自分に自信がない人が自信をつける3つの点

自信がない人は、あやまって現実を解釈し、その解釈にしがみついて生きてきた人である。

たとえば、対人不安から優越することが他人に受け入れられる条件だと解釈し、優越へむかって努力するひとがいる。

自信がない人は外で酒を飲まないことが、家族への愛情のあかしだと思い、外で酒を飲むことを罪と感じていた人もいた。

自信がない人は、「あら、知らないの?」という一言を聞いて、すぐに自分をバカにしていると解釈する。

そして、自信がない人は次は何をしても「オレを軽く見たな、なめたな」と怒る。

自信がない人は相手がそれを言った時の顔を見ていない。

自信がない人は、だいたい自分を守ろうとする気持ちが強すぎて状況を見ていない。

また自信がない人は相手と自分との今までの関係を顧慮していない。

自信がある人は、相手を誤解しない。

それは、相手がそれを言った時の視線を見ているし、この一年の相手の行動をみているからである。

それらを総合的に評価して、「あら、知らないの?」という一言を判断する。

自分の男らしさに自信がない人は、男らしさを売る。

いわゆるマッチョと言われる人々である。

自信がない人は男らしさを売らないと、女は寄ってこないと思っている。

実は男も「ふぬけ」になってもいい。

そこに男の色気を感じる女もいる。

自信がない人は、「動物はすべて自分と同じサルだと思っている」サルのようなものである。

カバに「泳げないの?」と言われて、バカにされたと思って落ち込む。

そして、サルの仲間のところに行っても、自分に危害を加えると思って脅えている。

酒を飲んではいけないということになっているサルの集団で育って、ライオンの集団に行ってライオンに気に入られようとして、「やだねー、酒飲みは」と言っているようなものである。

自信がない人は気に入られようとして言った言葉で嫌われている。

ある人は今から四十年近く前の三月、雲取山に登った。

山小屋にちかいところまでくると、犬がしっぽを振ってやってきた。

一緒に山に登った仲間はべつに犬がすきではないのに、犬はしっぽを振って寄ってきた。

どういうわけか四十年たった今でも、その雪の中の犬を覚えている。

その犬は可愛がられて育ったのだろう。

人を見れば、すべて自分を可愛がってくれると信じているのである。

実は、その人はアメリカ滞在中に犬を二匹飼って、一緒に日本に帰ってきた。

この犬がやはり同じなのである。

人を見れば、自分は可愛がられると思っている。

アメリカにいる時そうだったから、日本でもそうおもっているのである。

アメリカ人は、日本人よりはるかに犬好きである。

日本にいると時々、雲取山の犬と逆のケースに出会うことがある。

可愛がってあげようとしているのに、おびえて逃げていく犬が日本には多いのである。

人間でいえば、自信がない人であろう。

自信がない人は、ありのままの自分を受け入れてくれる人の前でも、自我防衛をおこなう。

自信がある人は、この逆である。

格言に”窮鳥懐に入る時は猟師も之を捕らえず”とある。

猟師は鳥をとることを仕事としているが、窮して自分を頼りにして懐にとび込んでくる鳥は捕えないというのである。

このように、敵に接しても味方と思う人もいる。

赤ん坊が同じである。

あんなふうに笑われたら、落とそうと思った人でも落とせなくなる。

赤ん坊から必要とされていると思ったら、普通の大人は赤ん坊に愛が生まれる。

人は、自分が必要とされていると感じた時に愛が生まれ、利用されていると思った時に憎しみが生まれる。

自信がない人は、まず自分のおかれている現実を正しく解釈することが必要である。

自信がない人は、自分の味方を敵と思っていたりする。

自信がない人はまた逆に、本当は自分の敵なのに味方と思い、その人を尊敬して歪んだ関係をつくり、それにしがみついていたりする。

自信がない人が自信をもつためには、自分の周囲にいる人間の正体を見破ることが必要である。

たとえば、今尊敬している親の正体はどうであろうか。

情緒的に未成熟な自信がない親は、子どもの自然な成長を待てないという。

つまり自信がない人は自分の内面が不安であるから、その不安から行動してしまう。

そして自信がない人は子どもが自分でやるべきことを先回りしてやってしまう。

そして自分は”良い親””立派な親”と錯覚する。

子どもも”良い親”と錯覚させられ、感謝してしまうケースがある。

過保護は擬装された憎しみであるという。

つまり、その親は自らの内なる憎しみを過干渉、過保護、誤保護というかたちで表現しているのである。

ところがその憎しみの行為の多い親を”よくやる親”と親も子どもも錯覚する。

その”立派な親”の正体は、不安な親、憎しみにかられている親なのである。

不安や憎しみが正体であるにもかかわらず、”愛と道徳”という仮面をつけて登場する人間は、この世の中にたくさんいる。

こういう親の場合、たいてい自分がさせたいことを子どもにさせている。

お稽古事も親が子どもにさせたい場合がある。

学校でもピアノでも何でも、お稽古事から疲れて帰ってくると、ランドセルをとってあげる。

そして、よく子どもの世話をする”立派な親”と言われる。

しかし、こういう親は子どもをほめない。

自信がない人は自分のさせたいことを子どもにさせるために子どもをおだてるが、子どもが頑張ってピアノを練習してうまくなっても、子どもをほめない。

「あれだけお金を出したんだから、あたりまえでしょう」という考え方である。

自信がない人はほめると、「私の力でこうなった」ではなくなってしまう。

そこで、自信がない人はなかなか子どもをほめない。

子どもをほめない親ばかりでなく、一般的に人をほめない人は心理的に問題のある人である。

女性同士で、「あの人、キレイになったわねー」と言っていても、「そうかしら」とほめない。

自信がない人は「何か、人形になったみたい」と言う。

ほめない人は、自己蔑視しているからほめられないのである。

ほめる時には、自分の素晴らしさを示すときである。

自信がない人は相手との自然な会話の中でほめるということはない。

自信がない人は要するに、人をほめない人は相手とコミュニケーションをするつもりはない。

こういう自信がない人は基本的に一人がいい。関係をもつことがいや。

つまり、自信がない人は基本的に人が嫌いなのである。

子どもをほめないでおだてる親は、基本的に子どもが嫌いなのである。

しかし、自信がない人は子どもをとおして自分の要求を満たしたい。

だから、子どもには「こうしてほしい、こうなってほしい」という要求がある。

自信がない人はその要求をみたす時にのみ、子どもをすきになる。

では自信がない人は、自分が今おだてられているのか、ほめられているのかを、どこで判断したらいいのか。

ほめられていると思っても不安になったら、それはほめられているのではない。

おだてられているのである。

おだてられれば、不安は増大する。

たとえ今おだてられていても、失敗したら失望される。

失望されたら傷つく。

そこで、おだてられた時には、ほめられた時とちがって不安になる。

また、そのことを言われてあなたが嬉しければそれは励まされ、ほめられたのである。

自信がない人は、このような人をおだてる人間に翻弄されることで、自信を失ってきたのである。

自信がない人は周囲の思惑や期待に身を低めて従おうとしてきたのである。

自信がない人はそのように努力することによって、疲れ果ててしまったのである。

自信がない人は他人に嫌われることが恐くて、身をすり減らして好かれようとする。

自信がない人は体面を維持することに腐心するあまり、自分は空無となってしまう。

あなたが空無ということは、どう生きていいかわからないということである。

だから、自信がない人は人に好かれることしか考えられない。

自信がない人は自分の人生に目的がない。

自信がない人は好かれることばかり考える。

そして、自信がない人は好かれることばかり考えるから、いよいよ人生の目的がわからなくなる。

自信がない人はそうした悪循環に陥っているのである。

自信がない人の周囲にいる人が、依存心が強い場合にはどうなるか。

自信がない人はその依存心の強い人を尊敬している可能性がある。

依存心が強ければ強いほど、その人は自信がない人への要求を激しくすることが多い。

大人になっても依存心の強い人は、依存心が強いばかりではない。

自信がない人はまずそれと附随して、猜疑心や強い不安をもっている。

つまり大人になっても依存心が強い自信がない人は、自分がスパイでおびえて敵国にいるようなものである。

だから、自信がない人はその人があなたに何かを頼んであなたが「はい」と肯定的な返事をしても、その言い方が気に入らないと怒りだす。

自信がない人は不安なのである。

自信がない人はその返事にやさしい気持ちがないと感じるのである。

自信がない人は不安で猜疑心が強いから、いつもおびえている。

自信がない人はそこで要求がしつこくなる。

自信がない人はひょっとしてこいつは自分を利用しているだけではないか、自分の敵ではないか、自分をバカにしているのではないかと、不安でたまらない。

こういう自信がない人は、相手が自分を百に見るか二百に見るかに気を遣う。

自信がない人はスパイだから、相手が自分をどう見ているかが気になってしょうがない。

自信がない人は「はい」の返事の仕方で、自分を百に見ているか二百に見ているか、敵と見ているか味方と見ているかを見分けようとするからである。

自信がない人はそこで、自分より強い立場にいる人には、身を低くして迎合する。

自信がない人は逆に、自分より弱い立場にいる人が自分を望むように評価しなかった時には激怒する。

こういう自信がない人は、自分が今いる位置が不安なのである。

自信がない人は友達との関係にも自信がない。

自信がない人は家族の中でも自分の居場所がない。

そして、自信がない人は自分は周囲の人から尊敬されていない、信用されていないと感じている。

自信がない人はいつ追放されるか不安でたまらない。

自信がない人はスパイなのだから相手は敵か味方、一心同体か赤の他人かのどちらかである。

自信がない人はこういう人には中間がない。

自信がない人はそこで相手のふとした言動で「こいつは敵か、赤の他人か、自分を脅かすものか」と恐れるのである。

自信がない人はそして、相手が自分と一心同体的な感情をもつことを要求する。

自信がない人はこういう人が周囲にいると弱い立場の者はたまらない。

つまり依存心の強い人と深く付き合った自信がない人は、実にさまざまの、しかも強い要求をいつもされることになる。

自信がない人はその広範にして深い要求に接して、人は心理的に歪んでしまう。

自信がない人が自信を持つためには、まず自分の周囲にいる人の正体を見破ること

私たちが自信をもつためには、まず第一に自分の周囲にいる人の正体を見破ることである。

その正体を見破った時はじめて、なぜ、自分はこんな”ずるい人間”によく思われようとへとへとになっていたのかと、おかしくもなる。

人間というのは表面と内面は、時にまったくちがうものである。

たとえば、多弁な社交家に見える人が対人恐怖症であったりする。

対人恐怖であるからこそ、つぎつぎと話題をだして多弁になるということがある。

自己中心的な傾向の強い人は、人前では逆に振舞うことがある。

だから自信がない人は他人を見間違えるのである。

このような人は自分の本心と逆の行動をしているから心理的には緊張している。

しかし自信喪失している人は、この相手の緊張を見抜けないのである。

では自己中心的な人をどう見破るか。

まず言葉遣いは丁寧できちんとしている。

愛想がいい。

しかしずうずうしい。

つまり、いい人を演じるが、けっして自分の要求を引き下げない。

たとえば見知らぬ人に「会ってほしい」と伝える時、「お忙しいのはわかっていますが」と言う。

そしてこちらが忙しい事情を説明しても、「それではまたの機会に」と言って引き下がらない。

どこまでも会うことを要求してくる。

しかし、自分の要求が通らないとわかったときには、態度が急変する。

本当にいい人は態度が変わらない。

そして、その一定の態度が続く。

我執の強い人が、人前できわめて柔和に振る舞う時がある。

「なんて柔和な人」と言われている人の中には、自己中心的激情をもつ我執の強い人がいる。

もし今あなたが自信喪失に悩んでいるのなら、極論すると、自分の敵と思っている人が自分の味方で、自分を守ってくれると思っている人が自分の抑圧者である可能性は十分にある。

今、あなたが身勝手だと思っている人が実は愛情豊かな人で、心の温かい人と感じている人が冷酷な人である可能性は大である。

その何よりの証拠は、あなたが自信喪失に悩んでいるということである。

健全な人間関係をもっている人が自信喪失に苦しむことは少ない。

他人の正体を見ぬくと同時に、私達は自分の正体も見抜く必要がある。

高慢な人は、自分が対人関係で緊張しているからだと知る必要があろう。

女性恐怖症に深刻に悩んでいる人が、見ず知らずの若い女性をお茶に誘って平然としていられるということがある。

自分をドンファンと思っていても、その正体は女性恐怖なのである。

自信がない人は、好かれたいという欲求から、好かれなければならない、優越しなければならないという要請を自分にする。

そして、その要請の実現が自己の生存に必要欠くべからざるものと主観的に感じてしまう。

自信がない人は客観的に必要なのではなく、主観的に必要と感じているということである。

自信がない人は歪んだ関係であればあるほど抜け出しにくい。

自信のある人は、努力しなくても自然と他人の正体が見えてくる。

ところが他人の正体を見ぬく必要のある自信喪失に悩む人こそ、実は他人の正体、自分の正体をなかなか見抜けないのである。

”羹に凝りて膾を吹く”という格言がある。

羹とは熱い煮物であり、膾は魚を薄く切って酢にひたしたものである。

自信がない人は、まさに膾を羹と思って吹いてさますのである。

とんだ偽ものにおびえて、身を犠牲にしておべっかをつかう。

自信のある人だったら、「なんか、あの人ずるいなぁ」と言うだけで終わるものを、自信がない人は、わざわざこちらからすり寄っていってお世辞を言ったりする。

だから、気がひける必要のないところで気がひけるのである。

自信がない人は、どんな人と会っても心理的に安定した対等の立場で話ができない。

自信がない人は、めったやたらに他人の前で背のびしてよく見せようとする。

劣等感の激しい人は、ことに劣等感の激しい人の前で背のびして、自分を実際よりよく見せようとするようである。

劣等感の強い人は自分の目の前の人が、心の葛藤で苦しんでいる精神的幼児であることなどけっして気がつかない。

劣等感があるからこそ自分の重要さを誇示しようとするのであるが、こちらも自信喪失していると、その誇示に負けて、いよいよ身を低くして相手に取り入ろうとするのである。

自信というのは自信をもとうという意志と、自信をもちたいという願望があったからといってもてるものではない。

寝ようという意志と、眠りたいという願望があったとて眠れない不眠恐怖症を考えてみれば、それはわかるであろう。

私たちはよく自律神経失調症ということを言う。

自律神経とは、通常その働きが私達の意識の外にあって、不随意的におこなわれるものである。

自信とは自律神経に関することで、私たちの直接的な意志に服して随意に働くものではない。

ここが自信についてのポイントである。

だからこそ、自信がない人にとって正しい人間の解釈が何より必要なのである。

自信がない人と人生の最終的な清算

人生の最終的な清算は、自信というかたちでなされている。

自分の人生を適当に生きて、うまくやろうとしてみても、それは自信の欠如となってあらわれる。

本来自分の実力では入れない大学や企業に入ってみたところで、その清算は自信でなされる。

自分の生まれついての自信の持ち点を10とすれば、その不正入学、入社によって5点ぐらいとられて、結局は持ち点5という自信のない状態で生きなければならない。

他人から見れば、あいつは学歴によってあの地位についたとか、親戚に有力な代議士がいるから重役になったとか、ねたまれたりうらやましがられたりしても、その本人がもし本当に自分の実力でその地位を得たのでないとすれば、やはり自信喪失という代償を払っている。

自信がない人はうまく他人をごまかして金持ちになってみても、努力して金持ちになったのでない限り、やはり、たえず他人に気が引けているということになる。

どんなにささやかな財産でも、自分がコツコツ努力して得たものは、その人に自信をもたらす。

自信がない人はどんなに名誉ある地位も、自分の実力にふさわしくないものである以上、その人を不幸にする。

自信がない人は不眠症になるほど毎日ビクビクしているということもあろう。

人生は外側から見れば、うまくやっている人と、下手に生きている人といるようであるが、それはすべて最終的には自信によって清算されている。

この『自信』は、どちらかといえば自己不在の人間の心理である。

自己不在の自分から自己を回復しようとして、「他人なんかどう思ったってかまわない」と自律性ができていないのに他者を拒絶してしまうと、今度は他者不在となる。

他者不在の心理は、エゴイズムの極である。

そうなると虚無感に苦しめられる。

自己不在も他者不在も生きていくのに危険な心理である。

自信がない人は自己確立のためにも他者を必要とする。

ところが、自信がない人はその他者を間違えると悲劇がおきる。

私たちを地獄に突き落とす他者として、他人を操作しようとする人や、にせの自信の持ち主や、その他さまざまな人がいる。

『自信』加藤諦三著の本の中に人生には二つの大切なことがあると記されている。

一つは、自己の信念に忠実であること。

二つ目は、独りよがりにならないこと。

自己の信念に忠実であることは大切なことである。

自信がない人は他人が自分をどう思っているかということばかりに気を遣いすぎる人。

自信がない人は他人の期待を先取りして実現しようとする人。

要するに、自信がない人は他者との関係を円満にしようとする過度の配慮をする人は多い。

自信がない人は自己の他者化がすすみ、遂にはうつ病にまでなる人もいる。

そんなことを考えれば、自己の信念に忠実であることが、どれだけ大切かはわかる。

人格の統合性はこれによって保てるのである。

しかし忘れてはならないことは、第二の点である。

ただ単に世間の眼を拒否することは大変に危険なことである。

自律性ができていないのに、単に自分を防衛するために世間の眼を拒否する人がいる。

これも人格の崩壊をもたらす。

その意味で、独りよがりになるな、ということが大切なのである。

※参考文献:『自信』加藤諦三著

 

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