基底的自己価値感が形成され、内発的成長力が十分に発現する自然で適切な環境とは、どのようなものでしょうか。

基底的自己価値感の形成についての諸研究は、その子自身の能力や達成水準はほとんど影響せず、親の子どもに対する接し方こそが最大の基底要因であることを明らかにしています。

それは、抽象的、かつ概括的に述べれば、親が子どもに愛情を持って接することです。

しかし、愛情は主観的なものであり、歪みがある場合が少なくありません。

親が愛情と信じていても、逆に、子どもの内発的成長力を阻害していることがまれではありません。

ですから、主体である子どもの側から、この条件を記述しなければなりません。

そうした視点から、三つの基本的な条件が指摘できます。

第一は、自分が安全に守られているという感覚が与えられること。

第二は、自分と外界とがフィットしているという感覚、すなわち、適合感を持てること。

第三は、自分がこの世の中で歓迎されているという実感を持てること。

以下、この三つの条件について詳述します。

安心を与えられること

健康な心が発達する出発点は、幼い子どもに安全と安心の感覚をしっかりと与えてあげることである、という点で諸説は一致しています。

無力な存在である幼子にとって、この生まれてきた世界は脅威に満ちています。

日々が選択の過程です。

方方は少し恐いが成長につながる選択肢であり、他方は安心だが成長が阻まれてしまう選択肢です。

ですから、健康な成長のためには、彼らの安全欲求を保育者が引き受けてあげることによって、成長へとつながる選択ができるようにしてあげることが必要なのです。

外界は、恐ろしい世界ではなく、自分を安心してあずけてよい世界なのだと、脳裏に刻みこませてあげねばなりません。

安全欲求を満たしてあげる保護者の庇護は、次のようなことで幼子に基底的自己価値感をもたらします。

「外界と自分が信頼できるという確信を与える」
「自分が世話を受けるに値する価値のある存在だという確信を与える」
「必要な場合には庇護を引き出すことができるという自分の力への確信を与える」

むろん、こうした確信は、意識的なものではなく、体感的な感覚です。

そして、それゆえに、心の発達に深層から影響を及ぼさずにはおかないものなのです。

適合性の感覚を与えられること

第二の条件は、適合性という感覚です。

自分と外界がフィットしており、外界との間に違和感がないということです。

これは、乳幼児に対する親の対応の適切さに依存します。

赤ん坊のほほえみに、ほほえみで反応してあげる。

嬉しがって声を上げれば、その嬉しい気持ちに共感して、「嬉しいのね」と返してあげる。

空腹の不快さのために泣いたとき、お乳を与えることによって不快さを取り去ってあげる。

おしめが濡れて泣けば、おしめを替えてあげる。

びっくりして泣けば、気持ちを優しく受けとめ、抱きしめてあげる。

このようなそのときどきの適切な対応です。

スターン(個性や知能に関する研究で著名な心理学者)は、こうした交流を通して親子の心が通じ合うようになる過程を「情動調律」と呼んでいます。

情動調律においては、「自分の感情が共感を持って受けとめられている」「自分は受け入れられ相手にしてもらっている」と、赤ん坊自身が実感できることが大事だといいます。

母親が子どもの内面を理解しただけでは不十分なので、「あなたが感じていることを、お母さんも感じているのよ」と、伝えてあげることが必要なのです。

そして、観察によれば、母親は赤ちゃんと接するとき、意識してはいないけれども、こうした反応を一分間に一回の割合でおこなっているということです。

このような親の反応が、親との感情的交流をもたらし、自分が外界としっくりいっているという適合感を持たせてくれるのです。

このことは、子どもの欲求を無条件に受け入れるということではありません。

社会生活に適応させるためには、社会的ルールに従うように導かねばなりません。

研究によれば、母親は赤ん坊に対処するとき、一方的に赤ん坊の要求に従うのではなく、ほめたり、残念がったりしながら、辛抱強く赤ん坊を社会的な方向に導いているのです。

こうした愛情深い対処の仕方によって、子どもは不適合感に陥ることなく、社会的ルールを身につけるのです。

歓迎されている実感を与えられること

無力で、人に与える何物も持たず、ただ、周囲の手を煩わせるだけの存在。

それでも自分を無条件に歓迎してくれる。

自分の存在を喜んでくれる。

こうした体験が基底的自己価値感に直結します。

これが第三の条件です。

歓迎されているという実感を与える一つのルートは、言葉です。

「生まれてきてくれて、ありがとう」「あなたは、私たちの一番の宝物」「あなたがいてくれて、私たちは幸せ」

親からのこうした言葉は、子どもにとって至福の喜びであり、確かな自己価値を実感させてくれます。

そうした意味で、愛情表現の下手な親は、それだけで不利であるといえるでしょう。

しかし、言葉以上に、子どもと過ごすその総体こそが影響することはいうまでもありません。

愛し合う夫婦は、生まれた子どもの一挙手一投足に喜びの声を上げます。

子どもの呼びかけに暖かな反応を返し、無意識のうちに無数の歓迎のサインを発しているものです。

むかしから家庭では、子どもが誕生したことを歓迎し、成長を喜び、子どもが存在してくれることを祝う習わしがありました。

お宮参り、お食い初め、七五三のお祝いなど、子どもがそれまで元気に育ってくれたことを喜び、歓迎する行事です。

五月の節句で、大きな鯉のぼりを高くかかげてもらって、誇らしげな男の子。

三月の節句で、おしゃれな着物を着せられて、お雛様の前で照れたような女の子。

誕生日を祝うことも、生まれてきてくれたことと、今日まで自分たちの側にいてくれることを歓迎していることを子どもに伝える儀式であるといえましょう。

子育てを楽しむこと

自己価値感の形成にかかわる三つの条件をあげましたが、大事なのは、頭で考えた子育ての技術ではありません。

「子どもはこうあらねばならない」という親のイメージが先行する子育てではないのです。

親としての自然な対応が、子どもに安心感を与え、適合感を与え、そこに歓迎されているというメッセージを含んでいることが求められるのです。

そのためには、親自身が子どもと一緒にいることを喜び、子育てを楽しんでいることが大切です。

コフート(オーストリア出身の精神医学者)は、子どものそばにいて、子どもを見守る大人の存在の重要さを指摘しています。

子どもは、その大人のなかに自分を映すことにより、自己を形成してくのです。

自分といることを喜ぶ親、その親に自分を映し見て、子どもは自分の存在に価値を実感します。

子どもとの時間を楽しんでいる。

そんなことは、親が普段にしていることではないか。

そう思いがちですが、本当にそうでしょうか。

赤ん坊を抱っこしていても、「早く寝てくれないかな、そうしたら自分の時間ができるのに」と思っていないでしょうか。

子どものそばにいるつもりでも、雑用で、ちょこまかと動き回っていないでしょうか。

子どもが遊ぶそばについていても、他の事に気が向いていないでしょうか。

さもなければ、つい、あれこれと子どもに干渉してしまってはいないでしょうか。

「こうするといいのよ」「こうしなさい」などと口をはさんでいないでしょうか。

あらためて振り返ってみると、親が子どもと無条件に楽しさを共有している時間は、思いのほか少ないものなのです。

一緒にいることを楽しんでくれる親は、自分が歓迎されており、自分の存在自体が人を喜ばせるものなのだ、という感覚を子どもに与えます。

たとえば、「たかい、たかい」という遊び。

幼児は夢中になって、キャッキャと喜びの声を上げます。

このとき、親は子どもの喜ぶ姿に、無上の喜びを感じ、その親の喜びを子どももまた、感じとるのです。

親は子どもを喜ばせているつもりなのですが、子どものほうもまた、親を喜ばせているという気持ちなのです。

ちょっと注意深く観察すれば、自分が喜ぶ姿を見る親の反応を子どもが気にかけていることがわかります。

親の喜ぶ姿を見ることが、子どもの喜びを何倍にも増幅するのです。

子どもを人気のテーマパークや動物園に連れて行っても、携帯電話で仕事の連絡をしているとか、「連れてきてあげたのだ」というような態度をしめしていては、子どもは、自分が親のお荷物に過ぎないのだと、感じてしまいます。

子どもと一緒にいることを楽しんでいる親は、たとえ多少の不適合感を与えていたとしても、それを補ってあまりある自己価値感を子どもに与えてあげることができるのです。

※参考文献:なぜ自信が持てないのか 自己価値感の心理学 根本橘夫著