「自分探し」は二つのタイプに分けられる

「自分探し」について考える時に、二種類があるということをまず理解しておく必要がある。

一つは本質的な「自分探し」である。

例えば毎日イライラしている人がいる

自分探しをする人は生きるのが理由もなく苦しい。

不安になることなどは何もないはずなのに自分探しをする人は何となく毎日が不安である。

心配することは具体的には何もないはずなのに自分探しをする人は何となく心配である。

友達と仲違いをした訳でもなく、恋人と別れた訳でもない。

親がなくなった訳でもない。

それなのに自分探しをする人は何だか分からないが淋しい。

何か「自分が生きている」という感覚が自分探しをする人はない。

自分探しをする人は自分が自分でないような感じがする。

夢を見て驚く。

例えば、好きだと信じている人を殺害しようとする夢を見る

自分探しをする人は何の興味もないと思っていることを夢中になってしている夢を見る。

いつも人のために自分探しをする人は努力しているつもりがなぜか嫌われる。

子どものためにと思って自分探しをする人はしているのに、子どもとどうしてもうまくいかない。

周囲の人のために自分探しをする人はしているつもりがなぜか孤立する。

会社では自分探しをする人は気が弱くて何についても自己主張出来ないのに家では凶暴になる。

頭で考えて怖くないはずのものが自分探しをする人は怖い。

何か訳が分からないけれども自分探しをする人は「あいつに腹が立つ」。

こうして自分でも自分探しをする自分の感情が説明出来ない。

小さい頃から間違った自己イメージを植え付けられて、「本当の自分」がわからなくなっている人達である

自分探しをする人は自己イメージを間違えている人々である。

劣等感から働きすぎている人。

不得意なことで頑張り過ぎる人。

その結果、ノイローゼになるような人。

燃え尽きた人。

そうした人がするのがは本質的な「自分探し」である。

本質的な「自分探し」の解決の核心は、「自分が死んでも、認めたくないことは何か?」ということを明らかにすることである。

「熊が一番立派だ」と父親に言われた。

しかし自分は熊ではない

自分探しをする人はそこで熊のぬいぐるみを着て熊のように歩かなければならない。

熊のぬいぐるみを着て熊のように歩くのは「苦しい!」。

それは父母を生きているので、自分探しをする人は自分を生きているのではない。

世界的な長者になっても、この人は「父親の亡霊として生きていた」と推測したくなる人もいる。

本質的な「自分探し」に大切なことは「私は熊ではない」と認めることである。

状況的な「自分探し」

もう一つは、状況的な「自分探し」である。

たまたま自分が選んだ職業が自分に適していなくて、苦しんでいる。

本当は商売をすれば才能を発揮できているのに、建築家になって苦労をしている。

政治家になれば楽しい人生を送れているのに、学者になってしまった。

そういう自分探しをする人達は頑張っても頑張っても、努力が報われない。

頑張っても頑張っても自分探しをする人は辛いだけで結果が出せない。

「自分探し症候群」の心理は不安と焦りである。

本質的の心理が不安で、状況的の心理が焦りである。

「本質的自分探し」をするために

「本当の自分はどこにいる」と悩んでいる人がいる。

それは母なるものを体験しない自分探しをする人が、必死になって母なるものを探している姿である。

迷子になった子どもが、母親を求めて、「お母さん、お母さん」と探している。

「本当の自分はどこにいる」と悩んでいる自分探しをする人は、心理的には道を見失って迷子になっている人と同じである。

普通は人生の途中でだんだんと母なるものを満たすのだけれども、いつまでも「本当の自分はどこにいる」と悩んでいる自分探しをする人は、「お母さん、お母さん」と叫ぶことで終わっている。

つまり本質的な「自分探し」は、それほど甘いものではない。

エーリッヒ・フロムが『疑惑と行動』の中で「無意識を自覚することは、完全な人間性を獲得するとともに、社会が人間の間に築き上げたために生じた障壁を取り払う」と述べている。

「本当の自分」はその自分探しをする人の無意識の中にいる。

生きるのが辛いので、生き心地の良さを求めて、地の果てまで「本当の自分」を探しに行っても、どこにも「本当の自分」はいない。

自分探しをする人は自分の心の中以外に、この地上のどこにも「本当の自分」はいない。

無意識の中にいる「本当の自分」に気がついて、それを認めた時に、初めて生き心地が良くなる。

「自分探し」をするということ

見たくない真理から目を背けない

基本的に「自分探し症候群」の人は抑圧のある人である。

だからなぜか理由もなく生きるのが苦しい。

そこで「自分探し」が始まる。

しかしその時に自分探しをする人は「自分の自尊心を傷つけない、恥ずかしくない、自分の好みに合った」自分を探そうとしても見つかるものではない。

自分探しをする人は自分の陰の部分をも受け入れることが出来て、初めて「本当の自分」が見つかる。

「ある真理を見たくない、感じたくないという欲求は、すべての神経症に見られます」とアメリカの精神科医ジョージ・ウェインバーグは『プライアント・アニマル』という本の中で述べている。

その見たくない真理を見るのが「自分探し」である。

「自分探し」とは「抑圧されたものをどう意識化するか」ということである。

お金が欲しいけれどお金がない

自分探しをする人はそんな時に「私はお金が欲しい」ということを認めたくない。

つまり自分探しをする自分が経済的な敗者だとは認めたくない。

そこで「自分はお金なんか欲しくない」とか「お金なんてくだらない」と自分探しをする人は言い張る。

「自分探し」とは、もしかすると「実は自分はお金が欲しいのかも知れない」と反省をして、それを認めることである。

「私はこれが好きです」と言っても、自分探しをする人は本当はすきではないということもある。

だいたいバランスの悪いことをしている自分探しをする人は、それが好きではないことが多い。

ヨットが好きなら、ヨットにふさわしいことをしている。

「料理に関心がある」と言いながらヨットの上で、カップラーメンを汁まで飲む人がいる。

本当にヨットと料理に関心があるなら魚を捌くだろう。

そこで海の潮風に当たるだろう。

自分探しをする人が人に見せる行為はいつかツケが来る

昔、車がステイタスシンボルであった時に外車のシボレーを買った学者がいた。

自分探しをする彼は「シボレーは最高だ」と言っていた。

しかし自分探しをする彼はノイローゼになった。

本当は自分探しをする彼はシボレーを好きではなかった。

当時の常識で言えば、実業家が外車を持つのは無理がないが、学者が外車を乗り回すのはアンバランスである。

彼は学者としての自分に直面していかないで、シボレーに逃げた。

そこでいよいよ「本当の自分」から遠ざかっていく。

自分探しをする彼は「シボレーは最高ではない、オレはシボレーを好きではない」と認めることが「本当の自分」に気がつくということである。

彼は学者としての劣等感をシボレーでごまかしていたのである。

女性でも内面的に磨かれると衣装はいっぱいいらない

自分探しをする彼は内面的に磨かれればシボレーはいらない。

「オレは本当は今していることに満足していない。

これは学者としての劣等感からの行動に過ぎない」と認めることが「自分探し」である。

その人が、もし心底言う通りに思っていたら、生きるのは楽しかった。

ノイローゼにはなっていない。

本当に好きなら毎日「シボレーだー」と言って楽しんでしまう

自分探しをする彼は好きではないことを「好き」と言い、楽しくないことを「楽しかった」と言ったから生きることが地獄になったのである。

人に見せる行為はいつかツケが来る。

本当に好きでないものを自分探しをする人は好きだと言っていると最後には心理的に崩壊する。

どんなに社会的に挫折しても、本当に大好きなものが見つかれば、人生は何とか乗り切れる。

誰だって肩書きを取ればただの人。

自分探しをする人は排除した感情をもう一度意識に戻す

ある年、少年が幼稚園児を殺した。

「お母さん大好き」と少年は言っていると新聞は報じた

しかし本当にお母さんを好きならあのような事件を起こすはずがない。

嫌いだけれども、その人がいないと淋しい、生きていけない。

そこでその人が嫌いという感情を意識から排除する。

「自分探し」とはその排除した感情をもう一度意識に戻すということである。

この少年にとって「自分探し」とは「お母さんが嫌いだった」と認めることである。

人はよく自分に嘘をつく。

自分の感情から目をそらせる。

人には自分の中にある「自分が見たくない感情」というのがある

他人に弱点を隠すばかりではなく、自分探しをする人は自分自身に自分の弱点を隠すことがある。

「自分探し」とはその弱点を認めることなのである。

時に「声高の平和主義者」が、自分は「憎しみの人だ」と認めることである。

「私は、平和主義者という仮面を被った憎しみの人であった」と自分探しをする人が認めることは死ぬことよりもその人には辛いかも知れない。

事実を見たら自分探しをする人は地獄である。

だから自分についての真実を見ないで自分探しをする人はノイローゼになる。

高速バス乗っ取り事件の十七歳の少年がいた。

母親は、ある時にこの息子の机の引き出しを開けた。

そこに次の文字が飛び込んできた。

「最近もう一人の別の僕が出てきた。そいつは僕に恐ろしいことを勧める。人を殺せ、人を殺せ。誰か僕を止めて下さい」

この少年は真面目で成績優秀だった

抑圧していた攻撃性が現れてきたのである。

彼は、意識的に「自分探し」をしていないのに「本当の自分」に気がつき始めたのである。

それだけに「自分探しをすること」と「何か落としたものを捜すこと」とは違う。

落としたものを捜すのは、捜し当てれば嬉しいだけである。

「地獄を通って天国に行く」

しかし「自分探し」は、もともと自分にとって耐え難いが故に、自分の意識から追放した自分を探すことである。

ある人にとっては見たくない自分である

ある自分探しをする人にとってはその自分を見るくらいなら死んだ方がいいという自分である。

その自分は死ぬほどの屈辱に感じる自分探しをする自分である。

本質的な「自分探し」とは、「その自分に耐えられなくて、自分の意識から追放した自分を探すことである」ということを自覚しなければならない。

そのことを自覚しないで、何か落とした財布でも捜すように「自分探し」をする人には絶対に「本当の自分」を探し当てることは出来ない。

「自分探し」とは死ぬほど苦しい仕事なのである。

中には本当に死ぬ人がいるくらい辛い仕事なのである。

現実が余りにも厳しいから、抑圧によって、投影によって、反動形成によって、自分を偽ってきた

その偽りを認めることが「自分を探す」ということなのである。

自分探しをする人は真実が余りにも辛いので、真実から身を守る方法が抑圧であった。

抑圧とは自分探しをする人が現実から逃げる方法の一つである。

生きるのが苦痛になると、自分探しをする人は現実から逃げたくなる。

「逃げ」の生き方とは現実を認めない生き方である。

辛い現実からの逃避である

自分探しをする人は、心の底で知っているのだけれども「知らないふり」をする。

その時は、「何とかなる」と思っている。

しかし現実から逃避したら、自分探しをする人は何とかならない。

自分を傷つける真実から自分探しをする人は身を守ろうとする。

その抑圧によって自分探しをする人は自分を見失ったのである。

だとすれば自分を守ることを止めることが「自分探し」には必要なことなのである。

しかし自分探しをする人はもともと真実が余りにも耐えがたいからこそ、その自分についての真実から、自分を守るために抑圧をしたのである。

それを目の前に掘り出してくるのが本質的な「自分探し」である。

そのことを忘れて「自分探し」などと言っても自分と出会う可能性は全くと言っていいほどない。

単純に天国に行くことを想像して「自分探し」などと言っている人が多い。

道は地獄を通過しなければならない。

地獄を通って天国に行くのが「自分探し」の道なのである。

「本当の自分」が分かるということは何も自分の天武の才能が発見されるというようなことではない

自分を振り返ったら自分の身勝手な行動が分かった、利己主義の自分に気がつくということも「本当の自分」に気がつくことである。

そして「本当の自分」に気がつくということは、同時に「本当の他者」に気がつくと言うことでもある。

「あの時に、あの人は傷ついたろうな」というようなことが分かると言うことである。

つまり「本当の自分」に気がつくことは相手の立場に立ってものを考えることが出来るようになるということでもある。

自分探しをする人は自分の心の葛藤に気を奪われ、自分のことしか考えられないときには、自分は絶対に正しいと思い込んでいる。

つまり自分探しをする人は「本当の自分」も分からないし、「本当の他者」も分からない。

だから他人との間に自分探しをする人は色々とトラブルが生じる。

人の一生は人間関係のトラブルの連続であるが、余りにも人とのトラブルが多い自分探しをする人は「本当の自分」も「本当の他者」も分かっていないと考えた方がよい。

自分探しをする人は何を認めたくないのかを考える

イソップ物語に出てくるキツネは、本当は「あのブドウが欲しい」

しかし「あのブドウは酸っぱい」と言う。

どうしても「あのブドウが欲しい」と認められない。

「認め難い思考を湮滅しようとする努力が、その思考を耐えがたいものにしてしまう」とアメリカの精神科医ジョージ・ウェインバーグは言う。

例えば、自分の研究業績に自信のない教授である。

自分探しをする彼はとにかく他の教授への批判が凄い。

人を激しく非難しているこの自分探しをする教授はドンドンと心の病を深刻化させていく。

彼は心の底では自分探しをする自分の研究業績がそれほどたいしたものではないと知っている。

その感じ方を意識から排除する

つまり自分探しをする彼は抑圧する。

その結果他の教授の業績が優れていることが自分探しをする彼には脅威になる。

本当に感じていることを抑圧しなければ他の教授は脅威ではない。

しかし自分についての感じ方を抑圧するから、他の教授がその自分探しをする人にとって脅威となる。

そこで自分探しをする彼は他の教授をことあるごとに激しく非難する。

若い学者であろうと、高齢の学者であろうと、男女を問わず自分探しをする彼は批判する。

批判の動機となっているのは彼の劣等感である

自分探しをする彼の猛烈な批判の背後にある考え方は、自分はそれほど優れていないという感じ方である。

彼はその批判をする度に背後にある自分探しをする自分についての考え方を強化してしまう。

彼はつまりいよいよ自分探しをする自分は優れた学者ではないと感じてしまう。

彼は実際には優れているのだけれども、自分探しをする自分は学者として優れていないという考え方をより強固なものにしていく。

そして彼はもちろんその自分探しをする自分についての考え方、感じ方を、さらに抑圧する。

すると結果としてジョージ・ウェインバーグが言うように「認め難い思考を湮滅しようとする努力が、その思考を耐えがたいものにしてしまう」というように、悪循環に陥る

つまりその自分探しをする教授は十分に教授としてやっていかれるにもかかわらず、自分は教授としてやっていかれないのではないかという恐怖感を持ち、それを強化してしまう。

そして最後には自分探しをする彼は燃え尽きて、教授を辞めなくてはならなくなった。

自分で自分の首を自分探しをする彼は絞めてしまったのである。

「自分探し」は、まず「自分は何を認めたくないのか?」を本気で考えることである。

「生き方を反省する」

無意識を知るために自分の夢を解釈する

自分探しをする人が自己実現するために必要なことは、自分の無意識の反省である。

あなたが燃え尽きたのも、実はあなたが無意識に問題を抱えていたからである。

この無意識の領域の問題を解決しない限り、自分探しをするあなたはどんなに努力してもその努力は徒労に終わる。

無気力から一時的に回復しても、いつかまた自分探しをする人はさらに深い無気力に陥っていく。

自分探しをする人は悪循環である。

自分の無意識を知るためにはいくつかの方法がある。

その一つは自分の夢を解釈することである。

会社に火をつける夢を見た

「何であんな夢を見たのだろう」と思うと、「本当の自分」に気がつく時もある。

「自分は会社が嫌いだ」と認めないで「自分探し」をしても実りはない。

自分は現実否認をしているのだと認めることが本質的な「自分探し」である。

自分への失望感が酷いにもかかわらず、それを自分では認めない。

そんな時に自分探しをする人は不必要なほどの大金や凄い名誉を求める。

自分探しをする人はそれが手に入らない時は体裁を整えようとする。

そのような時には周囲の人の反発を買う。

自分の神経症的な自尊心を満足させるような態度は周囲の人から素直に受け入れられない

しかし自分探しをする人は周囲の人からの低い評価を自分は認められない。

現実を認めない「自分探し」の人は、ランニングマシーンの上を走っているようなものである。

走っているのに自分探しをする人はいつも同じ場所にいる。

走っても走っても自分探しをする人は先に進まない。

もともと「本当の自分」を自分探しをする人は抑圧している。

そのうえで「自分探し」をしているひとがいる。

本当の「自分探し」は、「これは自分ではない」と否定した自分を、「これが自分です」と認めることである。

友達も、そのうえで付き合えるのが本当の親友である

現実否認のうえで、「自分探し」をする人は、リラックス出来ない。

自分探しをする人はリラックスして人と話をすることが出来ない。

「本当の自分」とは真実の自分、実際の自分である。

「本当の自分」を知るとは、本当にやりたいこと、自分が一番求めているものを知ることである。

時には自分探しをする人は貪欲な自分を認めることである。

親しい人がいない、絶えず人間関係でトラブルを起こしているなどという自分探しをする人は、自分は無意識に憎しみを抱えているのではないかと反省することである。

自分探しをする人は相手の期待に応えるために無理をし過ぎていないか?

どこかで自分のベストを棄てている

それで今「自分探し」と言って、自分のベストを求めている。

「自分探し症候群」の人は、自分のベストが分かっていない。

それが自分探しをする人は大人になっても幼児期の親に縛られているということである。

例えば親がスキーが上手いことを素晴らしいことと思っていた。

しかし息子はスキーは嫌いである。

でもスキーが上手くなろうとする。

スキーは嫌いなのにスキーに縛られる。

スキーが上手くなろうとする

自分探しをする人はそのような生き方はただ目的もなく歩いているのと同じである。

そしてスキーをすればするほど心の底で自己無価値感が深刻化する。

万一スキーが上手くなっても自分探しをする人は無意識の領域では自己無価値感が深刻になっている。

それが無意識の領域で払う代価である。

理由もなく生きるのが苦しい時には自分探しをする人は「自分は無意識でどのくらい代価を払って生きてきたか」を考える必要がある。

淋しいとつい相手の注意が欲しくて自分探しをする人は相手を喜ばそうとしてしまう。

たとえ相手が喜んでも、その結果は無意識の領域で自己無価値感が深刻になるだけである。

同じように劣等感に苦しんでいると自分探しをする人は、相手の尊敬が欲しくて、つい無理をして名誉を求める。

たとえ名誉を得ても結果は同じように劣等感が深刻になるだけである

自分探しをする人は相手を喜ばそうとすること自体が間違っているのではない。

淋しさから自分探しをする人は相手を喜ばそうとすることが間違っているのである。

同じように「理想の自我像」を求めることそのことが悪いのではない。

劣等感から求めることが悪いのである。

問題は努力そのものではなく、自分探しをするあなたの努力の動機である。

周囲の人を見返したいから自分探しをする人は頑張る。

見返したいから自分探しをする人は努力する。

そうした動機から自分探しをする人は努力すると無理をする。

自分の器を忘れる

自分探しをする人は非現実的な期待を自分にかける。

これが「自分を忘れる」ということである。

周囲の人には、自分探しをするあなたは身の程を知らない人と映る。

もう一度繰り返すが、大切な視点は無意識の領域で自分探しをする自分がどのような代価を払っているかということである。

相手の関心が自分探しをする人は得たくて努力した。

結果として相手の関心を得た、相手の尊敬も得た、しかしそれ以上のものを自分探しをするあなたは無意識の領域で払っていることがある。

無意識の領域で自分探しをする人が払った代価は、「ありのままの自分では相手にとって価値がない」という感じ方である。

そういう自我像である。

人々からの賞賛を得たけれども、無意識の領域で代価を払っているから、経済力や権力を持ちながらもノイローゼになる人がいるのである

自分探しをする人は経済力と権力を得たけれども、心の中の自我像は前に比べて貧相になった。

だから自分探しをする人はもっと経済力と権力が欲しくなる。

だんだんと自分探しをする人は強迫的に力を求め出す。

力がなければ自分探しをする自分は生きている価値がないと思い出す。

ここでも悪循環が起きる。

※参考文献:「本当の自分」はどこにいる 加藤諦三著