自分探しでなく自分つくり

「偽りの自分」は「本当の自分」ではない。

そう思うことで、自分の小ささ、無力さを甘受することからにげているのではないでしょうか。

「本当の自分」がどこかにあるはず。

そう思うことで、今、ここにいる自分を充実させる努力から逃げているのではないでしょうか。

いつからか始まる「本当の自分」の人生。

そんなものはありはしません。

今を生きている自分以外、自分などあり得ません。

今この瞬間瞬間の連続としてしか、自分の人生は存在しません。

人間関係でも同じです。

本当の私を好いてくれる人が、どこかにいるはず。

本当の愛がどこかにあるはず。

そんなもの他にありはしません。

今の関係を豊かにするしんどさから逃げているだけ。

考えて見て下さい。

どこかに自分にぴったりした人がいるはず。

そう思って周囲を見回すばかりで、今の結婚生活をよくしようと努力しない人に、幸福な生活が訪れるでしょうか。

自分探しをする人は、この人のようなものなのです。

今の愛情関係、今の友情関係、これ以外に本当の関係などありません。

大変でも、つらくとも、今、現にあるこの関係を充実させる努力をすることです。

自分の内面を見つめ、自分について考え、自分とは何かを探そうとしても、「本当の自分」など見つかりはしないのです。

「本当の自分」は行動しません。

現実的な努力をしません。

たとえ行動しても、徹底的に努力することはありません。

常に可能性として自分を残しておきたいためです。

虚構の世界という逃げ場を保持しておくためです。

懸命に努力すれば、自分の限界や能力の無さが現実化してしまい、逃げ場を失うからです。

内面を見回し、周りを見回し、探そうとしても、「本当の自分」など見つかりはしません。

現実の中で、悩み、傷つき、挫折し、しばしば妥協し、屈服し、それでも得られたささやかな喜びを感謝をもって味わい、現在の延長線上にある自分なりの夢や希望の実現を目指して生きること、過去から続く今の自分を豊かにする努力をすること、これ以外に本当の自分を生きる道など存在しません。

レビンソンが明らかにしたように、現在の人生を充実させる努力の先に、次なる自分の道と課題とが開かれていくのです。

現在の自分が望むものを実現する努力をするなかで、自分の適性や好み、やりがい、生き甲斐、ライフワークなどが次第に見えてくるのです。

必要なのは自分さがしではなく自分つくりです。

自分の内面へと逃げ込む甘えではなく、外界に向けて行動するという現実的な勇気をもつことです。

生活の修正

必要なのは具体的な行動なのであり、行動が「偽りの自分」と「本当の自分」との現実的変容を引き起こし、統合した自分という感覚をもたらすのです。

先に述べたように被害者意識を捨て、人に尽くす喜びを堪能するという姿勢に変えてもなお、自分のなかに満足しきれない心があれば、その部分を満足できるようにハンドルをきることです。

私たちは理想と現実とのはざまで、多かれ少なかれ自分を抑えながら生きています。

うらはらな思いで生きている部分が必ずあります。

それは、期待された役割を生きる自分ではあっても、決して「偽りの自分」ではないのです。

また、「本当の自分」を隠して演技しているという感覚があります。

演技していない人などいません。

統合失調症などの精神的病が治ったとされる人のなかには、再び演技を続けようと決心した人が少なからず含まれていると、天才的精神科医のレインも述べています。

人生を生きていくためにある程度の演技は必要なものであり、演技も含めて自分なのです。

それでも、自分を抑えすぎて苦しい人、演技に疲れてしまった人は、期待された役割を生きる自分に安らぎを与えるようにいささかの修正を図ることです。

「誰にでも良い人として印象づけようとして、ついついがんばりすぎてしまうんです。

それで仕事でも家庭でもトラブル続きですっかり疲れきってしまい、病気もして、もう人からどう思われてもいいと開き直って自分の感情に素直になったら、生きるのが楽になりました。」(40代 女性)

人によっては、仕事を変えるなど、生活の修正を図ることが必要なこともあります。

このとき、期待された役割を生きてきた人は理想化傾向が著しいために、しばしば「全か無か」という決断をしがちです。

そのために、夢についても、全面的に放棄してしまうか、夢のままに夢想しているか、あるいは極端すぎる夢を絶望的に追求し続けるということになります。

そうではなく、夢を現実的なものに変容することで、具体化のための行動を続けることです。

これまで培ってきた自己統制能力を、現実的な夢の実現に向けて発揮することです。

自分を生きることの核心は、自分の夢を生きるということです。

そうすると、人生は障害だらけと感じられていたものが、むしろ人生はワクワクするチャレンジの連続と感じられるようになります。

「小学校に勤めていたときは、子ども達と一緒にいるのが楽しくて、休日も学校に行って子ども達と遊ぶなどしていました。

授業を工夫すればそれだけ子ども達がのってくるので、学校に泊まり込んで授業の準備をしていた時期もありました。

中学に移ってからは、部活の指導で夏休みも冬休みもほとんど休めませんでした。

放課後は生活指導や親御さんからの相談で、自分の生活のすべてを子ども達に提供していたという感じでした。

40歳を過ぎた頃から、もっと自分を深めるために自分の時間を持ちたいという思いが強くなりました。

子ども達は毎年変わっていくので、これまでの自分で流せていけちゃうんです。

そんなためか、どうしても以前のようにのめり込めないのです。

子どもといれば嫌なことなど忘れられたのに、そんな感じもなくなりました。

転勤したらリフレッシュできるかと思い、転勤を願い出ましたが、新しい学校でも2年も経つとマンネリ感に陥ってしまい、もう教師をやっていけないかなと思いました。

それでもそんな弱みは見せられない立場になっていましたので、以前と変わらない自分でやっていました。

ちょうどそんな時、大学院に現職教員を送る制度ができて、応募しました。

運良く合格して、それが大学教員への道につながり、今に至っています。

自分のための十分な時間がとれるし、教員になる学生を育てる仕事なので、これまでの経験を生かしてやりがいを感じて仕事に打ち込んでいます。」(60代 男性)

※参考文献:「いい人に見られたい」症候群 根本橘夫著