自分に価値がないという感覚

期待された役割を生きている人の心の底には、自己無価値感が横たわっています。

この無価値感から逃れるために、「本当の自分」を肥大させざるを得ないのです。

自己価値感とは、文字通り、自分に価値があるという感覚のことです。

たとえ人と比べて劣っていても、未熟なところがあったとしても、自分はかけがえのない価値ある存在である、という感覚です。

自己価値感は、自信や、有能感、自尊心、自己肯定感などを含み、また、それらの基盤ともなる自分についての根底的な感覚です。

生育過程で自己価値感がしっかりと形成された人もいれば、無価値感を強く持ってしまった人もいます。

とはいえ、私たちはこの自己価値感をつねに意識しているわけではありません。

暖かな愛情に包まれていると感じたときや、一人の人間として尊重されていると感じたとき、あるいは、大きな仕事をやり終えたときなど、幸福感や達成感、充実感、成長感などとともに、自己価値の感覚を体験します。

これに対し、愛を失ったり、失敗したり、軽んじられたり、劣っていることが明らかになったり、本当の自分を生きられず、自分を偽ってしまったときなどは、無価値感にとらわれます。

このために、自己無価値感は、屈辱感、無力感、卑小感、不安、恐怖、孤独感、空虚感、絶望などの感情とともに体験されがちです。

また、自己価値感が希薄な人ほど自己価値感が脅かされるので、無価値感を頻繁に体験することになります。

自己価値感への欲求

自己価値感欲求は、人間にとって基本的な欲求の一つであり、私たちは意識的、無意識的に自己価値感を獲得し、維持し、高めようとします。

このために、人に愛されることを希求します。

愛されることは、愛されるほどの価値があるという自分の証明だからです。

また、親や教師、友達、社会から認められようと努めます。

賞賛されることは自己価値感を高めてくれるからです。

自分の力を伸ばし、自己成長しようと努力するのも、自己価値感欲求を満たしたいためです。

自己価値感を守ることは、ときには自らの命と引き換えにするほどの重さがあります。

たとえば、いじめられて自殺するほど辛いのに、そのことを親に訴えない子どもがいます。

親に言ったら、情けない自分の姿があからさまになってしまうからです。

言ったら、自分で自分の無価値さを確認することになり、耐えられないからです。

親からひどい虐待を受けている子どもは、その親をかばいます。

親にさえ愛されていないという事実を受け入れることが、耐え難い無価値感をもたらすからです。

子どもばかりではありません。

恥辱により自己無価値感を傷つけられて生きるよりも、死を選ぶ大人がいます。

基本的な欲求は満たされないと、その欲求への過度の執着が生じるという性質があります。

自己価値感欲求も同じです。

したがって、自己無価値感をもつ人ほど、強迫的に誰からも受け入れられることを求め、自分の力を誇示したがり、賞賛を得ることに執着し、軽んじられたり、嫌われることを極度に恐れることになるのです。

自己価値感欲求を満たそうとすることが、その人の人生を形つくると言っても過言ではありません。

なぜ、無価値感なのか

それでは、なぜ、期待された役割を生きる人の心の底に、自己無価値感があるのでしょうか。

それは、第一に、自分の感覚、感情、欲求、願望が周囲の人から大事にされてこなかったからです。

幼い子どもにとっては、自分の感情や衝動、願望が自分そのものです。

それが、尊重されないということですから、自分は尊重されるほど価値がないのだ、と受けとめてしまうのです。

むろんこうしたことは、子どもの時には意識的なものではありません。

無意識的であり、体感的ともいえるものです。

それだけに、深く根底的なものであり、その人の心のあり方を根底から規定するのです。

「幼い頃、たまにした両親との遊びは、ゲームをすることでした。

居間にまいたお菓子を、私と弟が輪投げゲームの輪を投げて取るのです。

硬い雰囲気の家庭でしたので、このゲームの時ばかりは暖かい家族団らんのようで嬉しかったのですが、小学校三年生ごろになると、芸をさせられるペットの心境のようなみじめさを感じていました。

自分は無価値なのだ、とはっきりと感じたときのことを覚えています。

それは、弟が病気になり病院のベッドで苦しんでいるときにも涙を見せなかった母が、面倒を見ていた猫が死んだ時に涙を流した姿を見たときでした。」(三十代 女性)

自己無価値感を持つ理由の第二は、期待された役割を生きている人が他者に隷従しているからです。

あちらでもこちらでも、気に入られるように、他の人の気分を害さないようにと、周囲の人の感情を中心にして行動しているのですから、自分は他の人ほどの価値はないと感じるのは当然のことです。

また、人からの承認と賞賛を求めているのですから、決定権は他者にあります。

このために、自分の主人公は自分ではなく、他の人ということになり、無価値感をもたらしてしまうのです。

「母を喜ばせたくて、いろんなことにがんばってきました。

それで、クラスではいつも中心的な存在でした。

演劇するときにも主役をもらいましたが、主役は母親であって自分はその召使いに過ぎない、と感じていました。

文化祭当日、誇らしげなのは母親だけで、自分の心は惨めなものでした。」

第三に、期待された役割を生きる自分によって得られる自己価値感は、「・・・になったら」という条件つきのものだからです。

すなわち、「何々ができるようになったら」「成績が上がったら」「賞をもらったら」「一流校に合格したら」「やせてスリムになったら」、そのとき、はじめて自分に価値が生じると感じられるものです。

ですから、「いま、ここ」の自分に価値を感じることができません。

いつでも「未来の、今とは違う自分」に価値を夢見るということになるのです。

本来の自己価値感とは、無条件性のものです。

自分の能力や容貌が劣っていようと、未熟だろうと、現在のあるがままの自分が受け入れられ、歓迎されているという実感です。

ですから、「いま、ここ」の自分でいられるのであり、自分の存在自体を信頼できるのです。

第四に、周囲の人への過度の配慮と献身が、自分の無力さを実感させ、いっそうの無価値感をもたらすからです。

他の人は確固とした「自分」を持っており、どっしりと動かないように感じられます。

それに対して、自分は相手次第で右に揺れ、左に揺れ、自分という核心が存在しないかのような頼りなさを感じます。

「偽りの自分」がいくら立派なことを成し遂げても、それは自分ではないのですから、「本当の自分」への自信にはつながりません。

だから、客観的に有能であっても、根底は自信欠如の状態なのです。

根源的な自信とは、自分の存在そのものを信頼するということです。

つまり、自己信頼です。

これに対し、何かを成し遂げることで得られる自信とは、能力への自信であり、これはその領域に限定的な自信です。

勉強はできても、社会で生きていく自信にはつながりません。

仕事では自信が持てても、仕事を離れた場面では自信が持てません。

このために、仕事で一定の有能さを発揮して自信が持てても、その後の人生のなかで再び根底の無力感が頭をもたげてくることが少なくありません。

たとえば、大きな責任を託されたり、部下を統率しなければならない立場になったりしたときなどです。

あるいは、失敗を許されない年齢になったときや、中年を過ぎ体力が低下し、気力が衰えてきたときなどです。

※参考文献:「いい人に見られたい」症候群 根本橘夫著