現在の社会は確固とした自己価値感を育てにくい社会です。

そのために、傷つきやすい人が増えているということがいえます。

たとえば、J・ブランバーグという人が150年間の少女達の日記を分析していますが、とりわけここ30年ほど自尊心(自己価値感)の低下が読み取れるといっています。

また、両親からの自立に悩む傾向が強まっているともいいます。

さらに、各種の国際比較調査によれば、とりわけ日本の子どもや青年の自己価値感が低いという結果が一貫して示されています。

たとえば、ベネッセコーポレーション『モノグラフ・小学生ナウ vol.12-4』では1992年にストックホルム、ハルビン、サクラメントと東京の子ども達の比較調査を行っていますが、これによると、勉強ができるとか、スポーツがうまいなど自分の能力の評価は東京の子どもが最低ですし、正直さや親切さ、勇気など人格の自己評価も最低でした。

また、このところ、OECD(経済協力開発機構)とIEA(国際教育到達度評価学会)の2003年の国際学力比較調査により、我が国の子ども達の学力低下が指摘されています。

しかし、実際には、なおほとんどの領域で上位を維持しているのです。

それなのに、IEAの調査によれば、自己価値感の一つの側面である学習への自信の程度では下位に属するのです。

たとえば、中学二年生で数学や理科の勉強について高い自信を持つ子どもの割合は、国際的にほとんど最下位に近いという結果が得られています。

同様に、日本青少年研究所が2003年に行った日米中韓四カ国の高校生の意識調査でも、「全体としてみれば、私は自分に満足している」という項目で、「全くそう思う」と「まあそう思う」と答えた割合は、日本が最も低く36%ほどでした。

ちなみに、最も高い米国の高校生は、約83%でした。

こうした結果は、謙遜が美徳とされる日本の文化的な影響と、日本の子どもや青年の内省能力の高さを一部反映していると考えることができます。

しかし、そうした文化的特殊性を考慮しても、日本は自己価値感を持ちにくい社会であるといえるように思います。

それは、たとえば、日本では親が自分の子どもを見る目も厳しく、子どもに満足している程度も低いという調査結果があることでも裏づけられます。

一例をあげれば、文部科学省の『家庭教育に関する国際比較調査』(1994年)は、韓国、タイ、米国、英国、スウェーデン、日本の親に対して調査を行っています。

このなかで、「自分の子どもの成長に満足していますか」という質問に対して、「満足」という回答は、子どもの年齢にかかわらず、日本の親が最も低い割合でした。

これを、10歳から12歳の子どもを持つ親でみてみると、「満足」と回答した親は米国で約85%であるのに対し、日本ではわずかに36%ほどでした。

親の無条件の受容こそ、子どもの自己価値感を育てる根源です。

それは、自分たちの子どもが存在してくれることを喜び、歓迎し、満足する親の心です。

満足度の低さは、この無条件の受容ができていないことを表しています。

累積する核家族の影響

性格の極端化現象

たしかに、傷つきやすい若者が増えていることを実感します。

しかし、その一方で、逆に、傷つくことなどまったく無縁な若者も目につくようになっています。

傷つくほどの感受性が欠如し、それゆえ大人の忠告や叱責をほとんど受けつけない若者。

実力が伴わないのに妙に自信家で傷つかず、それゆえに間違いが明らかになっても、不十分さが明らかになっても、なんら行動を修正しようとしない若者。

恥じるという心理が形成されていないために、自らの至らなさで傷つくことのない若者。

さらには、自分に非があってもそれを認めず、逆に徹底的に攻撃して相手を傷つける若者等々。

現在青年を全体として把握するためには、このように性格の極端化現象としてとらえる視点が必要です。

学級崩壊という現象が問題になっていますが、これも、本質的には、学校という画一的な枠におさまりきれないほどに、子ども達の性格が極端化した結果だといえます。

家族の標準化刺激機能の弱化

この性格の極端化現象は、核家族世代が増え、また、何世代か累積してきたことに大きな原因があります。

人類の歴史のなかで、永いこと家族は社会の標準化刺激でありました。

すなわち、家族は、祖父母や多くの兄弟から成り立っており、子どもに多様な刺激を与えました。

家族はしっかりとその地域に根を張り、家庭生活は地域・社会の文化、伝統、価値、行動様式を取り込んで営まれておりました。

これにより、それぞれの家族は、特有の雰囲気を持ちながらも、社会を模したミニチュア社会をなしており、子どもや青年が社会に入っていくための共通の資質を準備するという機能を果たしました。

ところが、社会的流動性の高まりとともに、核家族が多くなっていきました。

核家族とは、愛情による家族成員の結合という積極面を持っていますが、同時に、世代間の経験の断絶であり、地域からの断絶でもありました。

これにより、それぞれの家庭生活の営みは多様化し、また、極端化することとなりました。

ある家庭では親による子どもの徹底的な取り組みが行われ、別な家族では全くの放任がなされるなどです。

核家族世代の繰り返しは、こうした多様化と極端化をいっそう進行させ、家族の社会的標準化刺激という性格は大幅に失われてしまいました。

こうして、徹底的に自我を押さえつけられ、独自の自我を持たないかのような性格の子どもが生み出される一方で、逆に、周囲への思惑など全く気にすることなく傍若無人にふるまう自我を形成した子ども達も多数生み出されることとなったのです。

養育のマニュアル化と放恣化

核家族による子育て経験の断絶と地域の子育て機能の減退により、核家族の子育ても、二つの方向へと極端化していきました。

一つは、子育てのマニュアル化であり、他方は、子育ての放棄や放恣な子育てであります。

子育てのマニュアル化とは、育児雑誌や育児図書を読み漁り、そこでの情報を基準にする子育てです。

子育てのマニュアル化は、子どもに子育てを合わせるのではなく、子どもをマニュアルに合わせようとする子育てになりがちです。

たとえば、ミルクの飲みが標準より少なければ、ついもう少し飲ませようとしてしまいます。

おしめをはずすのが標準時期より遅れれば、早くはずせるようにといろいろと試みます。

意識的にこうした働きかけをする親がいます。

しかし、意識していない親でも、無意識のうちにこうした接し方をしてしまっているのです。

このことは、有名なピグマリオン現象に関わる研究で実証されています。

ピグマリオン現象とは、教師が期待することが、実際に子どもに現実化する現象のことですが、なぜこの現象が生じるのかを研究したところ、教師は期待する子どもとそうでない子どもとで、微妙に異なる働きかけをしてしまっているということが分かりました。

そして、そのことを教師自身は意識していなかったというのです。

このように、子育てのマニュアル化は、母親の行動をそれと気づかないうちにコントロールし、その影響が子どもに現れるのです。

むろん赤ん坊やごく幼い幼児は、こうした親の微妙な対応の意図することを意識的にとらえることはありません。

しかし、なにか分からないおぼろげな違和感として感じます。

意識的でないがゆえに、より深い身体感覚的な疑惑として感じ取ります。

こうした疑惑や違和感が、自己価値への疑惑へとむすびついていく可能性は、十分考えられるところです。

さて、子育て経験の断絶は、もう一方で、放恣ででたらめな子育てを生み出しました。

核家族は、地域からの断絶ゆえに、世間体による束縛から解放されます。

父親と母親に対して力を持つ監視者である祖父母もいません。

こうしたことから、核家族は、父親と母親とのより自由な欲求表現の場となります。

このために、子どもへの配慮よりも、自分の欲求を無軌道に優先する親が出現しました。

こうした親は、気ままで得手勝手な養育をします。

それは、徹底的な甘やかしであったり、過保護であったり、過干渉であったり、逆に、監護の放棄であったり、さらには虐待であったりします。

監護の放棄や虐待的養育は言うまでもありませんが、甘やかしや過保護の場合も、子どもは確固とした自己価値感を獲得することはできません。

なぜなら、甘やかしや過保護とは、親が子どもの力を信じていないということだからです。

子どもの力への信頼がないからこそ、甘やかしてしまうのであり、過度に保護してしまうのです。

養育の競争化

上記のような事情に加え、女性も競争の中に置かれることになり、子育てにも競争という要素が強く反映されるようになりました。

このことが、子どもが自己価値感を獲得しにくい状況に拍車をかけています。

受験競争という側面から見てみれば、現在60代の女性の大学・短大進学率は10%に達しませんでした。

一般庶民の家庭では、女の子は、勉強よりも育児や家事がしっかりできることに価値をおいて育てられました。

これに比べて、現在の女性の大学・短大・専門学校等への進学率は、70%ほどになっており、男子を追い越しました。

受験競争は、やがて、就職試験における競争へ、会社での昇進競争へとつながっていき、女性も男性と同様の競争的関係のなかにおかれるようになりました。

価値観も逆転しました。

勉強ができるよりも、家事ができることに価値をおく親は、現在ではほとんどみあたりません。

こうしたなかで、子育ての時期を、母親としての喜びや楽しみとして過ごすよりも、競争で後れを取ってしまうという焦燥感で過ごす母親がでてきました。

また、自分の子どもが、他の子どもよりも発育が早ければ優越感を感じ、遅れれば焦りや敗北を感じてしまうというような、競争意識も高まりました。

幼いうちから子どもがなにかに優れることを願い、追い求めるようになりました。

胎教と称して、まだお腹の中にいる時代から教育を始めるようになりました。

乳幼児の早期教育も盛んになり、国立教育政策研究所の2000年の調査では、一歳半の子どもを持つ親の38%が「子どもの将来は三歳までの育て方で決まる」と考えており、三歳児の親の28%がなんらかの習い事をさせているという結果が得られています。

このように、マニュアルという標準に合わせる意識を超えて、競争に勝つ意識に向かい、「より早く、より高く、より完全に」を、幼いうちから子どもに求める傾向が強まりました。

このような育て急ぎをされると、子どもは「ただ自分が存在し、日々を楽しく過ごすだけではいけないのだ」という感覚をつくってしまいます。

現在の自分に心からひたりきることができず、自己価値感の形成が困難になってしまいます。

※参考文献:傷つくのがこわい 根本橘夫著