自己主張ができない人ができるに替える心理

小さい頃に、「さすがに頭がいいなぁ」などという言葉をかけられて
喜んだかもしれない。

しかしその言葉は、あなたに何か他のことをさせるために使われた言葉だったのである。

本当の賞賛は、あなたに自信を与える。

しかし何かをさせようとして、おだてられた場合には、その言葉はあなたから自信を奪う。

本当の非難は、あなたを反省させる。

しかし、あなたを非難して、何か他のことをさせようとする非難は、あなたから自信を奪う。

他意のない賞賛や非難は、その人に自信と反省をもたらし、操作のための賞賛と非難はあなたから自信を奪う。

自信がなくて、他人の顔色をうかがいながらいつもビクビクしている自己主張ができない人は、一度小さい頃からのことを思い返してみるがいい。

自己主張ができない人は自分が本当にほめられたことがあったかどうかを。

自己主張ができない人は本当にほめられたことなど一度もなかったのではなかろうか。

自己主張ができない人はたいていは、おだてられていたにすぎないのではないか。

自己主張ができない人は「さすが」と言われて、何かをさせられていたのではないか。

自己主張ができない人は結局、操られていたのではないか。

また、自分は本当に非難されたかどうかも考えてみるがいい。

それもなかったのではなかろうか。

小さい頃、「勉強しなさい」と叱られたことはあったかもしれない。

しかし、勉強してよい成績をとって、有名高校、有名大学に入ってもらいたいと思ったのは誰だったのか。

人としての道に外れた行動をとったことで、本気で怒られたことが今までに一度だってあったろうか。

「そんなことをすべきではない!」と、ただそれだけのためになぐられたことがあったか。

今まで自分が責められたのは、すべて他意があってのことではなかったか。

あなたが何十年生きてきたかはわからない。

しかし、自己主張ができない人は結局は操り人形だったのである。

”結構は阿呆の唐名”という言葉がある。

何事も結構、結構とばかり言っているのは、阿呆であるということである。

結構と言いつつ自分を抑圧し、他人と似たような意見しか言わない。

他人に同意することで好かれようとしているのだが、やはり”結構は阿呆の唐名”で、自分の意見も感情もない人を本気で好きになる人などいない。

自己主張ができない人は自己主張ができない人と結びつき、自己主張のある人は自己主張のある人を選ぶ。

今、自信のないあなたが自己主張をはじめれば、あなたの周囲にいる自己主張ができない人はいっせいにあなたを非難しはじめる。

そしてそれにもかかわらず、あなたが自己主張を続ければやがて彼らはあなたの周囲から去っていく。

もはや操り人形ではなくなったあなたに、今まで周囲にいた人は、何の関心もないのである。

自己主張ができないあなたは、はっきりと知らなければならない。

彼らはただの一度も、自己主張ができないあなた自身に関心をもったことなどないのである。

自己主張ができないあなたが操り人形であったからこそ、自己主張ができないあなたと関係をもっていたにすぎない。

これだけ言っても、まだあなたは新しい人間関係を築く勇気をもてないだろうか。

自己主張のある人は、逆に操り人形であるあなたに関心はない。

しかし、あなたが自己主張をはじめれば、あなた自身に関心をもつ。

自己主張のある人は、あなたのちょっとした言動にすぐに傷ついたり、怒ったりはしない。

自己主張のある人は、あなたのちょっとした言動にすぐに傷ついたり、怒ったりはしない。

自己主張のある人は、自己主張ができない人のように、さまざまなことをあなたに期待しない。

自己主張ができない人は、あなたが彼の気持ちに敏感であることを期待した。

つまり自己主張ができない人は、彼が何を望んでいるかを、あなたがつねに知っていることを期待した。

自己主張ができない人は、あなたが他人と調和して生きることにおいて神様のようであることをあなたに期待した。

自己主張ができない人は、あなたが完全であることをあなたに期待した。

もし完全でなければ腹を立て、完全にむかって努力することを期待した。

自分が不完全であればあるほど、人は他人にむかって完全であることを求める。

ところが自己主張のある人は、あなたに完全であることなど要求しない。

自己主張のある人があなたに期待するのはただ一つ、あなたが自己主張することなのである。

自己主張ができない人の期待は「犬の遠吠え」

この世の中には、あなたより他人の気持ちにはるかに敏感でないのに、自信を持っている人もいる。

他人の気持ちに敏感であるあなたが自信がないのに、他人の気持ちにあなたより敏感でない人が自信があるのはなぜだろうか。

それは、自信のないあなたと、自信のある人との周囲に張り巡らされている人間関係のちがいなのである。

あなたは自己主張ができない人と関係し、彼は自己主張のある人と関係した。

自信のないあなたは、自己主張ができない人と関係をつくりすぎ、あまりに多くのことを期待され、そして疲れ果ててしまっている。

いろいろなことにおいて、あなたよりはるかに不完全な人が自信に満ちて生きているのは、自分に関する決断を自分に代わって誰か他の人にしてもらわなかったためなのである。

”逸物の鷹も放さねば捕らず”という格言がある。

狩りでいろいろな獲物を捕る立派な鷹も、放さないでもっていては、何も捕らないということである。

自己主張ができないあなたの周囲にはりめぐらされた関係は、あなたの能力を発揮する機会を奪っているのである。

自己主張ができない自分に関する決断を自分に代わって誰か他の人にしてもらうということは、自分の逸物の鷹をじっともっているようなものである。

自己主張ができない人は自信がないのではなく、自信を解き放たないのである。

”一升瓶に二升は入らぬ”という格言もある。

自己主張ができない人は、一升瓶のあなたに、二升入ることを期待したのである。

それもあなたのためにではなく、自分のために。

彼にとって、自己主張ができないあなたが二升瓶であることは都合がよいから、一升瓶のあなたに、二升瓶であることを要求した。

しかし自己主張ができないあなたはその期待に負け、一升瓶の自分に肯定感がもてなくなった。

しかし、もとはといえば、自己主張ができないあなたが二升瓶であることが都合よかったのは、彼にとってなのである。

自己主張ができないあなたが一升瓶であることを非難するのは、彼自身が自分に満足していないからである。

自分自身に失望している自己主張ができない人は容易に他人に失望し、他人を非難する。

このことは忘れてはならない。

自分自身に失望した自己主張ができない人の自己本位な感情や期待に負けて、あなたは自信を喪失しているというのが、事の真相である。

自己主張ができない人の期待は、本当は犬の遠吠えのようなものなのである。

しかし自信のない自己主張ができない人は、その犬の遠吠えに臆病にもふるえあがったということである。

自分は一升瓶、相手は犬の遠吠え。

これを自覚することである。

自信のない自己主張ができない人がはっきりと自覚すべきことは、自分が依存心を克服することを、多くの自分の周囲の人は不快に思う、ということである。

自分の感情を自己主張ができないあなたに押し付けてくる人は、あなたが弱いことを望んでいる。

しかし、自分は自分の感情をもってよいのである。

そのように強くなれば、やがては自分の周囲には、自分にとって都合のよい解釈を相手に押し付けないような人達が集まってくる。

そのような人たちは、もう決して、あなたを自分に都合のいいように操作しようとはしないだろう。

そしてノーと言っても、決して人間関係はこわれないようになる。

それよりも何よりも、今までのように行き詰る関係でないことに気がつくに違いない。

今までノーと言うことができなかった時、自己主張ができない自分と周囲との関係は、ノーと言うことが許されない雰囲気であったにちがいない。

ところが新しくつくられた人間関係は、いやなことはノーと気楽に言える雰囲気であろう。

ノーと言ったからといって、「なぜだ?」と責められることもない。

ノーといったからといって、「あいつは非人間的な奴だ」という意をこめて、「それはひどいねぇ」などと言われることもない。

自信のないあなたは、今まではどんなことでも相手が納得してくれなければいけないように感じていた。

自己主張ができない人は自分が自分の行動についての最終的な判断の権利を放棄してしまえば、そう感じるのは当然である。

操作されている自己主張ができない人は、相手が納得してくれなければ何もできないようにかんじているのである。

自己主張ができない人は感じているというより、感じさせられるようになってしまった。

操作される自己主張ができない人は、操作しようという人に、自己の行動の決断も解釈もあずけてしまっている。

したがって、自己主張ができない人はすべて相手が納得しなければ行動できなくなっている。

何をやるにも相手の納得を必要とするというのは、その自己主張ができない人にとっては息づまる雰囲気である。

あなたを操作しようという人は、自己主張ができないあなたに代わって、あなたの行動の判断、解釈のすべてのことをやろうとしている人なのである。

本来自己主張ができないあなたがすべきことを、あなたに代わってやろうというのが、あなたを操作しようという人である。

操作されてきた自己主張ができない人は、自分のやるべきことをやらなかったのだ、という反省は必要である。

自分の行動の最終的判断を自分でおこない、その結果についての最終的責任を自分でとろうとする人間には、卑怯な人間は近づかない。

自己主張ができない”つくられた自分”はころびやすい

今まで他人から操作されつづけた自己主張ができない人は、反省しなければならない。

自己主張ができない人は周囲にばかり非があったわけではない。

たしかに、あなたを操作しようとした人は卑怯であり、嘘つきである。

強い人間には下手にでながら、相手が精神的に無力と思うと徹底的に利用しにかかる。

しかし、実は操作されてきた自己主張ができない人は、自分を偽って相手を喜ばそうとしてきたのではなかったろうか。

操作される自己主張ができない人の側に、相手にとりいろうという態度があった。

その双方の態度の結果として、そのような関係が生じたのである。

自己主張ができない自分の側にも、そのような関係を促進する何かがあったのだ、という反省は必要である。

少なくとも、もう少し早く、自分の自己主張や行動の判断は自分でします、という決然とした態度を相手に示すことができれば、それだけ早くその関係はこわれていたのである。

そのような関係が成立したのも、今日まで維持されてきたのも、双方の責任なのである。

相手を操作しようという人は、相手が自分にとって都合のよくないことをしようとした時、相手に自分がわるいことをしようとしていると思わせようと必死になる。

しかしその時、けっして私はわるいことをしようとしているのではない、とその人が判断すれば、その時から関係は崩壊にむかう。

その時、自己主張ができない人は自分はわるいことをしているのだと罪悪感をもつからこそ、その関係は続いてきたのである。

そして、自己主張ができない人はそのような偽りの罪悪感をもてばもつほど、真の罪悪に対しては鈍感になっていく。

自己主張ができない人は周囲の人たちによって賞賛されることを求めて、対人的に緊張する。

自己主張ができない人は自己の他者化がすすみ、他人の反応に敏感になりながら、自分が人間としてすべきことには鈍感になっていく。

自己主張ができない人は他人を前にして自己の理想像を求めるだけで、その過敏性以外には何もなくなる。

つまり操作される自己主張ができない人間の情緒的成熟は、操作されることによってとまってしまうから偽りの罪悪に過敏であって、真の罪悪に鈍感なのである。

誰からも好意をもたれようとする自己主張ができないことは、緊張した規範意識を強くする。

自己主張ができない人は生きていることが辛くなる。

しかし同時に忘れてはならないことは、他人を操作する人も、操作することで自分の情緒的成熟をとめてしまうのである。

自己主張ができない人は自分の足を引っ張ることなしに、他人の足を引っ張ることはできないというのと同じである。

自己主張ができない人は自分の足を引っ張ることなしに、他人の足を引っ張ることはできないというのと同じである。

自己主張ができない人は自分の情緒的成熟をとめることなく、他人を操作して他人の情緒的成熟をとめてしまうことはできない。

だからこそ、操作されている人にも、操作している人にも、自己主張ができないのである。

他人を操作するということは一見能動的な行為にも見えるが、これはきわめて受動的な行為なのである。

自己主張ができない人に意外と多い?「二つの自分」で生きている人

他人を操作する人というのは、本当の自分の姿を他人には見せない。

自分の統合性が完全にこわれているのである。

自己主張ができない人は実際の自分と他人に見せる自分との、二つの自分で生きている。

自己主張ができない人は二つの自分で生きていながら、自分で自分を尊敬できるわけがない。

同時に自己主張ができない人は自分に自信がもてるわけがない。

他人から操作されている自己主張ができない人は、自信がないから操作されているのであるが、他人を操作している人も、同じように自信がないのである。

彼は正面から他人にぶつかっていけないから、自己主張ができない他人を操作しているのである。

自己主張ができない人は正面からぶつかっていって、相手が実際の自分をどう評価するかを恐れている。

自己主張ができない彼は実際の自分に対する他人の評価に直面することを避けている。

他人を操作する人は、操作しながらも、操作している相手を恐れているのである。

操作というのは、される側もする側も恐怖に動機づけられているので、双方の成長をとめてしまうのである。

操作される側は、相手に嫌われるのが恐いから相手に支配され、操作する側は、相手にはっきりと自分の望みを告げるのが恐いから、自分の望みを隠す。

このように、自己主張ができない歪んだ関係であればあるだけ抜け出しにくい。

なぜなら、自己主張ができない人は嫌われて見捨てられるのが恐いからである。

しかし、自己主張ができない人が抜け出すための第一歩は、とにかく自分の周囲にある関係が歪んでいると自覚することである。

そしてその歪んだ関係の中で、自己主張ができない自分は”つくられた自分”であるからこそ、自己肯定感がないのだと知ることである。

”あまり円きは転びやすし”という。

自己主張ができない自分の行動の決断も解釈も相手にあずけてしまえば、その関係は一見うまくいく。

その時はまるくおさまる。

しかし、自己主張ができない自分の内面の犠牲においてなされている以上、どこかに人格のひずみがでる。

そして、自己主張ができない人はまちがいをおこす。

自己主張ができない人はころびやすいのである。

自己主張ができない人は情緒的に成熟している自己主張できる人と付き合うことが、気が楽になる道であろう。

※参考文献:『自信』加藤諦三著

 

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