自己卑下する人は「逃げ場所」を探してばかりいると「日のあたる場所」にたどりつけない

誰もあなたを嫌ってなどいない

一見、親切そうに見える人がいる。

しかしその親切は防衛的性格としての親切、温かさ、思いやりである。

保身のために自己卑下する人は親切にしていても、実際の自分はそうではないと知っている。

心の底では自己卑下する人はなんとなく自分の親切がごまかしであると感じている。

すると、なんでもない他人の言動で自己卑下する人は実際の自分が責められていると錯覚する。

たとえば、ある人に「これしてくれなかったの?」と言われる。

それは単純な質問である。

しかし、その質問を「しなかった自分を責めている」と受け取ってしまう。

相手は単に質問をしているだけなのである

あるいは、その自己卑下する人が自分のことを「ああ、どうしてこんなことをしてしまったのだろう」とか「どうしてしなかったのだろう」と後悔していても、それを自分を責めていると受け取ってしまう。

あるいは「こうしていればなあ」と、相手が相手自身の願望を述べても、自分が責められているという感じを持ってしまう。

すると自己卑下する人は責められていることがおもしろくなくて、実際は自分を責めていない相手に怒りを感じる。

「私だってこんなに一生懸命しているのだ」と「責めていない」相手に自己卑下する人は不満を持つ。

しかもその怒りを自己卑下する人は表現できずにうっ屈する。

実際の自分に対するひけ目が自己卑下する人はこの被責妄想につながる。

そして「私だってこんなに一生懸命しているのだ」というのは言い訳なのである。

言い訳などしなくてもいいのに、自己卑下する人はいつも言い訳をしている。

相手は責めていないのだから、言い訳は必要ない

実際は親切ではない自己卑下する自分を隠すために、必要以上に親切になることがある。

必要以上のサービスを自己卑下する人はしてしまう。

実際の自分に自己卑下する人は罪の意識を持つからである。

そして相手にサービスをしたあとで自己卑下する人はなんとなく不愉快になる。

一生懸命頑張って生きている人がいる

実際の彼らは立派なのである。

しかし、自己卑下する人はなぜか実際の自分は価値がないと思いこんでいる。

いつも実際の自分が自己卑下する人は現れてしまわないかと身構えている。

そして嫌われはしないかと自己卑下する人は恐れている。

実際の自分が現れれば自己卑下する人は嫌われるに違いないと思い込んでいる。

その思い込みは防衛的性格が強固であれば強固であるほど強い。

「こうすれば必ず嫌われる」と自己卑下する人は思い込んでいる。

そんなことはないと相手が言っても信じない

また「そんなことはない」というようなことは一般には人から教わらない。

そこで自己卑下する人は「こうすれば必ず嫌われる」とひとりで固く思い込んでいる。

結果として自己卑下する人は、人に対してきわめて操作的になる。

好かれるためには自己卑下する人はこう言わなければならない。

ここでこのように言っておかないと、自己卑下する人はまずいことになる。

ここは黙っていれば相手は必ず自分に折れてくる

このように自己卑下する人はいろいろと相手に対して操作的になる。

どのような態度を相手にとるかで、自己卑下する自分が相手の気持ちを操作しようとする。

その結果、自己卑下する人は人とふれ合えない。

この自己卑下する人たちも努力をしながら人生がつらくなるばかりである。

歳をとると自己卑下する人は淋しくなる

損な人生である

自己卑下する人は皆、修羅場から逃げた人なのである。

修羅場から逃げてそのうえで自己卑下する人は努力し、頑張っている。

だから自己卑下する人は頑張ることの意味がない。

修羅場から自己卑下する人が逃げることは数字で言えばゼロである。

ゼロにはなにをかけてもゼロになる。

修羅場から逃げたらあとはどんなに頑張っても人生は開けてこない

自己卑下する人は、一生懸命生きてきても人生がどんどんつらくなっていく自分のうわべだけの立派さに気をとられてはいけない。

会社の仕事を自己卑下する人は熱心にしている。

よき家庭人である。

よく勉強をしている。

そのような「かたち」に目を奪われてはいけない。

どんなに立派なことをしていても自己卑下する人は、自分の心の中を見ることを拒否しているではないか。

あるいは人との関係でも自己卑下する人は修羅場から逃げている。

もしかすると家庭は家庭内離婚になっているのに、そこから逃げているのかもしれない

自己卑下する人はその家庭の葛藤に直面していくことを恐れているのかもしれない。

お互いにうまくいかなくなっているという事実から逃げている夫婦はたくさんいる。

離婚という現実から逃げて、立派な夫婦を演じ、子どもが思うとおりに成長しないと言って嘆く。

「私はこんなに真面目に努力しているのに」と自己卑下する人は不満を感じる。

「子どもがうまく育たない」と言って自己卑下する人は嘆く。

しかし、家庭がどこか温かくないから、子どもが心理的成長に失敗しているのかもしれない

離婚という修羅場から逃げる自己卑下する人は、思いやりや優しさに欠けている。

修羅場から逃げたら自己卑下する人の人生は開けない。

しかし正面からぶつかればそこで勉強することはある。

修羅場から逃げなければ修羅場から学ぶことはある。

それが人生のたくましさである。

人は逃げないで必死になればそこで勉強はできる。

しかし肝心かなめのところを逃げたら、あとは必死になっても自己卑下する人はその努力の効果は出てこない。

自己卑下する人がつらい体験をしたからこそ、思いやりのある人になれる

人は修羅場を体験してはじめて思いやりのある人間になれる

「こういうつらい体験がある」と知ってこそ、はじめて逆の立場の人にやさしくなれる。

修羅場から逃げている自己卑下する人はいつまでたってもわがままな人である。

周囲の人に自己卑下する人はわがままな要求を出す。

そしてそれがとおらないと自己卑下する人は不満を感じる。

不満になるのは、自己卑下する自分の要求を実現するのにどんな大変なことがあるかの陰の体験をしていないからである。

もしそれを知ったとしても、自己卑下する人は頭で知っているだけで体験していないからすぐに忘れる。

修羅場から逃げる自己卑下する人は何も学ばない。

自分が修羅場を体験した人は、人の痛みがわかるからやさしさ、思いやりが出てくるのである。

つらい体験をすると、相手の立場がわかる

断わってはいけない人に「断る」という体験をした人は、今度は逆に相手が断わりにきたときに相手の立場を理解する。

相手のつらい心中を察することができる。

自分のわがままがどれほど人につらい思いをさせるかがわかるからである。

しかし、おいしいところだけを食べてしまっている自己卑下する人は、本当につらいところの経験をしていないから思いやりがない。

甘い汁だけ吸っている自己卑下する人は思いやりがない。

だから自己卑下する人は人がついてこない。

修羅場から逃げた人は思いやりがない

自己卑下する人は人の痛みがわからない。

今まで犠牲になったことが自己卑下する人はないからである。

公的なことの解決のときでも自己卑下する人は、私的なことの解決のときでも、同じである。

修羅場から逃げる自己卑下する人は、どうでもいい自己満足の屁理屈ばかりを言っている。

心の底では自己卑下する自分が逃げていることを知っているから、自己満足の屁理屈を言っていないと気が済まないのである。

仕事中毒にしろ、屁理屈中毒にしろ、自己卑下する人は自然な態度がとれなくなる。

運の強い人は人の評判など気にしない、自己卑下しない

必ずしも真面目に努力することが望ましい結果をもたらさないように、「とにかく勝とう」とすることの結果も、たいていは望ましいものではない。

「優越すること」そのことが大切だというのが自己卑下する人の神経症的野心と言われるものの特徴である。

しかし、これはよい結果をもたらさない。

このような自己卑下する人も頑張る。

努力する。

まさに自己卑下する人は一心不乱に頑張るのである。

あまりいいことはなかった

自己卑下する人は頑張り抜いて結果は悪かった。

なぜだろうか?

それは、人を押しのける自己卑下する人のところにはいい仕事がこないからである。

心理的に満足している人のところにはいい情報が入る。

人を押しのけても自分が得をしよう、優越しようという自己卑下する人はのところにはいい情報が入らない。

やさしさのある人のところにはいい情報が入る

明るい人のところには人が寄ってくる。

当然いい情報も集まる。

眉間にしわを寄せて、険悪な顔をしている自己卑下する人のところに誰がいい情報を持ってくるであろうか。

明るい人には福が来る。

それは黙っていても人が福を持ってきてくれるのである。

チャンスが来れば、優しい人には周囲の人が「今がチャンスだ!」と教えてくれる

それにもうひとつ、「運の強い人は人の評判を気にしていない」。

逆に仕事で運に見離されたような自己卑下する人は人の評判を異常に気にしている。

つまり、「優越すること」そのことが大切な神経症的野心を持った自己卑下する人には運が向いてこない。

努力をしているけれど、やることなすことすべてうまくいかないのは、その自己卑下する人の日々心の姿勢が原因なのである。

「本当に好かれる理由」はこんなところにあった。

心が弱い人は、人から気に入られることが心の安定に必要である

自己卑下する人は、人から気に入られることで自分の存在証明ができる。

しかし、自己卑下する人は現実の自分を気に入ってもらおうとしているのではない。

「理想の自画像」を「現実の自分」として自己卑下する人は相手に認めてもらおうとしているのである。

もし彼らが、「現実の自分」を人に受け入れてもらおうとすれば自分に自信がつく。

そしてはじめて心配から解放される。

しかし、現実の自分ではなく、自己卑下する人は自分が演じる「理想の自分」を実際の自分として認めてもらおうとするから、いつになっても心が晴れないのである。

いつも何かが自己卑下する人は心配なのである。

どんなに見事に「理想の自分」を演じていても、実際の自分がばれることが心配である

隠しているものがばれるのが自己卑下する人は心配なのである。

「寛大にふるまうことによって、その同胞から無理にも賞賛を勝ち得ようとする人が少なくない。

けれどもそれはめったに成功しない」と、スイスの思想家ヒルティーは言っている。

寛大にふるまうことによって自己卑下する人は気に入られようとする。

しかし逆に自己卑下する人は軽く見られる。

人にものを与えることによって気に入られようとする自己卑下する人がいる。

成功することはまずない

たいてい自己卑下する人は軽く見られる。

やたら自己卑下する人はご馳走すること。

いい仕事を自己卑下する人はまわすこと。

誰に対しても自己卑下する人は金離れのいいこと。

何に対しても自己卑下する人はイエスと言うこと。

それらのことで自己卑下する人は相手の心をとらえることはまずない。

結果は逆である。

軽く自己卑下する人は見られてしまう。

ある有名人の話である。

劣等感から努力して自己卑下する彼は、今日の地位を築いた。

劣等感は成功によって消えるものではなく、逆に深刻になっている

劣等感をバネにして自己卑下する人は頑張れば、成功しても失敗しても劣等感は強化される。

その有名人は内面の不安を隠し、人にいい話をばらまくことによって人の気をひいていた。

すぐに人に自己卑下する彼はご馳走する。

わりのいい話を自己卑下する彼は周囲の人にまわす。

ものを自己卑下する彼は配る。

そして人は自己卑下する彼の周りに集まっていた。

しかし、自己卑下する彼は何か心が晴れない。

相変わらず自己卑下する彼の後ろ姿は淋しそうである。

彼のまわりに集まっている人々は心の底では彼を重んじていない

甘い汁を吸いたいから表面はお世辞を言うが、心の底では自己卑下する彼を軽く見ている。

それゆえ、自己卑下する彼が軽く見られていることを意識しているかしていないかはべつとして、自己卑下する彼はなんとなくすっきりした気持ちになれない。

なんとなく見えない不満が自己卑下する彼の心の底でくすぶっている。

そうこうしているうちに、自己卑下する彼の勢いにも次第に翳りがでてきた。

そんなとき、自己卑下する彼にとっては地獄の体験が訪れた。

それは、自己卑下する彼がある大事な人に素晴らしい意味のある仕事を頼んだ。

その人は喜んで仕事を引き受けた

しかし、それをべつの人に頼まなければならない事情が発生した。

はじめの人にその仕事を頼むことができなくなった。

そのときから自己卑下する彼の悩みははじまった。

こちらから頼んでおいて、喜んで引き受けてくれた人に、その仕事を断りにいかなければならなくなったのである。

相手は普段から自分にとって頭が上がらない人である。

彼は今まで、相手が喜ぶことを頼んでは相手の歓心を買ってきた。

今度は相手がいやがるようなことをしにいかなければならなくなったのである

単純に断わるのではない。

一旦頼んだことを断わるのである。

しかも、その仕事はその人の知り合いのところにまわさなければならなくなった。

二重にも三重にも悪いことが重なった。

彼はやつれていた。

今彼がやろうとしていることが、まさに本当に好かれることなのである

今までまわりの飴をばらまいて自己卑下する彼は好かれようとした。

楽をして自己卑下する彼は好かれようとしていたのである。

それが自己卑下する彼の今までの、人に好かれようとする方法であった。

だから、はじめのうち自己卑下する彼は、断りにくい。あやまりにくい。それが本当に好かれる方法であるという言葉が理解できなかったのである。

いつも自己卑下する彼はおびえていた。

彼にとっては世界ばかりでなく、生きていることそのことが恐怖に満ちていたのである。

生きることが自己卑下する彼は「怖い」。

心理的に健康な人が理解できないのが、この「生きることが怖い」という感じ方である。

自己卑下する人は「いやなこと」を避けてばかりいると、本当の自分を見失う

彼はまわりに与えるだけ与えた

しかし、それにもかかわらず自己卑下する彼の心はおびえていた。

好かれると思って自己卑下する彼はしていたことが逆であり、彼が格好いいと思っていたことが実はひとつも格好いいことではない。

あやまりにいかなければ自己卑下する彼はならなかった。

それが格好いいことである。

なおざりの謝罪はかえって相手の神経を逆なでする。

誠心誠意謝ること。

相手のところへ一刻も早く飛んで行って謝ることである。

今まで自己卑下する彼は、誠心誠意あやまるという重い体験をしていない。

彼の気持ちの腰が座っていないところだったのである。

人を喜ばすことで気に入られようとしていたから重い体験がない

要するに、自己卑下する彼は今まで修羅場から逃げてきた。

それほどまでにまわりの人に自己卑下する彼は尽くしながらも心理的やすらぎが得られなかったのは、彼が肝心かなめの修羅場から逃げて生きてきたからである。

どこかが自己卑下する彼の人生はおかしかった。

一生懸命自己卑下する彼は生きた。

努力も自己卑下する彼はした。

そして働いた成果は皆自己卑下する彼は、周囲の人に分け与えている。

それなのに自己卑下する彼は幸せにはなれなかった。

それなのになぜか人生は好転していかなかった

修羅場から逃げて自己卑下する彼が生きてきたからである。

自分の心の底にある劣等感とも自己卑下する彼は正面から向き合ってこなかった。

自分の心の中の孤独感とも自己卑下する彼は正面から向き合ってこなかった。

淋しい気持ちを自己卑下する彼は見て見ぬふりをしてきた。

それが修羅場を自己卑下する彼は避けたということである。

そしてそれを避けたからこそ自己卑下する彼は必死で仕事をし、勉強をした。

その淋しさを自己卑下する彼は周囲の人からの賞賛で埋めようとした。

彼は自分の心の底にあるものと正面から向き合うという修羅場を避けたからこそ、強迫的に仕事熱心にならざるを得なかったのである

頑張ったというが、それは自己卑下する彼が修羅場を避け、そのうえで頑張っていたにすぎない。

だからいくら頑張っても自己卑下する彼は幸せにはなれないのである。

頑張っても、頑張っても自己卑下する彼は何かうまくいかない。

すでに自己卑下する自分にとって何が望ましいのかもわからなくなっていたのである。

だから周囲から自己卑下する彼は尊敬されない、重く見られない。

自分にとって喜ばしい体験をどのようにして得たらいいかがわからなくなって、ただただ仕事をしているのが強迫性

目的地は自己卑下する人はわかっているのだが、どうしても目的地に行けない。

そんな状態である。

そしてその目的地に自己卑下する人は行こうと焦っている。

焦っているのだけれども、自己卑下する人はどうしてもそこへ行けない。

今度こそは自己卑下する彼は修羅場から逃げられなくなったのである。

彼は逃げて挫折するか、修羅場を迎えるかである。

修羅場から逃げないというのは、そのときの自己卑下する彼がもっともつらいこと、相手のいやがることをすることである。

彼のような神経症的な自己卑下する人は誰にでも好かれようとする。

皆に好かれることで自己卑下する彼は生きていこうとする。

しかし今度は、相手にとっていやな話を持っていかなければならなかったのである

嫌われることを自己卑下する彼は恐れた。

しかし、実は自己卑下する彼が「嫌われていると思っていることが、好かれることなのである」。

繰り返し述べるが、今までの自己卑下する彼は、相手の喜ぶような話を持って行って好かれようとしていた。

だから皆、自己卑下する彼を避けなかったかもしれないが、彼をそれだけの人間としてしか扱わなかった。

心の中では誰も自己卑下する彼を尊敬していなかった。

しかし、実は今度のような重い体験をすることによって、相手は「この人はたいしたものだ」と尊敬するのである。

今までは自己卑下する彼は心理的に楽をして好かれようとしていた。

だから周囲から自己卑下する彼は軽く見られていたのである。

自己卑下する人は相手の立場に立てば、自分のすべきことが見えてくる

彼はその場からすぐその人に、電話をした。

しかしそのとき相手はいなかった。

しかし、夜には相手が帰宅してきたので連絡がとれた。

彼は「会いたい」という旨を告げた。

相手は「急ぎますか?」と聞いてきた。

そこで自己卑下する彼は「急ぎません」と、答えてしまった。

なぜか?

相手に迷惑をかけるのを自己卑下する彼は恐れたのである。

相手の負担になることが自己卑下する彼は怖かったのである。

「急ぎません」ということでスケジュールは決まってしまった

ここまできてもまだ相手の負担を恐れて自己卑下する彼は、相手の心を理解できていない。

相手にしてみれば失礼な話なのである。

非礼きわまりない話なのである。

その失礼な話をするのに「急ぎません」と言われていたら、相手はその時どう思うか。

「冗談じゃない」と思う。

彼のような自己卑下する人は「好かれたい」「嫌われるのが怖い」と、そればかり考えている。

「迷惑をかけるのが怖い」と、そればかり考えている

自己卑下する人は相手の立場に立ってものごとを考えられない。

またしても自己卑下する彼は逃げたのである。

自分にとって心理的に楽な言い方をしてしまった。

ここで大切なことは、とにかく急いで相手のところへ行って「申し訳ない」と誠心誠意謝ることなのである。

その行動を見て相手は許す気持ちになるのである。

それなのに「急ぎません」と言ってしまえば、相手は「急ぎではない?ふざけるな」となろう。

自己卑下する人は行き詰ったら、一度逆のことをやってみよう

このようなことを一つ一つ確実に実行することで、人は彼を尊敬するようになる

彼を軽く見なくなる。

「行き詰ったら逆が真」という言葉がある。

彼も行き詰った。それは彼が正しいことの逆のことをしていたからである。

ある神経症者の自己卑下する人はその彼と同じく、人の喜ぶことをして、人に好かれようとしていた。

しかし、どんなに彼らが喜ぶようなことをしても、皆自己卑下する彼のことを軽く見ていた。

心の底では感じていた

意識はしていなかったが、どこかでそれを感じていた。

それが自己卑下する彼の理由なき不快感であった。

しかし、あるときに自己卑下する彼にとってもっともつらいこと、相手にとって不愉快な話をしなければならないことがあった。

ただ当時すでに心のどこかで、自己卑下する彼もそれまでの自分の生き方が間違っているということに気づきはじめていた。

今までは自己卑下する自分は人に好かれようと、すべてイエスと言い、相手に恩恵を与えて必死になって好かれようとしていた。

周囲の人に恩恵を与えているが、その動機を考えれば決して立派なことではない

自分を自己卑下する彼は売り込んでいただけではないか。

彼はそう心のどこかで気がつき始めていたのである。

そして自己卑下する彼は事件に出会った。

一度は相手の喜ぶ話を頼んでおきながら、自己卑下する彼はそれをなかったことにしてくれと頼みにいかなければならなかったことがあった。

彼はいやだいやだと思いつつ、時を過ごした

しかし、どうすることもできなかった。

そして彼は遂に肚を決めて断りに行く決心をした。

不思議なことに、そのとき彼はそれまでにない心の平静を感じた。

驚いたことに、心が信じられないほど澄みきっていた。

人に恩恵を与えて好かれようとしていたときには決して感じることのなかった、えもいわれぬさわやかさであった。

彼は自分で自分の心のさわやかさに驚いた

そのとき彼は夜の新幹線に乗って東京から名古屋まで飛んで行った。

誠心誠意謝ろうと思っていた。

座席に座りながら、心がはじめて自信に満ちていた。

相手が喜びそうな話を持っていくときには決して味わったことのない心の落ち着きであった。

相手があれだけ喜んだ話を「もう一度自分に返してくれ」と言うのは、当時の彼にとってもっともつらい体験であった。

当時の自己卑下する彼は、まだご馳走することで相手の歓心を買おうとしていた時期である。

拒否されることで自己卑下する彼は、心理的安全がおびやかされていた時期である。

拒否されると自己卑下する彼は、落ち込んでしまった時期である。

拒否するのも、拒否されるのも自己卑下する彼は、つらい時期であった。

※参考文献:感情を出した方が好かれる 加藤諦三著