自分らしさ、自分らしく生きる心理

世界に一つしかない自分

何かをしている時に楽しければ、それが「自分らしさ、自分らしく生きる」。

「自分探し」は、自分は世界に一つと気がつけばいい。

大学を中退しようが、卒業しようが、世界に一つしかない自分の人生。

「自分らしさ、自分らしく」で生きていれば、リストラされても気持ちが落ち着いている。

「自分らしさ、自分らしく」でいる時には何をしても面白い。

「自分らしさ、自分らしく」で仕事をすると、気持ちが落ち着く。

「自分らしさ、自分らしく」が分かっている人は本来の自分がすることをしていると、気持ちが落ち着く。

「自分らしさ、自分らしく」で生きていると、ものが見える。

「長所を発揮している時は、他のブレイン・スタイルの誰とも似通っていない。

あなたは完全に自分自身であり、他人は、その完全なあなたは他人とは違うことに気づく。

長所に集中し続けるように。

あなたが最も価値をもたらす、長所を活用するのに必要な規律は、自然に分かる。

好きな事に集中している時には、競争したり不適当に行動したりしない。

あなたは、人の為に役立つような、能力の使い方を見つけるだろう」

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人は頑張っても成果の上がらないことがある。

逆に楽しんでいるのだけれども、成果が上がる時がある。

それが「自分らしさ、自分らしく」で生きている時である。

訳もなくいつも辛い時には「自分らしさ、自分らしく」で生きていない。

クヨクヨするのも「自分らしさ、自分らしく生きる」

ただ、「自分探し」は「あー、これで自分は光輝く」というものではない。

眠れない自分が「自分らしさ、自分らしく生きる」。

眠れない時に、自分は「自分らしさ、自分らしく生きる」を見つけられないからこうして苦しんでいるのだと思う。

人間は様々な感情がある。

恐れの感情もあれば、妬みの感情もある。

弱いのが人間である。

それなのに「自分らしさ、自分らしく生きる」を見つければ、それで自分は強くなれると思う。

眠れなくて苦しんでいる自分が「自分らしさ、自分らしく生きる」なのである。

何か恐れていると、それは「自分らしさ、自分らしく生きる」ではないと思っている。

そんなことでビクビクしているのが「自分らしさ、自分らしく生きる」なのである。

「理想の自分」を「自分らしさ、自分らしく生きる」と勘違いをしている人がいる。

隣人からの苦情に苦慮している自分が「自分らしさ、自分らしく生きる」なのである。

もともとスーパーマンはいない。

小さいことにクヨクヨするのが「自分らしさ、自分らしく生きる」なのである。

それを小さなことにクヨクヨしている時に、これは「自分らしさ、自分らしく」ではない、「自分らしさ、自分らしく生きる」を見つければクヨクヨしないと勘違いをする。

そう考えているといつも不満であり、早く「自分らしさ、自分らしく生きる」を見つけようと焦る。

誰でも劣等感はある。

「理想の自分」と「現実の自分」とのギャップなど誰にでもある。

心配することがあれば誰でも眠れない。

誰でも心配事があれば、昼間は昼間でそれに気を取られてボーっとしている。

仕事に集中できない。

何か些細なことでイライラすると、こんなことですぐにイライラするのは「自分らしさ、自分らしく」で生きていないからだと解釈する。

何か気持ちが焦ると、それは「自分らしさ、自分らしく」で生きていないからだと解釈する。

「自分らしさ、自分らしく」で生きていない人は苦しみの原因を責任転嫁しないこと

他人の一言で不愉快になると、それは「自分らしさ、自分らしく」で生きていないからだと解釈する。

ふとした拍子に落ち込むと、それは「自分らしさ、自分らしく」で生きていないからだと解釈する。

人は誰でも物事が自分の思うようにいかないことがあると、怒ったり、不愉快になったり、焦ったり、イライラしたり、憂うつになったりする。

そしてその責任をどこかに転嫁出来れば心理的に楽である。

だから人は何か思うようにいかないとすぐに他人のせいにする。

ことに子どもはすぐに責任転嫁をする。

それはまだ責任を背負うだけの心理的能力がないからである。

実は「それは『自分らしさ、自分らしく』生きていないからだ」と解釈するのも同じなのである。

心理的にも肉体的にも疲れ果てたとする。

しかし今日はもっと仕事をしなければならない。

しかも今日の仕事の成果は自分の将来に影響する。

それくらい重要な仕事である。

そんな時に人は焦る。

一休みして仕事に取り掛かろうとするけれどもなかなか休めない。

横になっても神経が緊張している。

不安な緊張を解消しなければ、寝ようとしても寝られない。

こんなに消耗してしまったのは「あいつのせいだ」と責任を転嫁出来れば心理的には楽である。

しかしなかなか責任転嫁をする人が見つからない。

そんな時に「それは「自分らしさ、自分らしく」生きていないからだ」と解釈すれば、心理的に楽になる。

今、自分は「自分らしさ、自分らしく」生きていないということに責任を転嫁する。

人は苦しい時にその苦しい原因を突き止め、このために苦しいのだと思いたい。

そしてそれが人なら、その人を恨む。

そうして心理的に苦しみを解決しようとする。

また、「自分らしさ、自分らしく」ではない今の生き方が、苦しみの原因であると思えれば、何となく納得出来る。

しかしもともと人間はスーパーマンではないのだから、人と意見が衝突すれば、不愉快になることもある。

チョットした相手の不機嫌で悲しくなることもある。

期待したことが実現しなければ、憂うつになることもある。

誰でも不安な緊張が続けば、心身共に消耗する。

そして心身ともに消耗していれば、人とのいさかいも増える。

それが人間である。

これは何も今の自分が「自分らしさ、自分らしく生きる」ではないからだという訳のものでもない。

「自分らしさ、自分らしく」ではない生き方、ということに全ての苦しみの原因を持って行ってしまうと、逆に「自分らしさ、自分らしく生きる」が見えなくなる。

「自分らしさ、自分らしく」で生きていても、イヤな気分になることがある。

「自分らしさ、自分らしく」生きていても、人となかなかうまくいかないことがある。

気持ちがしっくりいかないことがある。

人はそうして生きている。

「自分らしさ、自分らしく生きる」を見つければ、いつも気分爽快で、元気はつらつで、愉快な気持ちでいられると思うのは間違いである。

そうなると「自分らしさ、自分らしく生きる」が魔法の杖になる。

しかし、人生に魔法の杖はない。

人生に魔法の杖を求めるのは、むしろノイローゼ気味の人である。

生きることは誰にとっても辛い

人は色々なことで不愉快になる。

「このことをしたらあの人に認めてもらえる」と思ったのに認めてもらえなかった。

そんな時に誰でも傷つき、不愉快になる。

情緒的に成熟していればその程度が軽いし、情緒的に未成熟であれば、深く傷つく。

その心の傷の深さは異なるが「このことをしたらあの人に認めてもらえる」と思ったのに認めてもらえなければ、誰でも落ち込む。

その情緒的未成熟を、今の自分は「自分らしさ、自分らしく生きる」がないからだと原因をすり替えてしまうと、自分を見失う。

親しい人と口喧嘩をした後に落ち込まない人などいない。

落ち込まなければその人とは心が触れ合って生きていないのである。

心理的に正常であれば、心理的に健康であれば、落ち込む。

イヤな気持ちになる。

数日後にはお互いに気持ちよくなれると思っても、それが今の落ち込んだ気持ちが解決出来る訳ではない。

それが人間である。

親しい人といさかいをすれば誰でも暗い気持ちになる。

いつもいつも明るい気持ちでいられる人などいない。

そして誰でも暗い気持ちになりたくて暗い気持ちになる訳ではない。

明るい気持ちでいられればどんなに良いだろうと思いながらも、やはり喧嘩をすれば暗い気持ちになってしまう。

「これではいけない」と思いながらも暗い気持ちになる。

もっと優しくならなければと思いながらも優しくなれない。

誰だって「助けてくれー」と叫びたくなる時がある。

そして誰も助けてくれないで、暗い絶望の淵に追い込まれる時がある。

情緒的に成熟していったって、「どうしてオレのことを分かってくれないんだ」と心理的にパニックになりそうな時がある。

周りの人は自分のせっぱ詰まった状況を理解してくれないと追い込まれた気持ちになり、自分一人で危機意識を持って、心理的にパニックになりそうな時がある。

そんな時に、「もし私が『自分らしさ、自分らしく生きる』を見つけていれば、こんなにイライラしない」と解釈するのはおかしい。

誰でも周囲の無理解で気がおかしくなりそうな時はある。

人はいさかいをしたくていさかいをする訳ではない。

「自分探し症候群」の人は、基本的に人間について誤解がある。

生きることは誰にとっても辛い時がある。

「自分らしさ、自分らしく生きるはどこにいる」症候群になっている人は、本当にせっぱ詰まった状況に追い詰められた体験がない。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人は自分が逆に周囲の人をせっぱ詰まった状況に追い込んでいるという側面があるのではないだろうか。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからないひきこもりの親たちや、ニートの親たちはもう心理的に限界にきている。

親たちをそこまで追い込んでいながらも、自分達はそのことに気がつかないで、「自分らしさ、自分らしくはどこにある」と叫んでいる。

もちろん「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからないひきこもりの親たちや、ニートの親たちには責任がある。

そうした意味でお互いに親子で共食いをしているような関係であろう。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人は早くこの状態を脱出しなければならない。

自分らしさ、自分らしく生きるが分からない人の自分を見失う

自分探しをしていて、「自分らしさ、自分らしく生きるが見つかった」と思ったけれども、実は全く反対で「自分を見失った」だけということがある。

「自分らしさ、自分らしく生きる」を見つけたというのが錯覚の場合、いよいよ迷路に入り込む。

「自分らしさ、自分らしく生きる」を見つけるためには、自分に責任をもたなければならない。

無責任のうちは自分探しをしても「自分らしさ、自分らしく生きる」が見つかることはない。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人が見つかったと思うのは、錯覚である。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人は逆に自己消滅とさえ言える場合もある。

ヒトラーの第三帝国の演出者と言われるナチス宣伝相ゲッベルスのことを書いた本がある。

そこでは「そもそもゲッベルスのようなあらゆることが見えてしまう明晰な頭脳が、ヒトラーごときの命ずるがままになるなどということがありえようか?」と疑問を投げかけた後に、次のように答えている。

「ヒトラーの人格の中にゲッベルスは多くの歳月、無意識のうちにたずねあぐねていたものを見出した。

一切の責任からの解放、決断に追い込まれるという煩わしさからの解放、そして自己自身からの最終的な逃亡」

ゲッベルスは「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない「自分探し症候群」で不安なのである。

そしてヒトラーとの関係に絆を見出した。

ゲッベルスは、ヒトラーと出会った時に、とうとう「自分らしさ、自分らしく生きる」に出会えたと思ったに違いない。

「これで私は救われた」と思ったであろう。

しかし心理的にはこの時ゲッベルスは、「自分らしさ、自分らしく生きる」を完全に自分の意識から追放出来たということである。

本当の「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない彼のヒトラーに対する感情をどう評価するか。

それは本当の「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない彼の極度な依存性から生じたものであり、無力感であろう。

彼の言動は、その「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない無力感の克服のための言動であり、依存性を満足させるための言動であろう。

よく「自分の頭で考えろ」と言うが、「自分らしさ、自分らしく」がみつからない人が「自分の頭で考える」ということが可能であるためには、まず自分自身の人生に責任を負うということが出来るまでに心理的に成長していなければならない、ということである。

なぜ高学歴の人がカルト集団にのめり込んでしまうのか?

オウム事件の時に、多くの人が『ゲッベルス』の著者と同じように、「なぜ高学歴の人がかくも易々と麻原ごときに騙されてしまうのか?」と疑問を投げかけた。

このような発言は「考えること」は情緒的に未成熟な感情から自由だという前提にたっている。

「考える」というすぐに頭で考えることだと思いがちだが、「考える」ということは決して頭だけで可能なことではない。

少なくとも頭が働く条件として心理的成長とか情緒的成熟というものがある。

オウム裁判で裁判官が「自分の頭で考えるように」と被告達に言ったと伝えられる。

しかし信者に母親固着がある以上、それは無理である。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない権威主義的人間には判断力がない。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない彼らにとっては「考える」ということは、近親相姦的固着を合理化するためのものでしかない。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからないゲッベルスと同じように社会的問題を起こす新興宗教の信者集団は、「自分探し症候群」である。

そして「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人はカルト集団に出会った時「自分を見つけた」と思う。

しかし「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人はこの時に、実は完全に自分を放棄したのである。

その時に「自分らしさ、自分らしく生きる」を見失ったのである。

こうした宗教は、「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人が現実をいかに生きるかを教える宗教ではなく、現実からいかに目を背けて生きるかを教える「宗教」である。

「自分らしさ、自分らしく生きる」が見つからない人の母親固着とは

「万一、人間が―男も女も―その生涯を通じて『母なるもの』を見つけることができれば、その生涯は負担と悲劇から解放されることになろう。

人がこれほど容赦なくこの<幻影>(fata morgana)を求めて駆り立てられるということは、驚くにたりるだろう」

ある「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人は母なるものの代理を国家に求める。

また別の「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人は母なるものの代理を宗教に求める。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人は多くの場合この母親固着のエネルギーは執着のエネルギーになる。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人は勤勉な執着性格者のエネルギーがこの母親固着のエネルギーである。

家庭を犠牲にして仕事、仕事と騒いでいた「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない一時代前の猛烈サラリーマンのエネルギーがこの母親固着のエネルギーである。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人は現実の母親から得られなかったものを仕事とか会社とかから得ようとしているのである。

だから「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人は会社のスキャンダルで、会社を守ろうと「会社は永遠です」と叫んで自殺していったビジネスパーソンがいるのである。

そう叫んで自殺していった「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからないビジネスパーソンにとって会社は「母親」なのである。

「会社は永遠です」という叫びは、「おかーさーん」という叫びである。

母なるものを持った母親から愛された人が、何で会社のスキャンダルで「会社は永遠です」と叫んで自殺していくだろうか。

それは「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからないイスラム原理主義者が「神は偉大なり」と叫んで死んでいくのと同じである。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人の母親固着のエネルギーの不可思議は、近代の合理性などで律しきれるものではない。

まさにエーリッヒ・フロムが言うようにそれはフロイトの考えた性的欲求よりもはるかに強度で、かつ根源的なものである。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人の合理性というのは母親固着が解決した後で有効に働くものである。

そこを理解しないと「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない、カルト集団もテロリストも政治的過激集団も、家族も何もかもを犠牲にして働くビジネスパーソンも理解出来ない。

「確実性と防衛と愛情を与えてくれる力を、狂気のごとく希望することよりも、より自然なことが人間にありえようか?」とフロムは言う。

人は安全と確実を確信できるものを得るためなら、そのために猛烈なエネルギーを注ぐ。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからないテロリストのエネルギーはこのフロイトの言う母親固着のエネルギーである。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからないテロリストも自分のコンプレックスとか淋しさを「イスラムの大儀」で癒そうとする。

母なるものへの願望を満たされた者はこのような愚かなことをしない。

しかし「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人は人生の危険と負担を十分に背負いきれない大人にしてみれば、何か確実なものが欲しい。

フロムが言うようにまさに幼児だけが無力で確実性を求めているのではない。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない大人も同じなのである。

世界で最も恐れられていたテロリストのウサマ・ビン・ラディンは自分の行動の動機を「宗教的信念」と主張しているようであるが、この宗教的信念というのが「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない「母なるもの」の代理満足である。

そしてこの「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからないウサマ・ビン・ラディンのアメリカ人を殺すという情熱こそがフロムの言う「母親に対する愛着―一般人には滅多に完全に克服されない愛着―には巨大なエネルギーが内包されている」というエネルギーのことである。

フロイトが述べたごとく人は生まれながらにしてこの近親相姦願望を持っている。

母なるものへの願望である。

これが仏教で言うところの煩悩のもとである。

この煩悩を一気に解決してくれるのがイスラム・テロリズムであり、カルト集団であり、政治的過激集団であり、「自分らしさ、自分らしくはどこにある」と悩んでいる人が見つけた「これこそが、自分らしさ、自分らしく生きるだ!」である。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人はイスラム原理主義という思想を「母なるもの」の代理として求めた時に、イスラム原理主義はイスラム・テロリズムになるのと同じように、「自分らしさ、自分らしくはどこにある」と言う考え方を「母なるもの」の代理として求めた時に、「自分らしさ、自分らしくはどこにいる」という考え方は、その人の人生を破滅に導く。

近親相姦的衝動は、「男女ともに最も基本的な熱情のひとつであり、それには人間の防衛本能、自己のナルシシズムの充足、責任、自由、意識性に随伴する負担から逃れようとする渇望、無条件の愛への希求などが含まれる。

こういう欲求が一般には幼児に内在することは事実であり、母親がそれを充足させてくれるのである」

「無条件の愛への希求」とは自分の無理難題を解決してくれる人への希求である。

大人になってそんなことをしてくれる人などいるはずがない。

でも「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人はそれを求めている。

だから幼児だけが無力なのではない。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない大人も同じである。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない大人も「確実性と防衛と愛情」を与えてくれる力を狂気のごとく求めている。

いやむしろ「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない大人になればなるほど困難なことに直面するから、それを求める。

近親相姦願望が満たされていなければ、「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない大人になればなるほど母なるものを求めると言ってもいい。

先にゲッベルスのことについて記したが、同じことが「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからないナチスの若者達にも言える。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない彼らがヒトラーに出会った時に何を感じたか。

「自分の一生を捧ぐべき大義名分を持つことが出来た」、「私の生活に意義と目的とを授けてくれた」。

「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人の政治的過激集団やテロリストに限らず、狂信的集団と言われるものがどの社会にもある。

それがまさにフロムの言うように、「自分らしさ、自分らしく生きる」がみつからない人が母なるものを「狂気のごとく希望する」姿である。

しかし生きていることの確実性とは毎日のたゆまぬ努力から感じられるものである。

自己実現を目指して日々をきちんとリズムに乗って規則正しく生きれば心の安定感は得られるし、確実性を感じることが出来る。

※参考文献:「本当の自分」はどこにいる 加藤諦三著

 

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