無価値感の強い人は、自分の内面を大事にするよりも、外界に焦点を合わせがちである。

これは、自分の感覚・感情・欲求への信頼を放棄することである。

したがって、自分の感覚・感情・欲求への信頼を取り戻すことが、無価値感から抜け出る道である。

なおざりにされる感覚・感情

無理しても笑う苦しみ

赤ん坊は感覚で生きている。

不快になると全身で泣き、訴える。

赤ん坊の泣き声は、あの小さな身体との比でいえばとてつもない大声であり、強烈な自己主張である。

成長とともに、あるがままの感情を表出することを抑えるように求められる。

泣くのではなく、言葉に置き換えることを求められる。

叫ぶのではなく、説明するよう求められる。

感情を抑えるだけでなく、偽りの感情を表現することさえ求められる。

家で沈んだ顔をしていると、「明るい顔をしてなさい」と叱られる。

嬉しくないプレゼントをもらっても、嬉しがることを求められる。

英語では「嫌な相手」に対しても「お会いできて嬉しいです」と挨拶しなければならない。

社会的場面で感情はいっそう軽んじられる。

「勉強する気分じゃないので」と、先生の指示に従わないことは許されない。

「行きたくない」という感情を理由に学校を欠席することはできない。

だから、死にたいほどつらいのに、学校に行き続ける子どもがいる。

会社で「仕事する気分ではないので」という理由で休暇が許可されることはない。

だから、「風邪を引いた」とか、「親戚が亡くなった」など、感情意外の理由をつけねばならない。

マイナスの感情を抑えるだけでなく、プラスの感情を表出する人ほど、社会的に高く評価される。

このために、感情と表出との間に乖離ができる。

内心は顔も見たくないほど嫌な相手に対しても、笑みの表情筋を作動させる。

腹の底では怒りが煮えくりかえっているのに、穏やかな表情を装う。

悲しくても笑顔を見せる。

感情は出さない方が楽?

親が気分を害すると、子どもは不安で不快な状態に置かれる。

このために、敏感な子どもは、親がちょっと表情を曇らせるだけで、自分の感情を隅に追いやってしまう。

それが日々の生活のなかでの対処様式になり、自分が感情を抑圧しているということを意識出来なくなってしまう。

「わざと大きな音をさせて、ドアを閉める」「閉じこもる」「返事しない」「いやみを言う」「陰で悪口を言う」などを、本人は怒りの表出と考えている。

そうではなく怒りを抑えた行動である。

えさを横取りされそうになった動物は、相手を威嚇し、攻撃し、追い払う。

このように、怒りの表出とは本来の対象に向けて攻撃することである。

もっとも、このレベルでの行動が許容される場合は、まだよい方かもしれない。

それさえ許されないで育つ人もいる。

これには両極端の養育がある。

一つは、親に口答えさえ許されないほど厳格な家庭の場合である。

このとき子どもは面従腹背の態度になり、親への敵意は代わりの者に向かう。

自分より弱い者に怒りをぶつけるとか、教師や上司など親と同一化した対象に反抗するなどである。

より根が深いのは、罪悪感に訴える表面上穏やかな養育である。

こうした家庭では、お互いの関係が微妙な感情の調整で成り立っている。

親がちょっと表情を曇らせるだけで、子どもに十分その意図が伝わる。

親を悲しませるとか、親の感情を乱すようなことは許されないことであり、親に対して怒りや憎しみ、恨みの感情を抱けば罪悪感が生じる。

このために、そうした感情そのものを自分の心から排除しようとするメカニズムが働く。

こうして、怒りや憎しみ、恨みを自分の生身の感情として体験できなくなってしまう。

鋭い感性を持つある女性は書いている。

「負の感情を人にぶつけても、結局、自身がその感情から解放される事はなく、余計に後悔するばかりだと経験で知っているから、そういう感情が涌いてこないのです。」

こうした感情は、抑鬱気分として変質する。

幼い頃、叱られたり、罰せられたとき、泣いて泣き疲れて、やがてぼんやりと沈んだ抑鬱状態になったことを覚えていることだろう。

抑鬱の本来の感情は、怒り、悲しみ、恨み、憎しみ、絶望、恐怖、無力感などである。

心も身体もそうした感情を叫びたがっているのにそれが表出できないので、意識を鈍化することで自分を守ろうとするメカニズムなのである。

感情の抑圧は外界への服従

ダマシオを始めとした感情の研究者は、感情には三段階の生理・心理的プロセスがあり、感情が生じることと、感情を意識することとは異なることを明らかにしている。

まず、刺激を脳が評価すると、それに対応した生得的ないし学習性の身体的変化が自動的に生じる。

刺激が危険と評価されると交感神経が興奮し、筋が緊張し、心臓・血管系は拍動を増し、アドレナリンなどのホルモンが分泌され、血圧が上昇する。

こうした身体変化が脳に刺激として伝わり、より上位の脳神経を刺激して、「感情」の表象を生じさせる。

「感情」の表象とは、その感情に対応する脳部位の活性化のことである。

この感情の表象を意識することで、「私は怒っている」とか、「不安だ」などと感情を意識的に体験するのである。

感情の抑圧や変質とは、この感情を意識する作用を断わってしまうことである。

一般に大脳皮質は下位の中枢に対して抑制的な機能を果たす。

たとえば、怒りで殴りかかりたいのをじっと抑えて、社会的に容認される言葉で表出するのは大脳皮質の働きによる。

したがって、生理的・身体的レベルで怒り反応が起きていても、これをフィードバックとして受け取る大脳皮質レベルでブロックするということが起こるのである。

身体レベルでは感情が生じているのに、意識的なレベルではそれをとらえていないという事実は、多くの実験で明らかにされている。

たとえば、非常に不快な言葉をスクリーンに瞬間提示するという実験では、提示された言葉を意識ではそれと認知できないうちから、発汗するなどの生理的反応がはっきりと不快反応を表している。

自分の感情を抑圧することは外界に服従することであるから、無力感や無価値感が伴う。

とりわけ、怒りの感情の抑圧は、無力感、恨み、屈辱感などに変質し、自己価値感を大きく蝕む。

普段おとなしい人でも、激しい怒りが生じたときには思わず手が出るように、怒りの感情は力を与える。

怒りの感情を抑圧することはその力を放棄することであり、怒りの感情を発揮できないと、いっそう服従的になり、いっそう無力になっていく。

感情を抑圧しなければならない家庭では、体験さえも変質させねばならないことがある。

たとえば、親の身勝手さから子どもに要求したことでも、子どもは親の愛情によるものと受け止めなければならない。

このことは精神的に大きな負担になるので、そうした体験自体が存在しなかったものとして、意識から排除してしまうこともある。

自分の感情についての意識を弱めることは、自分の身体に対する感受性を低下させることにもなる。

好き・嫌いや快・不快といったことばかりでなく、疲れ、空腹、暑さ・寒さなどの体感も鈍くなる。

このために、自分の満腹感ではなく、カロリー計算や見た目の量によって食事量を調節する。

自分の体感によって暑さ寒さを判断するのではなく、寒暖計を見て判断する。

疲労感を働いた時間の長さで判断するなどのことが生じる。

エネルギーを自らの幸せのために

快と幸福のためのもの

感情・意志・思考・努力は、本来、快や幸福を得るためのものである。

まず、感情は、私たちの人生の基本的な方向や目標を決める基準となる。

誰と親友になるか、この人と恋愛するか、この人と結婚するか、離婚するか。

いかなる職業を目指すか、現在の職にとどまるか転職するか。

こうした人生の大事な場面での決定の決め手になるのは感情である。

さらに、どの服を着ていくか、今晩何を食べ、どのテレビ番組を見るかなど、日々のちょっとした行動を決めるのも感情である。

したがって、自分の感情をしっかりとつかむことが、自分を生きる出発点になる。

意志とは、感情によって措定された方向に自らを導く精神的な力である。

換言すれば、目標の現実に向けて私たちを動かすエネルギーである。

目標が内発的欲求に沿っていれば強い意志を必要としない。

また、この場合には、たとえ強い意志が要求されてもさほど苦痛ではないし、むしろ快感として体験できる。

思考とは、意志が使用する一種の道具であり、目標へ到達するための方法を見出す機能である。

たとえば、テーブルの上のお菓子が欲しいのにどうしても手が届かないとき、子どもは思考して椅子を動かし、それに乗ってお菓子を手に入れる。

成長とともに、意志は、社会的価値の達成に向けて、自分の心と行動を意識的にコントロールする努力となる。

そして、「努力家である」とか「何事にも真面目に取り組む」など、努力そのものが価値ある行為と評価され、努力自体が意志と努力の対象ともなる。

努力の継続的な発揮が勤勉さである。

勤勉さは、安定した職業生活や幸福な家庭生活の必要条件である。

感情の歪みが苦痛な努力へ向かう

このように、感情・意志・思考・努力は、本来、私たちの快感と幸福に奉仕するものである。

ところが、この基本となる感情が歪んでしまうと、意志・思考・努力は不快や苦しみを生じる方向へと向けられてしまう。

たとえば、母親との愛情関係がうまく結べなかった愛着障害の子どもは、意志や思考、努力を過度の自制や自立に向けてしまうことがある。

有名なエインワースらの新奇場面実験によれば、こうしたことがわずか二歳の幼児にも見られることが明らかになっている。

この実験では、幼児と母親が観察室に連れてこられ、母親がいったん部屋から出て、しばらくして戻ってくるという状況で幼児の反応が観察された。

母親との安定した愛情関係が形成されている幼児では、母親が部屋を出るとき泣くなどの不安反応を示すが、母親が戻ってくると喜んで母親にすがりつき、感情もすみやかに安定する。

ところが、15%から20%ほどの幼児は、母親と別れるとき泣きもせず、母親から適切で十分な養護が与えられないことに起因すると考えられている。

回避型愛着の幼児は、「平気さ。一人でなんでもできるもん。」あたかもそう言っているかのようである。

しかし、この子の心は強さではなく、無力感という感情、英語ではfeeling of helplessness、すなわち孤立無援という感情が支配しているのである。

母親に対して十分な愛着が形成されていないと、子どもはしつけを愛情としてではなく、屈従として受け止める。

そのために、成長してからも他者からの要請や忠告に従うことを屈辱と感じ、反抗心として意志を発揮する反抗性性格になることがある。

あるいは、大事なことを自分だけで決めてしまうとか、早期に家を出るとか、早い結婚をするなど、意志や努力を親からの解放と自立に向ける場合もある。

他人の評価が自己価値になる人

親の愛情が子どもの努力によって得られるような養育環境では、身体的要求や快感に反する方向へと意志と努力を強めてしまいがちである。

こうした環境では、自分の存在そのものに価値を実感できず、努力の成果として与えられる評価こそが自己価値を証明するものになる。

このために、地位、評判、名誉、収入、権力など、もっぱら社会的価値の達成に意志と努力をつぎ込むようになる。

フリードマンらが心臓血管系の病気にかかりやすいとして提唱したタイプA性格はこの一つの典型である。

このタイプの人は、精力的で、競争心が強く、常に切迫感に追われて仕事をしている。

本人は、社会的価値を重要視しているので、こうした行動が生き甲斐になっている。

固い意志を表すかのように、彼らは肩をいからせ、眉間にしわを寄せ、口を固く結び、全身を身構え、足早に大股で歩く。

大きな声でしゃべり、口調は攻撃的色彩を帯びる。

こうした行動パターンは、常時交感神経が緊張している状態であり、そのために心臓・血管系の疾患にかかりやすいものと考えられている。

タイプAの人は、自信に満ち、確固とした自己価値感を持っているかのように見える。

しかし、強迫的なこうした行動は、無価値感を状況的自己価値感によって必死に補おうとする姿であることが少なくないのである。

意志と努力が、もっぱらいい人であることを証明することに向けられる人もいる。

自分の心地よさを犠牲にしても、他の人の心地よさに奉仕する義務があるかのように行動してしまう人である。

こうした人は、「ノー」と言えず、なんでも引き受け、強い意志はもっぱら自制心として発揮され、努力は物事をやり遂げる力として発揮される。

周囲からはいい人と評価され、尊敬される存在になることが多いが、便利屋として利用されているとも言える。

このために、被害者意識を持ちつつこの役を演じていることがある。

意志と努力を内発的目標に向ける

苦しい努力に自分を追い込んでしまう人は、「他の人と同じでは駄目」「優れなければ認めてもらえない」「がんばらなければ存在が許されない」というような思いがある。

「がんばっていないと、自分が崩れてしまう」という不安が含まれることもある。

しかし、そうした人に怠け者はいない。

むしろ、意志が強く努力家で勤勉な人である。

その意志と努力が自然な生命の流れに逆らう方向に向けられているためにストレスになるのである。

だから、意志による強固なコントロールを手放すことを心がけることである。

「特別な存在にならなくていいのだよ」「今のままでいいのだよ」と。

そして、努力の方向を内発的な感情に沿うように向けなおすことである。

自分の内から発した目標へ向ける努力は快感であり、大きなエネルギーを与えてくれる。

勉強のため学校に行くのを嫌がる高校球児が、甲子園に行きたいがために真夏の猛練習にも嬉々として出かけていく。

家で勉強すると二時間も続かないのに、曲作りに熱中して徹夜してしまう。

ある不登校気味の学生は、ボランティア活動では生き生きとして、中心的役割を担っていた。

いつでも未来のためだけに努力するのではなく、「今、ここ」を楽しんで生きる努力をすること。

それが自然に未来の充実につながる努力となる。

自分の感覚を信じる

自分の感覚、感情を信頼できるようになる、とてもシンプルな方法がある。

1.「好き・嫌い」から出発する

感覚や感情の大元は「快・不快」や「好き・嫌い」である。

ところが、幼いときから「好き・嫌い」をあからさまに表明することや、「好き・嫌い」で行動することは望ましいことではないとされてきた。

このために、「快・不快」の感覚や「好き・嫌い」の感情自体が希薄になっている人がいる。

したがって、まず、これらを意識することから始めることである。

自分を取り戻すのに「これは好き」「これは嫌い」というところから始め、割合うまくいった人も多い。

2.主語を意識する

私たち日本人は、ほとんどの会話を主語なしで済ませている。

主語の省略は、自分という主体意識を薄めてしまう。

だから、「私が」「私は」と、主語を意識的に用いるようにすると、自分の感覚・感情の明確化に役立つ。

選択を問われたとき、「どちらでもいい」とか「あなたが決めて」と言わないで、自分の心に問いかけて「私はこちらがいい」「私はこうしたい」「私はこれが嫌」とはっきりと言うようにしよう。

絵画を鑑賞するとき、無名の作者の絵でも自分がよいと思えば、「私はこれが好き」と言い、逆に、どんなに有名な絵を見てもいいと感じなければ、「私はいいとは思わない」「私は好きじゃない」と言おう。

3.感想を言葉にする

例えば絵画鑑賞の場合であれば、「いいな」「好きだな」に加えて、感じたことをできるだけ言葉にするようにする。

自分を表現することを抑制してきた人は、感想を持つことに困難を覚える。

講演会の後などに感想を書いて提出することを求められると、困ってしまう。

それで、自分には表現することそのものがないような気持ちになっている。

できるだけ感想を意識化し言葉にしてみることで、そうした抑制を取り払うことができる。

本来持っている豊かな感性を開くことができる。

テレビ番組で、コメンテーターがコメントする形式が多くなっている。

自分がコメンテーターになったつもりで、自分の感想や意見を表現してみるのも有効である。

感想は苦手でも、こうしたコメントは得意な人がいる。

それは知識量や理解力、分析力に依存するからである。

4.思い切って退行してみる

感情の抑圧を振り払うためには、思い切って退行してみることが有効な場合もある。

カウンセリングにおいて、女性の相談者は泣くことが多い。

泣くことは幼い子どもに戻ることであり、カタルシス効果がある。

カウンセリングの間中泣いていて、それだけですっきりして帰るというケースも稀ではない。

自分の幼い頃の感情に触れることが耐えられないために、泣くことができない人がいる。

自分のことで泣けないと、他の人のために泣くこともできない。

相手のために泣くということは共感することであり、優しさであり、愛の心である。

だから、泣けないこととは、愛に素直になれないことである。

赤ん坊は大声で泣き、子どもは野外で大声を出して遊ぶ。

大人になると、大声を出すことは抑制され、その機会もほとんどない。

大声を出すことは一種の退行であり、自己抑制を解除する働きがある。

大声を出すために大きく息を吸い込んでいるので、多くの酸素が体内にとりこまれ、身体が活性化される。

スポーツの応援や飲み会の場などでもいい、思い切り叫んでみる。

思い切って怒鳴ってみる。

すると、自分が強くなった感じがする。

自分を主張できる気持ちになる。

5.体感から感情を意識する

自分の感覚や感情を信頼するためには、それらに気づくことが必要である。

感情は自分で意識していなくても、何らかの形で身体に現れる。

たとえば、ふと心配事が頭をかすめると、手の平には発汗作用が現れる。

嫌悪や不安を隠して笑っていても、目の周辺の筋肉はこわばっている。

このように、身体のちょっとした変化や違和感は、何らかの感情のサインであることが多い。

しかし、通常我々はそんな違和感を無視している。

その身体的違和感を受け入れて内面と照らし合わせてみると、ないがしろにしている感覚や感情に思い当たることがある。

  • 胃にちょっとした痛みが走ったのは、あの心配事が頭に浮かんだからだ。
  • 腹に熱いものが込み上げたのは、怒りの感情を抑えたからだ。
  • 目にかゆみを感じたのは、泣きたい気持ちが湧いたからだ。
  • 鼻の奥がむずがゆくなったのは、悲しみの気持ちが起きたからだ。

このように身体感覚に素直に向き合うことで、自分の中で起きている感覚や感情により敏感になることができる。

6.感情の自覚と行動

自分を取り戻すためには、感情を明確に自覚して、多少の軋轢をもたらしても自分の感情に沿う行動をするように、と勧める専門家もいる。

しかし、感情をしっかりと自覚することは大事だが、それをそのまま行動に結びつけることを推奨するものではない。

自分の感情に沿った行動をすると、他者や組織にぶつかることが多い。

自分を主張したり、相手の要請を拒絶したりすると、より多くのストレスにさらされる。

だから、現在の自分の強さや、自分の信念の強さに合致する程度の自己主張にとどめる方が賢明である。

大きなストレスを覚悟してでも自己主張しなければならないことなど、どれほどあるであろうか。

先に「好き・嫌い」から出発することを述べた。

むろん、人間関係において「嫌い」という言葉は禁句である。

一方で、「嫌い」という気持ちを曖昧にごまかして接すると、相手のペースに巻き込まれ、自分がかき回されがちである。

しかし、「嫌い」という自分の気持ちをきちんと確認した上で接するならば、この線までしか踏み込ませないなどと、自分で方針を決定し、関係の主導権をとることができる。

「嫌だな」と思っても、社会で生きていくためには、やらねばならないことの方が多い。

だから、嫌という自分の感情をごまかさずに受け入れて、嫌という感情と裏腹な行動を「進んでする」ということを排除する。

また、やりたくないけれどもやらねばならないことについては、新たな意味付けをするなどして、自分なりの心の整理をつけることである。

たとえば、嫌な上司の説教でも、これも給料のうちだと思えばなんとか我慢できる。

自分の忍耐力を育ててくれる上司だと意味づければ、ありがたい教えに変わるかもしれない。

明確に意識し、意味づけを替えることで、「嫌だ」と思っていたことが、「まあ、それでもやるしかないさ」と吹っ切れる。

自己信頼の行動を積み重ねる

あるがままを心がける

自信には大きく分けて二種類ある。

一つは「〇〇ができる」という自信である。

これは、限定的な領域での自信である。

たとえば、「勉強ができる」ことは、生きていく自信とは直結しない。

容貌やスタイルで「異性を惹き付けることができる」という自信は、仕事での自信に結びつかない。

自己価値感との関係でいえば、この自信は、状況的自己価値感と結びつくものである。

もう一つの自信は、「自分を信頼している」という自信である。

すなわち、〇〇ができるとか、身体的魅力があるとか、そんなこととは無関係に、自分を存在自体として信頼していることである。

そして、これこそ基底的自己価値感の強化に結びつく自信である。

自己信頼という本来の自信をつけるには、自分を信頼する行動を積み重ねていくことである。

具体的には以下のような行動を心がける。

見栄を張らない

無価値感が強いと自分をよく見せようとして、つい見栄を張ってしまいがちである。

たとえば、知らないことなのに、知っているかのように反応してしまう。

無理に強がってあとで後悔することをしてしまう。

本当はつらいのに、平気と言ってしまう。

見栄を張るのは、あるがままの自分を信頼していないことである。

自己防御の姿勢を解く

無価値感が強いと、傷つくことを恐れて無意識のうちに自己防御の姿勢をとっている。

たとえば、仕事のことでは(後で責められないように)前もって言い訳をする、(失敗しても自己価値感が傷つかないように)最初から逃げ道を作っておく。

人と接するときには、相手を理解しようとするよりも、バカにされないようにと身構える。

自分の弱みも自分としてさらけ出すのが、自分を信頼するということである。

その場しのぎの行動をしない

現在の場面の緊張に堪えるのが苦痛なために、つい、その場しのぎの行動をとってしまうことがある。

たとえば、ちょっとしたトラブルが生じて、なかなかその担当者が決まらないとき、「その件は、後で私が処理しておきます」などと言ってしまう。

こうした行動は、見かけとは反対に、自分を貶める行動である。

なぜなら、自分を他者と同等ではなく、犠牲者の位置に置くことだからである。

こうしたとき、その場しのぎの行動をしないことこそ、自分を他の人と同等の者として信頼することなのである。

回避行動をとらない

傷つきが予測される場合に直面するのがつらくて、回避行動をとってしまうことがある。

たとえば、職場の飲み会に何か理由をつけて欠席するとか、同僚と一緒の電車にならないように退社時間をわざとずらすなどである。

回避行動は一時の救いになる。

そのために頻繁に用いられるようになり、社交的能力が形成されず、人のなかにいることにますますストレスを感じるようになる。

また、回避行動をすると、その行動を正当化しようとする心理が働く。

「飲み会など時間の無駄」とか、「本当はあの人も一緒の電車にならない方がいいと思っている」などと。

そうした正当化は自己欺瞞だと心の隅で意識しているので、自己嫌悪も湧いてくる。

このために回避行動をとった自分がよけい惨めに思えてくる。

多少つらくても自己成長の機会と考えて立ち向かっていこう。

もし、現在の自分には耐えられそうになければ、「回避行動をとる」と明確に意識してそうすること。

そうすれば、逃げていると自分を責めることなく、自分の課題として位置づけることができる。

否定的思考を肯定的思考に変える方法

自分を信頼することは、自分の力と未来の姿を信じることである。

それは、希望を持つことであり、楽観主義に通じ困難を乗り越えていく力になる。

逆に、悲観主義や自分の能力への疑惑は、心の中に反対方向へのベクトルを持つことであり、潜在能力の発揮が妨害されてしまう。

それは、五人対五人でぶつかり合っているときに、味方の一人が逆方向に力を発揮しているようなものである。

これでは勝てるわけがない。

このように、同じ能力を持っていても、自己信頼の違いによって成果が異なる。

アスリートが否定的思考を排除して肯定的思考に置き換える訓練をするのはこのためである。

1.否定的思考に気づく

否定的思考を肯定的思考に置き換えるには、まず、否定的思考に気づくことが必要である。

否定的思考は無意識のうちに生じ、反射的にマイナスの感情を引き起こしているからである。

たとえば、朝起床したら、なぜか気持ちが沈みがちだとする。

それは、「今日からのプロジェクトは大変だな」という考えが、頭をよぎったためかもしれない。

しかし、その考えは一瞬のことであり、気持ちが沈みがちなのがその思考のせいだとは気づかない。

このために、どのような否定的思考をしがちであるかがわかれば有効であろう。

その否定的思考(認知の歪み)はこちらを参照

2.肯定的思考を対置させる

否定的思考を意識したら、それに対する肯定的思考を考える。

否定的思考とは非合理的思考であり、肯定的思考とは合理的な思考のことである。

肯定的思考とは、たんに根拠のない楽観的思考とは違う。

たとえば、電話が鳴ったとき、「自分の仕事へのクレームだ」と思うことは、何の根拠もなく非合理的思考である。

「電話に出てみなければ、なんの電話かわからない」と考えるのが合理的思考である。

Aさんからのメールの返信が遅れているのは、Aさんの悪意だと考えるのは非合理的である。

Aさんは、他のことで忙しいのかもしれないし、うっかり忘れているだけなのかもしれない。

あるいは、返信しようとして、いろいろ調べまわっているために遅れているのかもしれない。

自分の落ち込む気持ちに気づき、その原因となっている否定的思考を捨てるだけで、気持ちが変わる。

たとえば、先の例で、「さあ、今日から新しいプロジェクトだ!」と思えば、気持ちが高揚し、活力が湧いてくる。

自分が陥りがちな否定的思考を自覚して、合理的思考をすることを積み重ねることで、否定的思考傾向を抜け出すことができるし、自分の気持ちを快適に保つことができる。

褒め言葉を素直に受け入れる

無価値感が強いと、自分を過小評価するだけでなく、出来具合をも過小評価している。

だから、出来具合を他の人から褒められると、「気を遣って褒めてくれているのだ」と思ってしまう。

そればかりでなく、出来具合を自分で低く評価していると、それをするのが気が重くなるし、なかなか作業が進まない。

小さな成功を積み重ねる

アスリートは苦しい練習を繰り返し、繰り返し行うことで、技を身体に刻み込ませる。

「あれだけ練習したんだから、自分の力を出し切れば大丈夫」と思えるまで練習する。

このように、練習とは自分の力を高めることで、自分への信頼を獲得するためのものである。

心も同じで、練習しないですぐできるわけがない。

できるところから練習して、「できた!」という体験を積み重ねることで、自己信頼に到達できるのである。

そのために、場面場面にふさわしいセルフトークで自分を鼓舞しよう。

「あるがままに徹しよう。」

「ありのままで大丈夫。」

「自分には力がある。」

「自分を信じよう」など。

実際に行動できたら、自分で自分を褒めよう。

「やった!」「グッド!」「オーケーオーケー」などと。

心理学ではこれを自己強化という。

気休めなどと思ってはいけない。

あなたには間違いなく、そこにいていい価値がある。

自分を自然に褒めてあげたくなったら、あなたはもう立派に無価値感を脱したといえよう。

※参考文献:「自分には価値がない」の心理学 根本橘夫著