てられる恐怖から、他人にとりいることを続け、自己を空無化してしまった人間の末路である。

そのかつて二代目社長は、「人の世がこれほどまでとは思わなかった。」と愕然とした。

自信喪失した彼の周囲にいた人は、たしかにひどい人ばかりだ。でもその卑怯な人間をひきつけたのは彼自身なのだ。

他人を操作しようという人にとって、自信喪失した彼は魅力のある人だった。

もっと厳しい事を言えば、自己主張のある人にとって、自信喪失した彼は魅力のない人だった。

自信喪失した彼はちょっとしたことで不機嫌になりそのことで苦しんでいた。

それは自信喪失した彼が本当の感じ方からすればノーと言いたいのに、他人の望むことをすべきだという目に見えない圧力に屈して、イエスと言い続けたから。

イエスと言う事は本心ではない。

本心ではないことをやり続けて、慢性的不満症だった。

その不満が、他人のちょっとした言動が引き金になって爆発していた。

他人を操作しようとする人間の本性がわかったのだから、もうそんな人と付き合うことはやめたほうがよい。

”べき”を声高に叫ぶ人の本心ほど、嘘にみちているものはない。

彼は「自分は小さい頃から自己主張を禁じられて生きてきた。だから内心では自信がなかった。
内心に自信がないから、他人の望むことを、つねにしていないといられない。」

彼は周囲の望むことをやり続けて会社をつぶし、家屋敷まで売られてしまった。

しかしそれも、自己主張のある人々にとっては、彼はしょせんつまらぬ二代目社長でしかなかったのである。

付き合って面白い人間ではなかった。

これからは自己主張のある人間が周囲に集まるように、自分が自己主張のある人間になったほうがよい。

自己主張は、操作しようという人間を近づけないのである。

自己主張のない愛情などというのはない。

彼は自己主張のある人間となり、かつての豊かさとはほど遠いが、静かに家庭を愛する人となり、不機嫌からも解放された。

※参考文献:『自信』加藤諦三著

 

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