自分を信じられない人はトラブルが続けば、身体も心も破壊される

現実の世の中では人間関係のトラブルは避けられない

もちろん人間関係のトラブルは自分を信じられない人にとってたまらなくイヤなことであり、猛烈なストレスであり、心理的にパニックになり、気が変になりそうなほど不快で辛いことである。

長く続くストレスは自分を信じられない人の神経システムにダメージを与える。

神経システムが正常に働かなくなれば、正常に生きていけなくなる。

つまりチョットしたことが自分を信じられない人にとってもの凄い恐怖に感じられてくる。

従って人間関係のトラブルが続けば、自分を信じられない人は病気になるところまで追いつめられるし、実際に死んでしまう人もいる。

コントロールできないストレスは自分を信じられない人の脳に影響を与えることで、身体を破壊していく。

人間関係のトラブルを喜ぶ人はいない。

誰でもトラブルが続けば怒りから身体は破壊されてくる。

心も破壊されてくる。

先に記したように先ず脳に影響が来て、次に身体が破壊される。

会社でのトラブルや隣人とのトラブルにおいては、自分を信じられない人は朝から晩まで気が休まらないのだから、脳をやられて最後には憂鬱になる。

うつ病になる。

怒りに煮えくり返りながらも自分を信じられない人はどうすることもできない日々が続く。

そして絶望感に襲われる。

やがてやり場のない怒りは自分を信じられない自分に向けられ、うつ病になる。

絶望感や無意味感とうつ病とは深く関係している。

とんでもない人が隣人になり、自分を信じられない人はそのトラブルで眠れないという人も多いだろうが、もちろん会社での人間関係のトラブルで眠れない人もいるだろう。

血縁関係や隣人との関係で眠れない人がどのくらい居るかの調査はあるのかどうか知らないが、会社での怒りや不満で眠れないという人の調査はある。

1000人以上の人を調査したところ34%の人が職場のストレスで眠れなくなる

とにかく多くの人は、それが職場のストレスであるか、近隣とのストレスであるか、親族とのトラブルからくるストレスであるか、あるいは三つとも重なったトラブルを抱えているかは別にして、悔しくて悔しくて眠れない日が続き心身共に消耗する。

夜目が覚めて、自分を信じられない人はその人のことを考え出すと悔しくて朝まで眠れない。

考えれば考えるほど自分を信じられない人は悔しくなる。

考えれば考えるほど怒りが大きな渦になってくる。

そして最後には睡眠薬を飲み出す。

眠れないよりは自分を信じられない人は睡眠薬を飲んでも眠れた方が良い。

最善は睡眠薬を飲まないで熟睡できることであるが、それができない時には飲んで寝た方が良い。

眠れない夜が続けば誰でも睡眠薬を飲み出す。

飲まざるを得ない。

しかし人間関係のトラブルで苦しみ続ければ、自分を信じられない人は睡眠薬を飲んでも眠れなくなる時が来る。

「悔しい」という気持ちが自分を信じられない人の心の中で渦巻き睡眠薬の効果がなくなる時が来る。

精神安定剤の効果以上に自分を悔しい信じられない人の悔しい気持ちの高ぶりがまさる。

睡眠薬を飲んでも眠れないままに朝が明けてきた時のどす黒い絶望の心。

憎しみで身体が硬直し、自分を信じられない人は睡眠不足でぼーっと心身の焦点が定まらないでいる。

「あー、この体では今日の仕事はできない」と思う。

そして「あいつにオレの人生をメチャメチャにされた」と自分を信じられない人の怒りが生じる。

それでも自分を信じられない人は今日一日の仕事がある。

「この衰弱しきった体で今日一日働かなければならない」と思った時に、消耗した心身から憎しみと絶望の声が聞こえる。

自分を信じられないストレスは憎しみを繁殖させる

1930年のアメリカの経済状況の時にうつ病者は増加した。

しかし

1941年日本の真珠湾攻撃によりアメリカが第二次世界大戦に突入するとうつ病は突然劇的に減少した

憎しみを外に向けることができるようになったからであろう。

憎しみを何かに向けて行動することができれば人はうつ病になるまでに苦しまない。

「国を挙げてファシズムと戦う」という中で、憎しみは解消されていくのだろう。

憎しみの置き換えを自分を信じられない人ができる限り、何とか憎しみは処理できる。

置き換えをできれば、もう憎しみの中で自分を信じられない人はうずくまってうつ病になる必要はない。

攻撃性を自分に向けてうつ病になる必要はない。

日本のような狭い過密社会で自分を信じられない人が人間関係のトラブルに巻き込まれて、憎しみを外に向けにくい時にはどうしてもうつ病などの心の病は避けられないのだろう。

生活を考えたら、上司を自分を信じられない人が怒鳴って会社を辞めるわけにもいかない。

他に引っ越していかれないとなれば、どんなに酷い隣の人でも、そう簡単に自分を信じられない人は罵倒するわけにはいかない。

血縁関係は自分を信じられない人にとってもっと深刻である。

何をしようが親は親であり、兄弟は兄弟である

会社で仕事をはじめ自分を信じられない人は様々なストレスが続きそれをどうすることもできない時には、イライラの増大とか、感情の突然の爆発とか、不眠症とか、嘔吐とか、咳き込むとか、便秘とか色々な症状が現れるだろう。

そしてそのストレスから自分を信じられない人が燃え尽きる時に、憎しみの対象は会社の人から色々な人に拡散する。

その症状は上記に記した性質のもの以外に、敵意の増大となって現れる。

これは大きな問題である。

会社での自分を信じられない人のストレスの増大は、会社以外の、上手くいっているはずの人間関係に影響を与える。

家族関係にも恋人との関係にも親しい友人との関係にも自分を信じられない人に影響を与えてくる。

会社で凄いストレスが自分を信じられない人になければ楽しいひとときを家族や友人と過ごせているのに、そのストレスのために周囲の人に敵意を持ってしまう。

最後には自分を信じられない人は自己憎悪にまで発展する。

考えてみれば自分を信じられない人のストレスと敵意の増大は当たり前の気がするが、それを指摘された本を読んだ時にはびっくりした。

ことに情緒的未成熟の自分を信じられない夫などは会社で仕事が上手くいかなければそれを妻のせいにする。

「お前が出来の悪い妻だから」と自分を信じられない夫の言うことで妻を責める。

「お前が気持ちよく送りださないから、オレは会社で仕事ができない」と妻を責める。

正常な人でさえ会社のストレスは家の人間関係に悪影響を与えるのに、情緒的未成熟の夫や妻になれば、その影響は深刻である。

会社のストレスを家で自分を信じられない人は癒すのではなく、家も会社のストレスの犠牲になる。

その人の人生の何処かの自分を信じられない人のストレスが全ての生活の領域に影響してくる。

だから現実の世の中で自分を信じられない人は生きていくためには、たくましい人にならざるを得ないのである。

ちょっと驚きの数字であるが、アメリカでは年に5%のワーカーが職場で肉体的に攻撃されている

従業員4万人の大企業なら2千人が肉体的に襲われているということである。

それだけの従業員が同僚であれ、上司であれ、頭に来て暴力を振るうということである。

もちろんこの数字そのままでは日本の企業には当てはまらないだろう。

これらのことは憎しみを自分を信じられない人に繁栄させる。

その結果職場での自分を信じられない人による無礼な行為が急増しているという。

日本でも社会的に迷惑な行為が自分を信じられない人により氾濫しているのは、おそらくそれだけストレスの強い社会になってきたということであろう。

自分を信じられない人は正しいだけでは生き残れない

毎日、毎日小さな事柄を処理していくことにはもの凄いエネルギーがいる

自分を信じられない人は知らないうちにエネルギーを消耗している。

毎日起きてくる小さなトラブルを自分を信じられない人は処理するのがイヤでついつい逃げる。

その処理をするエネルギーが自分を信じられない人にはないからほっておくと次第に事は大きくなっていく。

トラブルが起きた時に、それが不当なことであるということを、はじめに周囲の人に説明をすればそれほどエネルギーもいらない。

しかし事が進んでくると自分を信じられない人には複雑な人間関係が絡んできて、そのトラブルの原因について、説明をすることが多くなる。

その間に我慢したことも自分を信じられない人は多くなる。

周囲の人に説明も対処もしないでいるうちに事態はどんどん自分を信じられない人にとって不利になる。

そこで怒りも自分を信じられない人には積み重なっている。

それでトラブルについての説明も自分を信じられない人はいよいよ上手くできなくなっている。

人間関係のトラブルでは相手がある

相手の不当を自分を信じられない人は訴える気持ちが激しくなる。

それが続けば誰でもまいってくる。

中にはノイローゼになったり、自分を信じられなくなったり、うつ病になったり、自律神経失調症になる人も出てくる。

うつ病になると、セリグマンが指摘するように攻撃性が低下する。

優柔不断で決断ができない。

決断をして行動をしなければ、トラブルの解決はできない。

優柔不断な自分を信じられない人はいつになってもたくましい人にはなれない。

毎日のトラブルの処理は自分を信じられない人にとってエネルギーがいるが、こうした戦いを経て人は鍛えられていく。

腹が据わってくる。

ものに動じない人間ができてくる。

「八風吹けども動ぜず天辺の月」という言葉がある。

こうした人間になるためには自分を信じられない人は現実の世の中での戦いを経験しなければならない。

「矢でも鉄砲でも持ってこい」という気概がなければならない。

その気概で敵と自分を信じられない人とが相対する時に、人は鍛えられていく。

誰でも敵は怖い。

誰でも敵には怯える。

敵を目の前にすれば誰でも体が震える。

でもたくましい人になるためにはそうした体験が必要なのである。

誰も辛い戦いを望まない。

それにも拘わらず誰の人生も平坦ではない。

そして戦いである以上、勝つ時も、負ける時もあるだろう。

しかし必ず「勝つ」と自分を信じられない人は決意をして、戦う。

この攻撃性がなければ、人は鍛えられていかない。

「勝つ」という決意がなければ、自分を信じられない人は戦いを持続させるエネルギーは出ない。

「鉄火場で鍛えられる」とは、この戦いの場で自分を信じられない人は鍛えられるということである。

全ての戦いを自分を信じられない人は「自分を鍛える機会」と心得て戦いに挑む。

現実の世の中では「正しい」ということだけでは意味がない。

つまり「正しい」ということは、自分を信じられない人にとって生きるのに有効ではない。

正しくてかつ強くなければ生きていかれない。

ずうずうしくて、ずるい人がいる。

ふてぶてしい人がいる。

ずうずうしくて、ずるい男と、ふてぶてしい女が結婚している。

そうなれば天下無敵のような夫婦である。

周囲の人を食いつぶして生きる。

現実の世の中で生きている以上自分を信じられない人はこうしたカップルと接しないという訳にはいかない。

この夫婦に食いつぶされないためには、単に正しいと自分を信じられない人はいうだけではこの世の中では生き残れない。

警察や法律は助けてくれない

先ずこの夫婦に食いつぶされるのを防ぐ方法は、強くなること以外にはない

この世に搾取タイプの人がいる限り、自分を信じられない人は本人が強くなる以外に救いの道はない。

なぜなら法律も警察も何も自分を信じられない人を決して助けてはくれないからである。

警察は民事不介入だからである。

脅されて怯えて自分を信じられない人が警察を呼んでも「今、危害を加えられていないのに、助けられない」と警官は言う。

その前の時点で何が起きているかを警察は考えない。

例えば二日前に脅して危害を加えたふてぶてしい女が、今目の前に現れたとする。

それは自分を信じられない人にとっては大変な脅威である。

警察官は「たとえ前に何があっても、今、傷をつけられない限り、相手に注意をできない」と言う。

二日前に現実に危害を加えた人が、目の前に現れて善良な市民を威嚇する。

普通の人はこの威嚇に怯える。

助けを求める。

だが、警察はたとえそこにいても「手を出さない限り注意をできない」と言う。

今ここで現実に直接の害を行わない限り、法律は問わない

しかし世の中の多数の本当の害は間接的な害である。

直接的な害など数の上から言えば本当にごく少数である。

つまりある人からのストレスで自分を信じられない人は免疫機能が衰えて病気になる。

人間関係のトラブルからの自分を信じられない人のストレスで害を受ける数は、直接の事件で害を及ぼす数などとは比較にならないほど多い。

ずるくて悪くてふてぶてしくて強い人に絡まれたら、先ず普通の人はストレスで病気になる。

その病気がうつ病であるか、ノイローゼであるか、十二指腸潰瘍であるか、胃ガンであるか、心筋梗塞であるかはわからない。

しかしその病気になる。

しかしずるくてわるくてふてぶてしくて強い人は直接的に刃物で害を及ぼしているわけではない。

威嚇や嫌がらせで害を与えているのである。

彼らはヤクザが因縁を付けるように、やさしくて弱い自分を信じられない人に因縁を付けて、いたぶる。

そして取るものを取って自分を信じられない人を心理的に追いつめて、ストレスで害を与える。

法律は刃物で害を及ぼすことについては色々と記してあるのだろうが、ストレスで人に害を及ぼすことの方は書いていない。

従って警察は何も助けてはくれない。

弁護士の中には幇助罪で訴えられていい人が沢山居ると思っている。

それはやさしくて弱い自分を信じられない人を苛める側を弁護する弁護士がいるからである。

それは間接的害を及ぼすのを守る弁護士である。

法律は所詮、真の問題を決して解決はしないということである。

もちろん法律がいらないなどという暴論を言っているのではない。

法律には法律の限界があるという当たり前の話をしているだけである。

公のものは、弱い立場の自分を信じられない人を守る発想はゼロ

哺乳類のストレスについて次のような話がある

東南アジアの熱帯雨林の野生動物に小さな哺乳類がいる。

ひとがりネズミである。

そのネズミは自分のテリトリーを作り、それを守る。

その自分のテリトリーに侵入してくるものと戦う。

戦って負けたものは退却する。

侵入者と守る側の対決時間は一分以下である。

しかしその出会いで支配する者と支配される者が出る。

負けた側は離れたところで食べる。

そして食べ物がなくなれば弱っていく。

元の場所には二度と戻らない。

この構造は本質的に人間関係にも当てはまると思っている。

ここで言いたいのは、この弱っていく時に自分を信じられない人を公のものは何も助けてはくれないということである。

公のものは弱い立場の自分を信じられない人が本当に追いつめられた時には決して助けてはくれないということである。

だから現実の世の中で自分を信じられない人が生きていくためにはどうしてもたくましい人にならなければいけないのである。

法律が無意味だとか警察はあってもしょうがないとか暴論を言っているのではない。

法律は所詮法律でしかない。

警察は所詮警察でしかない。

憲法から法律をはじめ、それらのものには国家権力から個人を守るとかいう格好いい発想はあっても、人間が生きていく上で最も大切な、ずるくて強い人から自分を信じられない弱くてやさしい人を守るという発想はゼロである。

怪我をさせられない限り、警察は動かない

「人間が正気であるためには人とつながっていなければならない」とフロムは言うが、まさにその通りである

いわゆる家庭内離婚ほどではないが、情緒的に離婚をした自分を信じられない妻が、夫をはじめ誰にも相手にされないで、一人でいると、正気であることがなかなか難しくなる。

すると親族や隣近所に自分を信じられない妻は「あーでもない、こーでもない」と人の問題に口を出してくる。

干渉をする。

こうした孤独で自分を信じられない奥さんは、人と接したいから騒動が好きである。

誰にも相手にされないから自分を信じられない人は騒動で人と接することが癒しになる。

子どもに過干渉になる自分を信じられない母親は孤独なのである。

子どもに過剰に干渉することで母親は淋しさを癒しているのである。

過干渉の母親が子どもをおかしくする。

子どもが居なければ過干渉の奥さんは隣近所をおかしくする。

しかし現実の世の中にはこのように正気を失った隣人がいる。

その隣人から自分を信じられない人は警察は助けてくれない。

カルト集団に自分を信じられない人が嫌がらせをされても警察は助けてくれない。

具体的に怪我をさせられない限り警察は助けてくれない。

警察は正気を失った隣人から自分を信じられない人が被害を受けているということは分かっても、助けてくれない。

「暴力団なら助けられますが」と言う。

その通りである。

しかし親族や隣人というのは自分を信じられない人は日常的に接する人である。

一度肉体的に危害を加えられた方がストレスは少ない。

日々接して嫌がらせを自分を信じられない人が受けるストレスに比べれば、一度や二度肉体的に大きな傷を付けられることの方がはるかにストレスは少ない。

自分を信じられない従順な「良い子」は、ずるい人の格好の餌食となる

小さい頃から質の悪い人の餌食になってきた自分を信じられない従順な「良い子」と、小さい頃から弱い者を餌食にして生きてきた質の悪い人では、三十歳になった時には勝負にならない。

従順な良い子はいつも怯えている

自分を信じられない人は具体的に何か危害を受けなくても、先に記した東南アジアのひとがりネズミのように怯えている。

その弱さにずるい人は敏感である。

しかもずるい人というのはずうずうしい。

ふてぶてしい搾取タイプの人にかかったら、従順な「良い子」で育って来た人は、骨までしゃぶられる。

それが燃え尽きる人であり、自分を信じられない人であり、うつ病になる人である。

私たちは質の悪い人について良いの悪いのと言ってみてもしょうがない。

現実の世の中には、自分を信じられない弱い人を食い物にして生きようとする人が居るのである。

ふてぶてしい搾取タイプの人がいる。

それを「けしからん」と言ってみても、彼らがこの世の中からいなくなるわけではない。

もし「けしからん」と言って彼らがいなくなるなら「けしからん」と騒げばいい。

現にあなたが自分を信じられない弱い人間なら、あなたを狙って骨までしゃぶろうとする人がいる。

人を苛めるだけで生涯を終わる人もいる

人を苛めるためだけに生まれてきたとしか思えないような質の悪い人がうようよいるのが現実の世の中である。

だからこの世の中で自分を信じられない人が生き延びようとするならたくましい人になる以外に方法はない。

法律も警察も公的機関は、誰も自分を信じられない従順に生きてきた弱い人を助けてくれない。

助けてくれるのは親しい人だけである。

しかしやさしくて弱い自分を信じられないあなたと親しくなるのは、あなたと同じようにやさしくて弱い人である。

だいたい助ける力はない。

束になってもずうずうしくてずるい人と太刀打ちできる人達ではない。

弱いあなたを狙って甘い汁を吸おうとして周りに集まっているのは、そのずうずうしくてずるい人達である。

あなたをお餌食にして生きようとする人達と、あなたとあなたの親しい自分を信じられない人の連合では勝負にならない。

あなたとあなたの親しい人は、質の悪い人と戦いが始まればすぐに胃を壊し、食欲をなくし、便秘になり、不眠症になり、胃潰瘍になり、ストレスからガンになるとか高血圧から心臓病になってしまう人達である。

あなたがもしまだ若くて自分を信じられない人ならば会社でも隣人でも親族でも、とんでもない人と関わり合って、痛めつけられたら、これこそまたとない自分を鍛える絶好のチャンスなのである。

そこでたくましくならなければならない。

自分を信じられない人がたくましくなるには

正面からぶつかって障害物から逃げない

人前でのスピーチや会議での場が苦手な人がいる。

なぜ苦手かというと自分を信じられない人が大勢の前で話す時、声が震えてしまうを恥ずかしいことと気にしてしまうからだという。

その声が震えてしまう自分を信じられない人が克服するためには、声が震えることを受け入れることである。

ある人は会社のスピーチを逃げて逃げて逃げ続けた。

ある時は他の人に代わってもらって逃げた。

ある時は仮病を使って逃げた。

しかし、どうしても逃げられない場面がやってきた。

そして、スピーチが始まると、始めはスムーズに声を出せたのだが、途中から声が震えるようになった。

緊張しすぎて過呼吸になった。

みんなはこちらを注目している。

しかし少し時間を置き、体制を立て直し、再び話し始めた。

そして、また過呼吸になり、また体制を立て直し声が震えるまま話始めた。

そしてスピーチは終了した。

その時、苦しかった、恥ずかしかったというより楽になったという感じがした。

そしてまた次にスピーチする場面が回ってきた。

今度は他の人に代わってもらわず、仮病を使うことなくスピーチに挑んだ。

また前回と同じく最初はスムーズにいったが、途中から声が震えだした。

しかし今回は声が震えることに違和感を感じず、ある程度の緊張感はあったが過呼吸にはならなかった。

そして何回かスピーチするたびに声は震えてもいいやという気持ちになった。

すると、やがて声が震えなくなり、緊張感もなくなっていった。

この人は恐怖に真正面から立ち向かって克服したのである。

それがたくましい人である。

※参考文献:たくましい人 弱い人との違いは何か 加藤諦三著